異形の青


 狂っているのだと思う。
 伊作は空を振り仰いだ。秋を象徴するような高い空には雲ひとつない。どこまでも突き抜けるような青が広がっていた。その天空を我が物のように鳶が飛ぶ。
 呼び出された廃寺には、その呼び出した張本人の姿はまだなかった。遅れて登場してやるつもりだったのに、結局約束の時間よりも早く到着してしまったらしい。
「これじゃあ、ぼくがものすごく張り切っているみたいじゃないか」
 なんだか、おもしろくない。
 廃れた堂の縁に腰掛けながら、伊作はため息をついた。まったく、自分の律儀な性格が嫌になる。
「雑渡さん、ぼくに一体何の用があるんだろうか」
 ひょんなことから雑渡には度々世話になることもあった。しかし、本来は忍術学園の生徒、つまりは半人前の忍者と本職の忍者である。真っ直ぐ見たって斜めに見たってそれほど深い接点など無いはずなのである。
 それなのに呼び出されるとはどういうことか。そしてその呼び出しに見事応えてみせたこの自分の醜態はどうなのか。
 まったく、狂っている。
 本日何度目になるか分からないため息をつこうとしたとき声が降ってきた。
「知ってるかい。ため息をつくたびに幸せが一個遠のくんだってさ」
 視線を上げるといつの間にか待ち人の姿があった。一拍おいて悪寒が走る。
 雑渡はこれだけの至近距離になっても気配を一切感じさせなかった。ありきたりだが、すごいとしか言いようがなかった。こういうちょっとしたところに、積み重ねてきたものの違いを感じるのだ。
 落ちぶれた出家姿の雑渡に向かい、伊作はちょっと笑ってみせた。
「お久しぶりです、雑渡さん。で、今日は何の御用ですか」
「性急だね」
 雑渡がにやりと笑った。伊作の隣にどかりと座る。
「久しぶりに会ったんだから、もっとこう……ほら、近況報告とかさあ」
「そんなことしてどうするんですか。乳臭い忍たまの動向が気になりますか」
 どかりと男らしく座ったくせに横座りをしている、なんともちぐはぐな男に、伊作は胡乱げな視線を送った。
 この男は常に読めない。読ませない。うっかり気でも許せばもう終わりだ。大事なものを根こそぎ持っていかれてしまう。そんな危うさがあった。
 雑渡は借りがあるなどと理由付け、必要以上に伊作の間合いに入ってくる。伊作にしてみれば貸しをつくったつもりも、恩を着せた覚えもない。雑渡のことを義理堅いと言えば聞こえはいいが。
 しかし。
 雑渡の目的など見当はついているのだ。おそらく、伊作から忍術学園の情報が引き出せないか、虎視眈々と狙っているのだ。このタソガレドキの忍組頭にとって伊作は、これ以上ないカモにちがいないのである。
 だから伊作は隙など作らない。心も開かない。向ける笑顔もどこかから借りてきたものを貼り付けたに過ぎない。
 敵か味方かも分からない現状なのだ。めったな行動はとれない。かわいい後輩たちを護るためにも。
 雑渡の右目がぎょろりと動く。
「随分と自虐的じゃないか。そこがまた、そそるのだけれど」
 その低い声が伊作の耳にこびりついた。妙な気分だった。耳の穴から進入した熱いものが四肢を巡り舌を痺れさせる。これはこの男の術なのか。
 ならば、はまってなどやるものか。
 ――いずれにしても、まだ狂うわけにはいかない。
 伊作はかぶりを振った。
 頭上を鳶の影が横切る。
 気が抜けたその瞬間、よもや肩が外れるかという勢いで張り倒された。転地がひっくり返る。背中を叩きつけられ、思わず咳き込んだ。
 伊作は顔をしかめた。雑渡が馬乗りになって見下ろしてくる。恍惚とした表情を隠そうともしない。それはまるで作法のなっていない獣のようだった。
「そういう痛がる顔もいいね」
 ごくり、と唾を飲み込む。雑渡の手が伊作の血で赤く染まる光景が目に浮かんだ。肩に突き刺さるような痛みを感じながら、伊作は雑渡から視線をそらさなかった。空がやけに青いと思った。
「ぼくを手にかけますか」
「それもいいけど……まだ早い。それに手にかける前に手篭めにしたいな」
 こんの、ド変態。
「そんな風になるのなら殺された方がすっきりしますね」
 ごくごく自然とでも言うようにとんでもない未来展望を語る雑渡を睨みつけた。そもそもこの男ならばそれをやりかねないから恐ろしいのだ。
 そして、それ以上に恐ろしいのは伊作自身だった。今のこの状況が嫌ではなかったのだ。
 瞬殺される、あるいはなぶり殺されるかもしれないことに恐怖がないわけではない。けれどそれ以上に、雑渡が伊作を張りつけ組み敷いているこの状況にうっとりとした。背中や肩の痛みさえも不快ではなかった。
 雑渡の手が伊作の肩から離れる。そのまま、今度は伊作の首へかけられた。絞めるように手をまわし、ゆるゆると触れてくる。雑渡は、あたらしい玩具を与えられた子供のように楽しげだった。
 雑渡の手がやけに熱いと感じた。
「タソガレドキ城を潰したくなかったら、ぼくを殺さないほうがいいですよ」
「ほう。学園が黙っていないということだね。でも、心配しなくていい。そんなことはしないから安心しなさい。わたしはね、こうやって伊作くんの首の細さとか手触りとかを堪能しているだけだから。君が唾を飲み下すたびにノドが上下するでしょ。それが手に伝わってくるとぞくぞくするんだー」
 やっぱりこの人、ただの変態だ。
「多分、これが快感ってやつなんだよー」
 訂正。ただのド変態だ。
 雑渡は懐から紙片を取り出し、伊作の口にくわえさせた。そのまま伊作を解放する。
 身を起こしながら、伊作は紙切れをひらいた。手のひらにおさまるくらいの紙には学園周囲の地図が描かれていた。そのところどころに丸印がしてある。
「雑渡さん……これは」
 にっ、と歯をむき出しながら、
「今度、ウチの城の戦場になるかもしれないから気をつけてってこと。大川氏にでも渡しといてよ」  そう言うと、雑渡は、ほつれた僧衣を揺らしながら立ち上がった。どうやら帰るらしい。
 伊作は慌ててその背中に声を飛ばした。
「ちょっと待ってください。なんで味方でも何でもないあなたが、ぼくたちのためにここまでして下さるんですか。訳が分からない」
「わたしは君を殺さない」
 雑渡の声が真っ直ぐ通る。宙で視線がぶつかった。
「それは、雑渡さんにとってぼくみたいな子供など脅威にならないということでしょうか。殺す価値もない、と」
「さっきからさ、伊作くんは殺すとか何とか……ずいぶん過激なことを言ってるけど。一体、わたしのことを何だと思ってる訳? 手当たり次第に目に入ったものを殺して回ってるほど暇じゃないよ」
「じゃあ、これだけのために。この紙切れ一枚、ぼくに手渡すためだけに雑渡さんは来たということなんですか。そんな……どうしてそこまで」
 伊作の言葉をさえぎるように、雑渡の手が伸ばされた。伊作の眼前でぴたりと静止する。
「伊作くんのことなんて、この指一本で始末できるよ。でも、わたしはそれをしない」
「……なぜですか。ぼくにはまだ利用価値がある、と?」
 硬い表情をくずさない伊作に、雑渡はさみしそうに笑った。
「伊作くんを利用するつもりなんてないよ。今はまだ、信じてもらえないかもしれないけれど、ね。ただ、わたしの指が伊作くんを殺そうとするなら、わたしはこの指を引き千切るよ。伊作くんが笑っていてくれるなら、たかが紙切れ一枚のためだけにでも千里を走るよ」
 目の前にある雑渡の手は傷だらけだった。良い手だと思った。だから伊作は笑った。
「雑渡さんってやっぱり変わってますね。でも、本当にどうしてそこまでして下さるんですか」
「証明したかったのかも……」
「証明?」
 伊作は首をかしげた。雑渡は手を引っ込めながら頷いた。
「わたしのこの手は奪うだけじゃないって、それを証明したかったのかもしれないなあ」
  「そうですか」
 伊作は呟いた。はにかんだような雑渡の顔を、なんだか幼いと思った。
 まなじりをつり上げてやさしい言葉を吐くのは誰だ。
 埃まみれの戦場で透き通ったこころを持つのは誰だ。
 そして、そんな男に一瞬でも惹かれてしまったのは、あの差し出された手に触れてみたいと思ったのは……誰だ。
 ――狂ってる。
 雑渡の背中がだんだんと遠のいていった。
 伊作はその背中をじっと見ていた。これからいくさをするらしい背中を。
 昨日も今日も明日もその次も。どこかでいくさが起こって、どこかでいくさが終わっている。誰かが死んで誰かが生き残っている。
 そんな狂ったような毎日だから、それじゃあこちらも狂わなければ損じゃないか。
 もしも次に雑渡と会えたならば、手ぐらい握ってみてもいいかもしれない。そんなことを思いながら空を振り仰いだ。
 高く広く膨れ上がる青色。
 それはあまりにも綺麗で、空さえも狂っているのだと思った。


 終わり 
20100618


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