盆踊り


 日が沈んでもじっとりと粘つくような暑さは変わらない。しかし、時折吹いてくる風が襟元から滑り込み幾分かの心地よさをもたらしていた。木々の生い茂った境内に吹く風はどこか冷たく感じる。
「尊奈門さん、驚いてましたね」
 伊作は隣で夜店を物色する男に向き直った。柿渋染めの巾着を眺めていた大柄の男はにやりと笑った。巻かれた包帯の隙間から赤い唇が覗く。
「あの驚き様は忍者失格だね。でっかい声で「なんで、組頭がこんなところにいるですかっ!」だなんて。公衆の面前で組頭なんて言うから慌てて口を塞いだよ。まったく、どういう教育を受けているんだか」
「……まあ、雑渡さんが指導者ですから仕方ないかと……」
「それもそうか」
 雑渡と呼ばれた男は妙に納得したように頷いた。
「ちょっと。そこは怒るところですよ」
「そうなの?」
「そうですよ。こんなちんちくりんの子どもに言いくるめられて……」
「ははは。伊作くんに言いくるめられるなんて望むところだよ」
 伊作と雑渡は端から見れば、どういう関係なのか判然としなかった。伊作は齢、十五。対して雑渡は三十六だ。見ようによっては親子にも思えるし兄弟、師弟という見方もでき る。
 実際のところ、当事者の伊作自身にもよく分からなかった。
 タソガレドキ忍者隊の忍び組頭である雑渡昆奈門と伊作はひょんなことから知り合いになったのだが、今のところそれ以上の関係ではないと思っていた。……友だち、ともまた違う。
 もっと別の。何か。一言では説明がつかない何か、なのだ。
 顔見知りというだけなのに、雑渡はよく忍術学園に遊びにくる。正確には伊作に会いに来ているのだ。それくらいは、なんとなくではあるが伊作にも感じるものがあった。
 雑渡は伊作に興味があるのかもしれない。雑渡にとっては伊作のように忍者にそぐわな い忍者(のたまご)というのも珍しいはずだ。ちょっかいをかけて、おもしろおかしく観察してやろうという筋かもしれない。
 けれども、それだけではないはずだ。
 ふとした瞬間に感じる、伊作に向けられる視線や言葉遣い。心を許したような表情。熱を持った声。
 そして、それに応えようとする伊作自身の心。
 もう答えが出ているようでいて、実はそうじゃない。曖昧で不明確だ。
 伊作が雑渡の問いに応えようとしても、雑渡は心を隠してしまう。
 雑渡は近付けば遠のく陽炎だ。
 水がするりと手のひらを通り抜けていくように掴めない。
 闇を捕まえることが出来ないように。
 実体のない幻のように。
 けれども、まあ、懇意であることは確かだ。
 今日、伊作が夜の境内にいるのも雑渡に誘いを受けたからなのだ。
 伊作と雑渡は不定期に神社の境内で開催される忍者のフリーマーケットに来ていた。何でも、雑渡の部下である諸泉尊奈門が嵌っているということで、いきなり登場して驚かせてやろう、という魂胆だったのだ。案の定、雑渡の目論見どおりになったのだが。
「これを一つおくれ」
 伊作があれこれ思案している内に品定めは終了したらしい。雑渡は先ほど手にしていた巾着の代価を店主に支払っていた。
 雑渡が手に入れたのはいい色に染まった小ぶりの巾着だ。
「素敵な品ですね。誰かへのおみやげですか?」
 薄暗い境内でも雑渡が選んだ品物の上品さが窺えた。作りもしっかりしているし、何より染め具合が綺麗だった。大きさも小銭や小物を入れたりするのにちょうどいい。
「うん。伊作くんへ」
「僕に?!」
 思ってもみない返答に伊作は本気で慌てた。
「僕にって、ええ? 僕に下さるんですか」
「そうだよ。君へ。雑渡昆奈門から善法寺伊作へ」
 雑渡は無造作に伊作の手に巾着を持たせた。伊作は戸惑った。けれども、雑渡の善意を拒む理由もない。
 伊作はそれを押し頂くようにして受け取った。揉み込まれた麻の感触が手に馴染んでいくようだった。
 伊作は驚きと嬉しさとで何を言ったらよいか分からず、口をパクパクさせながら贈り物と雑渡の顔とを交互に見つめた。
「鯉みたい」
 雑渡はからかうようにして笑った。雑渡は笑うと目が細くなってやさしい顔になる。伊作はいつもこの顔に胸がきゅう、とした。今が夜でよかったと心から思った。きっと伊作の顔は真っ赤になっているはずだ。
「……でも、僕、本当に嬉しくて。あの、なんとお礼を言ったらいいか」
「いいのいいの。わたしがしたいことをしているだけなんだから」
「でもどうして……」
 伊作は疑問を口にした。確かに、立ち寄った夜店の中ではこの柿渋染めの店が一番、伊作の関心を惹いた。それは事実なのだが、そのことを雑渡に言った憶えはないのに。
 雑渡は少し照れたようにして肩をすくめた。
「前に、伊作くんが不運にも巾着を失くしたって言っていたでしょう?」
「え、あ、はい。用事があって町に出たら、それまで晴天だったのにいきなり雨が降ってきて、大変だって走ったらなぜか滑って川に落ちて流されて、それから……」
「不運だ」
「えへっ」
 とりあえず照れてみた。
「無駄に照れるんじゃないよ。まったく、君はいくつ命があっても足りないんじゃないか。心配でわたしの寿命の方が先に尽きてしまいそうだよ」
「それは大変です。なんとかして孝行しますから」
「頼むよ」
 雑渡は念を押すように言った。伊作は俯いて笑った。嬉しかった。
 伊作が巾着を失くした話をしたのは随分と前のことだ。それを聞き漏らさず、さらに忘れていなかった雑渡はなんてそつがないのだろう。
「ありがとうございます。大事にします」
 巾着を大事そうに懐にしまう伊作を見て、雑渡は満足そうに頷いた。
 店の主人に頭を下げてその場を立ち去ろうとしたとき、後方でお囃子が聞こえた。見ると、大きな火が焚かれ、その周囲に人が集まっている。どうやら村人たちの踊りが始まるらしい。
「行ってみましょうか」
「えー。わたし踊れない」
 雑渡は少し顔をしかめた。
「見るだけでも、ね。せっかく来たんですし。醍醐味ですよ」
 伊作に促されて雑渡はしぶしぶ明るい方へ足を向けた。
 炎の周囲は真っ暗で、とても幻想的だった。火を囲んで躍る人々を眺めていると不思議な気持ちになってくる。
「そういえばさ、今って盆なんだよね」
 雑渡が呟いた。
「そうですね。ああ、夏休みの宿題が憂鬱です」
「ふふ。学生らしいね。宿題か……。あ、わたし墓参り行ってないや」
「行ってくださいね」
「別にいいかな。親父とお袋の墓は山本がするんだろうし」
 伊作は弾かれたように雑渡の横顔を見た。高い鼻筋が炎に照らされて真っ直ぐに赤い。
 墓参りには行った方がいいと忠告するつもりだったが、出てきたのは別の言葉だった。
「……お父さんとお母さん、亡くなっているんですね」
「ああ。仕事中にね。名誉なことさ」
 何でもないように家族を語る雑渡を伊作は黙って見つめていた。
 タソガレドキの忍者は、その大半が郷里で育った忍びを生業とする筋の者だという。忍びの一族に生まれるということは相当な覚悟を持って日々を生きるということなのだろう。いつ死ぬかも分からない毎日だから、一つ一つの交わす言葉、出会う人を大切に思わなくてはならないのだ。
「伊作くんが気に病むことじゃないよ。他人の様々なことまで背負っちゃうのは君の悪い癖だ」
 雑渡の視線は躍る人々に注がれている。
「知っているかい。盆の踊りっていうのは、霊とともに踊りあの世へ送り出すためのものらしいよ」
 狂ったように踊り続ける列は闇から現れ、また闇に消えていく。まるであの世とこの世を行き来しているみたいだ。
 辺りは賑やかなのに、どうしてか、雑渡の周りだけはしんと静まっているようだった。
 ふいに、雑渡が闇の中へ飛び込んでいってしまうような気がした。伊作がもう二度と掴めなくなる常闇の中へ。
「僕は雑渡さんのためになんて躍りません」
 伊作は雑渡の袖口を掴んだ。
「雑渡さんは、まだあちら側へは行かないでください」
「……」
 雑渡は少し困ったように伊作を見つめた。
「お願いです。行かないで……」
 伊作はもう一度、すがるように言った。雑渡の目が緩んだ。
「わたしも一応、忍びではあるからね。急にあの世からお呼びがかかって行くこともあるかもしれないね」
 それは、あまりにも悲しくやりきれない言葉だった。
 分かってはいた。よく忍びというものを理解しているつもりだった。けれど、雑渡昆奈門という人間を知れば知るほど、伊作は自分の未熟さを思い知らされた。
 大事にしまった柿渋染めの巾着が本当に切なかった。
 今だったら分かる。なぜ雑渡が伊作に気持ちを伝えなかったのか。そして、伊作に応えさせなかったのか。
 伊作の胸には再び悲しみが広がった。雑渡の気持ちに、そしてそれに対する応えに、決して気づいてはいけないのだと悟ったのは、まさにその時だった。
 これからも伊作と雑渡は掴めないものを掴む様な関係なのだ。
 それでもいい。
 それでも、いい。
 だから。
「もしも、雑渡さんが連れて行かれるようなことがあったら、僕が必死に引き戻しますから」
 伊作は約束を求めて小指を差し出した。
「おや。簡単には行かせてくれないんだね」
「当たり前ですよ。雑渡さんにあっさり居なくなられたらタソガレドキの皆さんが困ります。暢気に踊っている暇なんかありませんからね」
「君は?」
「へ?」
「伊作くんはわたしが居なくなったら困る?」
 試すような問いにも伊作は素直に頷いた。
「ええ。とっても。治療とか薬の実験台がいなくなっちゃいますもの」
「色気がないね」
 嬉しそうに言いながら、雑渡は伊作と指を絡ませた。
 今だけ、今だけだ。
 伊作は自分に言い聞かせ、湿った指をいつまでも離さなかった。
 風に煽られた火柱が闇を拭うようにうねっていた。


 終わり 
20120804



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