青嵐


 いのちは懸けるものなのだろうか。
 絶命してもいいと思える何かのために……。
 それは洗脳ではないのだろうけれど。
 それでも。
 何かとてつもなく大きなものに囚われている。
 自分のしたいこととか、なりたいものとか、そんなものには目隠しして粛々と。
 いのちは欠けていくのだろうか。
 単純といえば単純。
 難解とえいば難解。
 それでも決して複雑ではない。
 いのちを懸けようが欠こうが、それ相応の価値があるのだから。
 どんなに曲がりくねっていたとしても、結局、その思いが行き着く先は一つなのだから。
 だから決して、二つのものに囚われてはいけない。
 いけないのに。
 雑渡は天を仰いだ。青い空にやたらと雲が目立つ。膨れ上がるような木々の緑が風に吹かれて揺れるたび、雑渡の頭の隅を痺れさせていた。
 道を誤った覚えも見失った覚えもない。
 こうべを垂れる相手はこの世でただ一人だ。
 この頬をぶたれて構わないのも、あのお方だけだ。
 忠誠が還る場所は変わらない。
 それなのに。
 一体、いつ囚われたのだろう。
 雑渡の隣で草原がわずかに動いた。視線を移す。
 風に吹かれた丈の長い夏草が寝転ぶ少年の頬をくすぐった。
 心地よさそうに寝ていた伊作の目蓋がわずかに動いた。
 悪意の欠片もない穏やかな目が雑渡に無言で笑いかけてくる。
 陽の光に透けるような薄い体。つるりとした健康な肌。癖の強い髪。
 何一つ変わらない。
 甘い笑顔も頼りない体つきも、あまりにも変わりなくて、くらくらする。
 一気に、出会った頃に引き戻される。
 思わず、目を逸らしたくなる。
 火でさらに火を包み込んだような熱烈な衝動に駆られる。
 背中に滲んだ汗が風に冷やされていく。
「いい風が吹く季節になりましたね」
 雑渡の心中になどまったく構わない調子で、伊作は上体を起こすと大きく伸びをした。
「君は大物だね。タソガレドキ忍軍の頂点を目の前に力を抜ききっているんだからさ」
 雑渡は嫌味にしか聞こえない言い方をした。
 伊作の笑い声が辺りに弾けた。
「今更ですよ。雑渡さんがとても偉い方だというのは重々承知しています。でも、今は……」
 言いかけて、伊作の言葉を止めた。
 今の自分と雑渡の関係をどのように表現しようか少なからず迷っているようだった。
「今は?」
 雑渡は続きを促した。
 伊作は応えない。頭上の空の先にある何かを見つめていた。
 雑渡はそんな伊作の横顔をじっと見つめていた。先ほどまでは気づかなかったが、頬の辺りが少し引き締まったようにも思える。
 知らない間に大人になっているのだと思った。
 伊作は忍術学園を卒業し、十六歳になっていた。昔のように二人で会う機会はめっきり減った。というよりかは、ほぼ無に等しかった。
 家族、仲間、師弟、戦友、恋人、友人……。
 どれも違う。
 この世にある言葉では言い表せない関係なのかもしれない。
 変わりようのない関係。
 植物に土が、水が、光が必要なように、切っても切れない関係。
「考える間でもなく……」
 黙りこくっていた伊作が口を開いた。
「立場とか仕事とか何のしがらみもなく二人で居るときは、ただ、あなたと僕なんですから」
「そう。それはとても嬉しいな。大抵、変わらないものには飽きちゃうけど。でも、君の中での「あなたと僕」の関係が変わらないでいてくれると嬉しい」
「今もこれからも好きです。それで全部です」
 伊作は少し笑った。それは雑渡の知らない笑い方だった。
 初めから二人の道は分かれている。これから先も分かれ続けて、知らないものがどんどん増えていくのだ。
 こんなにも傍にいるのに。
 この気持ちをどうしたらいいのだろう。
 いつもお互いにそんなことを考えている。
「雑渡さんは余所見していられないだろうから……。僕にとっては全部ですけど、雑渡さんはほんのちょっと僕のことを思い出してくれればそれでいいですから」
 伊作は物分りよくそんなことを言った。伊作は雑渡に気を遣ったつもりなのだろうが、雑渡を落ち込ませるには十分だった。
「しばらく君に会いに来なかったことについては、非常に不義理に思っている」
 雑渡の言葉に伊作は慌てた。
「そんなこと言ってないですよ。それに、実際僕に構っている場合じゃないでしょう。あなたは重要な立場にある人なんですから」
 雑渡は首を横に振った。
「正直、伊作くんに会うのが怖かった」
「……どうして」
 伊作の瞳が揺らいだ。雑渡を怪訝な顔で見つめている。
「君が心変わりしていたらと思うと、わたしなんて邪魔なだけだろ」
「どこからそんな発想が出てくるんですか」
「自然な考えじゃないか。遠くに居たら、心も遠くなる……。伊作くんの気持ちを全部欲しいと思っているわたしが可哀そうだから……」
 主を持つ雑渡。主を持たない伊作。
 雑渡は伊作に自分のすべてを捧げることなど到底出来るはずもないのに、伊作のすべてを欲しがっているのだ。
 雑渡は伊作のようなひたむきさで応えることはできない。与えられた気持ちと同等のものを返すことができないのだ。
 確実に魂の奥底で惹かれ合っているのに、決定的に分かれているという現実。
 伊作を目の前にするたび、雑渡はそのことをはっきりと理解した。せざるを得なかった。
「時が止まればいいのに」
 子どもみたいな理屈をこねる雑渡に、伊作は笑った。
「僕は時々、あなたと一緒にタソガレドキに行っていたらどうなっただろう、と考えます」
 雑渡は一度だけ、伊作をタソガレドキに誘ったことがある。その誘いを当時の伊作はやんわりと断っていた。雑渡もそういう結果を予想していたのでなんの不満もなかった。それでこその伊作だとさえ思った。
 伊作はそのことを振り返っていると言う。
「もちろん楽しいばかりではないでしょうね。どこへ行っても忍びの仕事というものは厳しいのでしょうし……。でもあなたの傍にいられます。それはとても魅力的ですね」
「そうだね」
 やっとの思いで、雑渡は相槌をうった。
「それでもね、思うんです。タソガレドキにいたのでは、雑渡さんだけを想って生きられなくなるでしょう」
「わたしだけを?」
「タソガレドキの忍びは、どうしたってタソガレドキのために存在しているんですから。雑渡さん自身がそうでしょう?」
 その通りだった。
「会えなくなって、雑渡さんの匂いとか雰囲気とか少しずつ変わっていくのが分かって……。このまま知らない人になっちゃうんじゃないかって、不安にもなって……。あのとき付いて行っていれば違う人生もあったかもしれないって……振り返ることもあります。でも、こうして二人でいると、僕の時間も僕の体も……気持ちもあなたが欲しがっているものは全部、雑渡さんのためだけにあるんだと分かります。同等のものを雑渡さんに求めるつもりはありません」
「どうして? 求めてもいいじゃない」
  「タソガレドキのことを大切にしている雑渡さんが、僕は一番好きですから」
 そんなことを言われると、本当に大人になってしまったように思われてならなかった。実際は立派に大人と同様に扱われて遜色ない年齢なのだろうけれど。
 いのちを懸ける相手を間違えるなと、伊作は遠まわしに言ったのかもしれない。伊作に気を遣わせてしまった。
 ふいに、よく見知った少年が未知の人物に感じられた。
「なんか往生際が悪いですよね……。こうなることは……というか、離れて暮らすことは在学中から決めていたのに。雑渡さんを好きになったときに決めていたのに。何度も想像して、何度もへこたれて」
 伊作は自嘲気味に笑った。
「それでも。どんな最悪な想像に至っても……やっぱり雑渡さんのことが好きだと思えて。好きだとしか思えなくて……」
「……伊作くんってば、時々、私を言葉で殺すよね」
 雑渡が言い終わらない内に、ひと際強い風が吹きつけた。木の枝は逆立ち、草が地と平行に倒れる。一瞬の強風が過ぎ去ると、そこには緑の匂いが広がっていた。夏の初めには、よく嵐のような風が吹く。
「青嵐……」
 頬に張り付いた後れ毛を耳の後ろになでつけながら伊作が呟いた。
 雑渡は眇めていた目をゆっくりと開いた。
「ああ。さっきの風はすごかった。目にゴミが入って痛いよ」
 そう言うと、雑渡は違和感のある右目をしばたたかせた。眼球を指の腹で押さえてみるが、ちくちくと刺さるような痛みは取れない。
「あまり擦ると目に傷がつきます」
 雑渡が力任せにぐいぐい目に指を突き立てるのを見た伊作は、正面にまわり込むと慌てて雑渡の手を止めた。
「ちょっと上を見てください。ああ、違います。顔はそのままで目だけで上を……そうそう」
 伊作は雑渡の目の周囲を慣れた手つきで引っ張った。
「ああ。本当ですね。土埃かな……小さなゴミがいくつか……」
 水で洗い流したいが、手持ちの水もなければ周囲に川も見当たらない。
 雑渡がそんなことを考えていると、途端に視界が真っ暗になった。その変わりに、生温かい感触が眼球の上を這う。狭い視界の端でちらちらと赤いものが見えた。
伊作の舌だった。
「な、にを……」
 雑渡は伊作の肩をつかんだ。
「動かないで」
 伊作は動揺する雑渡に構うことなく眼球に添って舌を動かす。眼に痛みは感じないが、雑渡の頭の隅はじんじんと痺れていた。
 何も考えられなくなる。
 でも、どうしてだか、ただ幸せだった。
 大事な部分を晒せる相手がいるということ。
 躊躇わずに触れてくれる誰かがいるということ。
 雑渡が忠義を捧げる相手はこの世でたった一人しかいない。
 雑渡の忠誠を手に出来るのはその一人だけなのだ。
 それは伊作ではない。
 けれどそれでいいのだ。
 伊作は雑渡の主じゃないのだから。
 伊作は別の意味で、雑渡のたった一人なのだ。
 心が満たされる感覚など、まやかしだと思っていた。
 伊作と出会うまでは。
「ほら。取れましたよ。いち、にい、さん……三つも」
 伊作は舌の先をつまむと、その指に付いたゴミを得意満面の笑みで雑渡に見せた。
「君にしては随分と手荒な処置じゃないか」
 雑渡は瞬きをして、もう痛みがないことを確認した。
「嘘。やさしくしたでしょう。あと手荒じゃなくて、オトナな処置ですから」
「……それは官能的な何かを狙ったっていうことかい?」
「正面切ってそういうことを聞かないでください……」
 伊作は頬を赤くしたままそっぽを向いた。
「そういうところはまだコドモみたいで、わたしとしては安心しちゃうな」
 雑渡は笑いをかみ殺しながら言った。
「失礼な。僕だってね、色々考えちゃいますよ。さっきも……雑渡さんのこと攫って行っちゃいたいと思ってました」
「え?」
 伊作の真剣な表情に、雑渡はそれだけしか返せなかった。
「嵐みたいな風と一緒に、雑渡さんのこと攫って行きたいと思いました。できっこないんですけどね」
「君がわたしのことを攫うの?」
 伊作に抱えられた自分を想像したら可笑しくて、雑渡は噴き出した。
「笑うなんてひどい」
「いや、だってさあ……。絵にならないって言うかさあ……大体、伊作くんよりわたしの方が力あるし……」
「舐めないでください。僕だってオトナなんですから」
 伊作はバカにしたような態度の雑渡に食って掛かった。
 雑渡を攫うなどと言った相手は初めてだった。それが可笑しくてたまらない。しかし、無謀なように思えて、実は案外そうではないのかもしれないとも思った。
雑渡の身体はここにあるが、一生分の人を好きになる気持ちは、当の昔に伊作に攫われている。
 その事実が雑渡をたまらなく幸福にさせた。
 雑渡は伊作の耳元にくちびるを寄せた。
「もう攫われてる」
 耳まで真っ赤になる伊作に、雑渡も歯を出して笑った。


 終わり 
20110806


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