あわい


 夜になると雨は一層激しい降りになった。地面の砂埃を跳ね上げて降る雨は辺りを煙らせている。伊作は医務室の軒を細い滝のように伝い落ちる雨から自分の下に組み敷いた男へと視線を戻した。
「今出て行ったら滝修行って感じですね」
「修行って言葉は嫌いだよ。わたしは楽をして生きていきたい人間なんだ」
 横目で外の惨状を眺めていた男は、ぼんやりとした眼を伊作に向けた。薄暗い部屋の中で、その男の一つだけしかない目が妙に底光りして見える。
 何かに飢えている者の眼だと伊作は思った。
「それにしてもまいったな。これでは足止めだよ」
 言葉とは裏腹に男の声にはまったく焦りを感じない。
「足止め?」
 伊作は薄く笑い、互いの息遣いが分かるほど男に顔を近づけた。
「雑渡さんが素直に足止めされているのは雨のせい? それとも僕があなたを押し倒しているせい?」
「伊作くんが可愛いせいかな」
 雑渡の熱っぽい息が伊作の耳にかかる。伊作はくすぐったさに首をすくめたが、耳朶に絡んだはずの熱はあっけなく消えていた。
 いつかこの人の身体も熱を失う時がくるのだろうか。
 そう思うとふいに耳が疼いてくるような気がした。
 雑渡に会うたびいつも考えるのだ。人間が消滅するのにはどれくらいの刻がかかるだろう。
 きっとこの人は最期の言葉もなくこの世から消え失せるだろう。
 どんなにこの人の呼吸の熱さを知っていたとしても、どんなに伊作が拒んでも、あっけなく一瞬で、それが名誉なことだとでも言わんばかりの傲慢さで。
「僕が可愛いと言うのなら、ずっとここに居ればいいじゃないですか」
「それも面白いけど、駄目だね。わたしの存在はわたしの主のものだから」
 さらりとそんなことを言う雑渡に伊作は頭の隅が痺れた。思わず、雑渡の肩を押さえつける手に力が入る。
 雑渡は自らの持てるすべてを主に捧げているのだ。隠したり偽ることなく、忍びとしてその人の駒になろうと努めている。
 伊作の下にあるこの身体もその中に流れる血も視線も匂いも呼吸も、怪我の一つでさえタソガレドキ城主のものだと雑渡は言う。すべてその人のものだと。
 伊作の手に入るものなんて一つもないのだ。分かってはいたけれど、いざ現実を突きつけられると頭の中がかっと熱くなった。
 この肩でもいい。皮の一枚、指の一本でもいい。
 雑渡を形作るどの一つも伊作の手に入いらないのいうのなら、せめて雑渡が存在したという証拠が欲しい。
 伊作と雑渡が確かにこの世に息づいていたという証拠が欲しいのだ。もういっそのこと、狂ってしまいたかった。
「泣きそうな顔してるよ」
 雑渡の手が伊作の頬を撫でた。
「あなたが僕をこんな顔にさせたんですよ。あなたがこうして僕にされるがままになりながら、決して誰のものにもならないと……タソガレドキ城主のものにしかならないと言うから」
「そう……。わたしは主に否とは言えない。この身体は生まれて死ぬまでの間、主から借りているに過ぎないから」
 その言葉に、雑渡の揺ぎない意志を感じた。そう感じさせる圧倒的なすごみがあった。
「……羨ましい」
「え?」
 ほんの囁くような伊作の言葉を雑渡は聞き返した。
「雑渡さんに選ばれた人が羨ましい。あなたのすべてを手に入れた人が羨ましいんです。今、はっきりと分かりました。僕は嫉妬しているんです」
 誰に嫉妬しているとは言わなかったが、雑渡はすぐに伊作の内心を察したような顔つきになった。
「伊作くんが嫉妬する原因になれるなんて栄誉なことだよ。でもね――」
 雑渡の指が伊作の目蓋を這い鼻筋から唇までをなぞった。
「わたしだって嫉妬してるんだ。いつか伊作くんはうんと大人になる。この眼も鼻も唇も今よりずっと色んなことを知って大人になっていくんだと思う。その時、君の隣にいる人のことを想像するだけで嫉妬できるよ」
「その時に隣に居てくれるのは自分だとは言ってくれないのですね」
 伊作は雑渡をなじるようにして薄っぺらい笑みを浮かべた。
 雑渡の顔色が少し変わった。黒々とした眼の奥が透きとおって青く見える。雑渡の眼の奥底にあるのは飢えでも何でもない、ただの悲しみなのだと伊作は理解した。
 伊作は雑渡の眼をそっと舌で舐めた。眼球にそって舌を這わせながら、雑渡の悲しみが一掃されればいいと強く思った。
 くすぐったそうにして雑渡は籠もった笑いを漏らした。
「君と出会って日が浅いはずなのに。それなのにわたしはもうずっと前から君のことを知っている気がするんだ。主よりも家族よりも仲間よりもずっと君のことを分かっていて、不思議なんだけどそれが当たり前のことみたいに思えるんだ。だから君に選んでもらえて嬉しかった。こんなわたしのことを手に入れたいだなんて思ってくれて本当に嬉しくて……」
「そんな……」
 感情の渦が流れ出し、伊作の胸は塞がった。雑渡の真摯な言葉を前に、伊作の自嘲的な笑みが本当にバカみたいに思えた。
「伊作くんに出会うまで、わたしはわたしが分からなかった。分かる必要もなかった。だってわたしはただの駒だったから。駒に意志は必要ない。でもへんてこりんな忍者の卵に出会って――」
「へんてこりんは余計です」
 伊作が頬を膨らませると、雑渡は小さく笑った。
「だって、合戦場で手当てしながら歩き回る忍者なんて初めて見たからさ。驚いたよ。驚いたけど伊作くんはちゃんと伊作くん自身なんだと思った。伊作くんには自分の行動に対する明確な意志があった。圧倒された。伊作くんのことを知りたいと思ったとき、わたしの心は初めてわたしのものになった」
 雑渡は伊作の唇をなぞった指をそのまま伊作の胸へと下ろした。
「君にわたしの命はあげられないけれど、わたしの心をあげる。わたしの身体はすべて主のものだけど、わたしの心は君だけのものだ。わたしはたったそれだけのモノしか持っていないけれど、君だけに捧げたい」
「雑渡さん……」
「だから君は覚えていて。わたしのすべて……」
 伊作は言葉にならない返事をすると、雑渡の上に崩れた。心臓の音が耳に心地よく響いてくる。
 この音が途切れ、やがて消滅するまでにはどれくらいの刻がかかるのだろう。次々に生まれてはしぼんでいく脈。誰もがその流れのあわいを生きている。その立ち会ったすべての瞬間が思い出に変わるまで。
 誰かを選ぶということや誰かの心を受け取るということは、雨も命も心も、やさしく巡る仕組みがあるのだと理解して……覚悟することなのだ。
「雨、止みませんね……」
「感謝しなくちゃね」
 まんざらでもなさそうに言う雑渡に、伊作は含み笑いを漏らした。
 先ほどよりも降りは弱い。夜明け頃には止むのだろう。
 晴れ渡る朝を思いながら、伊作は雑渡に身体を預けていた。

  終わり 
20110619

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