星よりも確か


 都合のいい話だと思う。
 雑渡は辻堂の軒から朱に染まった空をぼんやりと見上げた。
 夕暮れが近いせいか、町から距離のある山道には人の気配がしない。
 奪うことと与えることの比重が合わない生き方をしてきた。
 それは仕方のないことではない。嫌々やってきたわけではないのだ。
 雑渡はそういう場所に生まれついたし、それが当たり前だと思って生きてきた。
 だからいいのだ。
 自分を貫こうとして、誰が助かろうと誰が犠牲になろうと、そんなことに思いを馳せてはいけない。
 それなのに。
 どうして今更。
 本当に今更。
 伊作の味方でいたいと思ったのだろう。
 世間知らずで不運で。
 底抜けの善意と朝のように輝く笑顔と、洗いざらしのような真っ白な心を武器に。
 伊作は容易く雑渡を捕らえた。
 そんな人間は今まで一人としていなかった。
 ……白に魅せられたのだろうか。
「この歳で色に溺れるなんて。何十年忍者やってんだよって感じ」
 雑渡の呟きに、隣に座って竹筒の水を飲んでいた少年が盛大に中身を噴き出した。
「伊作くん、大丈夫? 顔が汚いよ」
 雑渡の冷静な突っ込みに、伊作は咳き込んだ。
「雑渡さんがとんでもないことを言うんですもの」
 伊作は耳まで真っ赤になっていた。
 笑いを堪えながら、雑渡は自分の袖口で伊作の口から顎にかけてをぬぐってやった。
「いいですよ、これくらい自分でできます。汚れちゃいますよ」
「いいからいいから。噴き出させたのはわたしだからね。責任は取るよ」
「責任だなんて大げさな」
 照れながらも伊作は雑渡にされるがままになっていた。
「どうして来てくれたの?」
「どうして、とは?」
 伊作は首を傾げた。
 この山道の辻堂を待ち合わせの場所に指定したのは伊作であるが、星でも見ようと誘ったのは雑渡の方だった。
「だって、来てって言われるから……」
「……ちょっと待て。君は、誰からの召集でも応じるのかい?」
 伊作はかぶりを振った。
「まさか。雑渡さんだからですよ」
 伊作は俯き、もじもじと指を組み替えていた。
 不意打ちの可愛さだ。
 ここで抱きしめちゃっても罪にはならないと思うが、まだ明るいのでやめておくことにした。
 もしそれを実行に移したら、伊作は目も当てられないほど真っ赤になるに違いない。
 雑渡自身も伊作の感触が残ってしまう行為は避けたかった。
 忘れられなくなるのは怖い。
 こうして伊作と会うことを望んでいるのに、とんだ矛盾だ。
 ふいに、足元に落ちる影が見えないことに気が付いた。
 辺りはすでに薄暗く、遠くに一番星の輝きが見えた。
「もう少しそちらに近づいてもいいですか」
 伊作の突然の提案に、雑渡はぎょっとした。
 まさか、伊作の方から誘われるとは思いもしなかった。
「……嫌ですか」
「いや、べつにかまわないけど」
 しどもど応える雑渡に、伊作は安堵の表情で近寄ってきた。
 そして、雑渡の股の間にちょこんと座った。
「なぜここに」
「いけませんでしたか」
 こちらを振り向き、不安げに見上げてくる伊作は、雑渡の動揺を知ってか知らずか、少しだけ笑っていた。
「駄目じゃないけど……。変なことしちゃうかもよ」
「星を見てください」
 にべもなく言われ、雑渡は苦笑いになった。
 薄墨の空に、光の粒が瞬いている。
「雑渡さんに会えるのが、ずっと楽しみでした」
 伊作がぽつりと呟いた。
「だから雑渡さんの傍にいたいんです。今、雑渡さんは僕だけのものです。ずっと待っていたんです」
 虫のいい話だと思った。
 人の厄災にしかならない雑渡が、誰かに身を預けられている。
 こんなにも美しい星の下で、それ以上に美しい心を持った人に触れられている。
 胸が、痛い。
「わたしは君を悲しませるよ」
「……はい」
「わたしは君を泣かせるよ」
「……はい」
「わたしは君を傷つけて、心配させて……」
「喜びと笑顔と安心は、ぜんぶ僕が持って行きますから。だから、雑渡さんは何も持たずに会いに来てください。僕はいつだって雑渡さんの近くにいますから。だから大丈夫です」
 振り向き、伊作は笑った。
 その頭越しに星は白く光る。
 つかめそうで遠くにある星。
 でも、今ここに、星よりも確かで温かな手ごたえがある。
 雑渡は伊作から与えられたかったのだ。
 いくらかの愛と、いくらかの赦しを。
 だから、もう少し都合のいいままでいさせて欲しい。
 君にすべてを与え尽くすまでは。


 終わり

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