花影


 桜はこの人に似ている。
 厳しい冬に耐え、つぼみを膨らませ、静かに花開く。
 匂いもなく、音もなく散り、一抹の寂しさを残す。まるで夢だったとでもいうように。
「何を考えているの?」
 満開の桜の下で寝そべりながら、雑渡は酒の杯を傾けた。
「何も」
 背を桜の幹に預け、伊作は笑った。
 見上げれば青空を覆うほどの花が広がっている。春の風が吹く。二人に落ちた花影が揺れる。
 腹這いになりながら、雑渡は手酌で酒を楽しんでいた。
 今日は二人で花見に来ているのである。
「伊作くんもどう?」
 雑渡は酒で満たした杯を伊作の鼻先へ突き出した。
「いえ、僕は……」
「酒は苦手かい?」
 苦手ではない。むしろ、伊作は酒に強い方だった。酒豪というわけではない。しかし、毒にも強いこの身体が酒ごときで酔うはずもなかった。
「苦手ではありませんが、せっかくあなたが味わっているものに手を出すなんて……」
 言い終わらない内に、雑渡の手が伊作の後頭部を掴んだ。強引に口を重ねられる。
 伊作の口端からは酒が垂れていた。雑渡が自ら含んだ酒を伊作の口に移したのだ。
「美味いだろう?」
 唇を離すと、雑渡はにっと笑った。
「戯れが過ぎます」
 伊作は手の甲で口の端を拭った。怒ってはいない。ただ、人目に触れてはいまいかと危ぶんだだけだ。
「安心おし。こんな山奥なんだ。誰も見ちゃいないよ」
 雑渡は、まるで伊作の心を読んだかのように言った。そのまま、伊作の上に覆いかぶさる。
「ちょっと、何を――」
 伊作は首筋に舌を這わせる雑渡の肩を賢明に押す。
 その間にも、雑渡は伊作の上衣を剥がすことに余念がない。
 いつもの雑渡ではないような性急さがあった。
「どうしちゃったんですか!」
「うん?」
「いつもだったらこんなこと……」
「嫌かい?」
 雑渡と視線が絡む。その訊き方はずるいと思った。
「酔ったのさ」
「……嘘つきですね」
 雑渡は顔色一つ変えていない。そうでなくても雑渡は忍びだ。忍びは酒に強くなくてはならない。忍務の際、酒の席も想定される。そこで酒に飲まれないためだ。一升も飲んでいない雑渡が酔うなど、ありえない話なのである。
「嘘じゃない。伊作くんに酔ったのさ」
「はい?」
 歯が浮くような科白に、伊作は顔を赤くさせた。
「何を言って!? なんて恥ずかしい」
 雑渡の指が伊作の髪をほどく。その一房を指でもてあそびながら、雑渡は耳元に顔を寄せた。
「恥ずかしくなんかないさ。わたしだって男だよ。惚れた人に触れたいと思う、ただの男だ」
 耳朶に息がかかる。その感触に指の先まで震えた。
 雑渡はどこまでもやさしかった。伊作に触れるその一つ一つがやさしい。
 やさしい人なのだ。
 この桜のように、厳しさに耐え僅かな時間咲きほころんだ後、ひっそりと散っていく。誰にも知られることなく静かに。やさしい人なのだと知られることもなく。まるで夢だったとでもいうように。
 桜は満開だった。
 絶頂の後は散るだけだ。
 美しい記憶を残して。
「……雑渡さん」
「うん?」
「お互いに想い合っているからといって何でも許すわけにはいきません。さっき、僕に無理やり酒を飲ませましたよね」
 伊作はわざと強い口調で言った。
「ごめん。そんなに嫌だった? 本当にごめん」
 雑渡は大きな身体を小さく丸めて謝った。そんな雑渡が可笑しくて伊作は声を立てて笑った。
「罰として――」
 伊作は酒を注がれたままでほったらかしになっていた杯を一気にあおった。雑渡の襟首を掴み唇を重ねる。雑渡の喉元が上下に動いた。
「ぷはっ。どんなもんですか!」
 伊作は豪気に言い放った。雑渡はしばし呆然としてたが、やがて弾かれたように笑った。
「こんなに美味しい罰なら大歓迎なんだけど」
「歓迎されたら罰にならないじゃないですか」
 伊作は拗ねたふりをしてそっぽを向いた。雑渡はひたすら甘い言葉で伊作を宥めている。
 幸せだと思った。この時間が心地良い。そして、この平穏さは夢ではない。幻ではないのだ。
 触れる手も甘い言葉もまったりとした酒の香もすべてが本物だ。伊作の目の前に確かなものとして在る現実だ。
 雑渡も伊作も夢ではなく現実を生きている。夢ほど甘くはない現実を。
「雑渡さんは桜に似ています」
 伊作の囁きに、雑渡は目を丸くさせた。
「わたしって、そんなに可憐かな?」
「音も匂いもなく、僕の前から姿を消してしまいそうで……」
 それ以上は言えなかった。
 伊作の心を読んだのか、雑渡は何も言わず、ただ伊作の肩を抱いていた。
 やさしい人なのだ。
 この人は本当にやさしい人なのだ。
 伊作は揺れる花影に呟いてみた。


 終わり

20120413


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