あの日の星
雨上がりの夜空には、星が綺麗に見えていた。
「そろそろ、失礼しようかな」
伊作の隣りで雑渡は言った。
急に雨に降られたと言って、雑渡が医務室の軒を求めてきたのが半刻前。今はすっかり雨も上がった。もう、雑渡がここに留まる理由はなくなったのである。
そもそも、雑渡は伊作に気を遣っている節があった。雨宿りをするのなら別に忍術学園でなくても構わないのだ。わざわざ人目につく危険を冒す必要もない。
つまり、雑渡は伊作に会うために雨を理由に立ち寄ったのである。
そういうさりげない態度でいる雑渡を伊作は好もしく思っていた。
ところが、今日の雑渡はいつもと雰囲気が違う。雨のせいで暗く見えるのかもしれないし、忍務で何かあったのかもしれなかった。しかし、伊作にはそれらを訊くことはできない。同じ忍びという立場であれば尚更、あれやこれやを訊ねることは作法に反するのだと理解できた。
「あまり遅くなると、尊奈門あたりが乗り込んできそうで怖いから」
雑渡は縁側から地面に下りた。縮みきった腰をうんと伸ばす。
「来てくださって嬉しかったです」
伊作は照れを隠せない顔で言った。
「わたしも会えて嬉しかった。雨に感謝しないと」
雑渡は自分の心を語らない。会いたかったとは決して言わない。辛いことも話さない。目の奥を悲しそうに潤ませていた理由も語らない。
けれど、伊作はそれでもいいと思っていた。雑渡の行動がすべてを物語っている。兎に角も、伊作に会いたいと思い、会いに来てくれたのだ。伊作はそれに応えるだけだ。
「見てごらんよ、伊作くん。星がとてもきれいだ」
雑渡につられて、伊作も天を仰いだ。青墨の空には光の粒がばら撒かれたように輝いている。
「本当ですね。今日の空は昨日の空よりもたくさん星が見えるような気がします」
「雨上がりで空が澄んでいるからね」
雑渡の胸が大きく上下した。伊作も大きく息を吸ってみた。冷やりした清清しい空気が胸の内に満ちる。
同じ空気を吸い、同じ様に息をしていることが嬉しかった。
「でも、不思議ですね」
「何が?」
伊作の呟きに雑渡は首を傾げた。
「昨日と今日で星が違うなんて……」
伊作は感嘆の声を漏らした。雑渡も関心を示すように頷いた。
「そうだね。見えたり、見えなかったり……。何が本当なのか分からないね」
まるで二人の関係のようだった。
雑渡も伊作も自分のことを深く話したことはない。互いのことを、ほとんど知らないと言ってもいいくらいだった。
それでも、ちっとも不快ではなかった。
会うたびに新しい発見があり、好きだと思える部分が増えていく。
これから先も、雑渡と伊作が見つけるのは答えではなく謎なのだ。
「でもさ。分からないことって楽しいと思わない?」
雑渡の問いに伊作は大きく頷いた。
「思います! 何だか胸が躍りますよね」
「忍者にとって探究心は大切なものだから、その部分は合格だね」
褒められて無邪気にはしゃぐ伊作を雑渡は目を細めて見ていた。
雑渡にとって伊作は謎だった。謎の極みといってもいい。出会った頃から今まで、疑問が解けたことがないのだ。
だから目が離せなかった。ついつい目を凝らして見てしまう。
そうしていると、いつの間にか子どものように純粋な気持ちになってしまうから不思議だった。嫌なことも忘れて、真っ白に洗われたような心持ちになる。
雑渡は伊作から目を離し、空を見上げる。
星は変わらず綺麗だった。この星空はどこまで続くのかと思うほど果てしない。見つめれば見つめるほど謎が浮かんでくる。
ふいに、伊作が含み笑いを漏らした。
「どうしたの?」
雑渡が視線を向けると、伊作は少しだけ頬を赤くさせた。
「いえ、ごめんなさい。ちょっと昔のことを思い出して……」
「何なに? 思い出し笑いをする人は助平って言うじゃない。ちょっと興味あるな、伊作くんの助平話」
「人の思い出を勝手に助平に染めないでください。しかも、その説って根拠薄いですし」
「オヤジジョークだから気にしないで。で? どんな思い出?」
雑渡が促すと、伊作はもごもごと口を動かした。
「雑渡さんは星に触りたいって思ったことありませんか?」
突拍子もない問いかけに、雑渡はしばし固まった。
「……え? あの空にある、あの星?」
「そうです。今見ているあの星です。僕は小さいころあの星に触りたくって仕方がなかったんです。それで、あの星が雪みたいに降ってくるのをずっと待っていたんです」
「……ずっと?」
「はい。雪が降りそうな寒い日の夜は、外に出て空を見上げていました。手がかじかんで、鼻の頭が真っ赤になって……。よく母親に叱られたものです」
雑渡には想像もつかない思考だった。子どもの時分はどうしてあの光の粒は浮いているのか、どうして角度が変わったりするのかと疑問には思ったこともある。でも、大人になるにつれ、そういうことを考える時間がなくなっていった。
タソガレドキの忍びは激務だった。特に、雑渡の若い時などはいくさ続きで、日にちどころか年も知らない間に変わっていく有様だったのだ。
身を犠牲にし、大怪我を負い、戦線から弾かれ、忍びとして生きていくことすら許されない時期もあった。
いつしか星に対する関心は薄れていた。星とはああいうものなのだ、と勝手に理解したつもりでいた。何よりも、夜空を見上げることがなかったかもしれない。伊作に会うまでは……。
「星には触れないってことには、いつ頃気づいたの?」
今の今まで信じていたらどうしよう、という一抹の不安を抱えつつ雑渡は伊作に斬り込んだ。
「忍術学園で長次と出会ってからです」
伊作と同級生の中在家長次のことである。
「長次は本をたくさん読んでいたから何でも知っていて……あれは空にへばり付いているものなのだと、渡来の書物になぞって丁寧に教えてもらいました。恥ずかしかったなあ……」
当時のことを思い出したのか、伊作は赤面して俯いた。
「かわいいじゃない。わたしは伊作くんのそういう純粋なところがいいと思うよ」
雑渡としては本心を言ったつもりなのだが、伊作はそうとは受け取らなかったらしい。 からかわれたと思ったのか少し頬を膨らませた。
「雑渡さんはないんですか? 星に触ってみたいと思ったこととか」
「ないよ」
雑渡はきっぱり応えた。
「ないんですか」
「思い当たらないなぁ……でも――」
「でも……?」
伊作は先を促した。縁側の端に座り上目遣いで見つめてくる。視線が絡む。その澄んだ瞳の中に、雑渡の姿が映っているのが分かった。
今まで、星に触れたいと思ったことはなかった。
でも、今ならそう思える。
伊作に出会った今だからこそ、そう思わずにはいられないのだ。
雑渡の目から悲しみの色はすっかり消えていた。
「わたしは、もう手に入れたから」
「え?」
「……失くして、忘れられて、捨てられて……探して、もうずっと星なんて見えなくて……でも、今は見えてる。とびきり綺麗な星に触れてる」
雑渡は伊作の頬に触れた。吸い付くような瑞々しい肌に目を細める。そのまま、降るようにして伊作を抱きしめた。
「っつ……雑渡さん?」
「もう少しこのままでいさせて。星は夜じゃないと見えないから……」
みじろぎする伊作をさらに強く拘束した。空が明るくなれば雑渡は伊作の前から姿を消さなくてはならないのだ。雑渡は伊作と別れ難さを感じていた。
「僕は星ではありませんから、明るいうちでも会えますよ」
伊作の湿った息が雑渡の頬にかかる。その感触に雑渡は目を閉じていた。
「……そうか。そうだね」
雑渡の力が緩むと、伊作は笑った。
「そうですよ。でも、雑渡さんが暗闇で困らないように星は無理でもせめて、ロウソクの灯りくらいには輝けるように努めますから。だから安心してくださいね」
伊作の言葉に雑渡の胸は塞いだ。
ただ眩しいばかりで、何も語る言葉が見つからない。
この世に、雑渡を迎えるためだけの光があることが心の底から嬉しかった。
空が白み始めた頃、雑渡の部下である諸泉尊奈門がやってきた。
雑渡は一足先に逃げていた。
尊奈門はカンカンに怒っていたが、ひとしきり悪態をついたあと、
「ありがとう」
と伊作に言った。
九年前の今日が、雑渡にとって、大火傷を負ってタソガレドキ忍者隊から除名された仔細ある日であったことを、伊作は後になってから知った。
幼いあの日に見た星が、雑渡の上にも降ってくれることを願った。
終わり 20120321