今、ほかになにも 3


 雑渡の自室の戸を開け、尊奈門を先に行かせた。案の定、矢が降り注いだ。
「ぎゃー、うわー、きょえー」
 もはや擬音しか発しない尊奈門を無視し、陣内左衛門は雑渡の側に膝をついた。きゅうりを持ってきたと告げると、雑渡の顔がほころんだ。
「ちょちょっ、組頭っ。何平和な顔してきゅうりかじってるんですか。一体これは何なんです。矢が、矢が私を――」
「何だ、生きてたのか」
 残忍なことをさらっと言う陣内左衛門に、尊奈門は真っ赤な顔で憤慨した。
「生きてたのかじゃないですよっ。これだから組頭の部屋に行くのって嫌なんですよ」
「何だよ。怪我しても労災下りるんだぜ。さすがだよな。タソガレドキ」
「そういう問題じゃありませんっ」
「あ。でもコレ仕事じゃないから労災無理だわ。大体、お前は引っかかりすぎなんだよ。学習しろよ。その頭はどでかい飾りか」
「あー、壁っ。またこんなに穴がっ。私が直すんですよ。ねえ、私が直すんですよ」
「二回も言うなよ」
「言いたくもなりますよ。もうっ」
「牛かよ」
 卒倒しそうな尊奈門に、雑渡は腹を抱えて笑った。
「いいね。やっぱ尊くんだわ。最高ー」
「元はと言えば、くーみーがーしーらー」
 尊奈門の目が怖かった。怨念のこもった恨みがましい目だ。夜中、枕元に立ってそうだった。
 陣内左衛門はやれやれ、と首を振った。
「諦めろ、尊奈門。きゅうりでも食って機嫌直せ」
 据わった目の後輩にきゅうりを手渡す。と、尊奈門の手がにゅっと伸び、陣内左衛門からきゅうりをまとめて奪っていった。がつがつときゅうりのヤケ食いが始まった。
 そんな様子つくづくと見て、雑渡は笑った。
 尊奈門の目が鋭く雑渡を捉える。
「いいふぇふよふぇー、ふみふぁふぃはあー」
「食うかしゃべるかどっちかにしろ。耳が腐る」
 陣内左衛門が睨みをきかせると、尊奈門は黙り込んだ。どうやら食べるほうを選んだらしい。すべてを飲み下して、尊奈門は口を開いた。
「いいですよね、組頭は。毎日すっごく楽しそうで」
 雑渡は目を瞬かせた。慌てて陣内左衛門がたしなめる。
「おい、尊。言葉が過ぎるぞ」
「とか何とか言って。本当は高坂さんだってそう思ってるんでしょう」
 核心をついてくるその言葉に、陣内左衛門のノドはぐっと詰まった。おっちょこちょいなところがある尊奈門ではあるが、時々、油断ならないことを言ってのけるのだ。
 部下二人の攻防戦に、雑渡は声を上げて笑った。
「そうか、楽しそうか。うん。お前はどう思う、陣左」
「へ」
「へ、じゃなくて。わたしのことをどう思う。楽しそうに見えるとか、つまんなそうに見えるとか」
 きゅうりをかじりながら、しかし真剣な面持ちで問われ、陣内左衛門は怯んだ。
どう答えていいのか分からない。
 実際、雑渡だって楽しいばかりではないだろう。当たり前だ。そんなこと、考えなくても分かる。死の淵を這いずり、仲間からは見限られ、仮に生きながらえたとしても隊への復帰は不可能だと、誰もが口を揃えて言った。だれも雑渡を望む者などいなかった。望めば殴られた――陣内左衛門がそうされたように。それが、雑渡が元気になるとどうだ。みんな手のひらを返したように彼を求めた。雑渡は不平なんて一言も言わず、従順な駒の一つに立ち返った。思い出しただけでも馬鹿馬鹿しくて……腹が立つ。
 でも。
 色々と思うところはあるけれど、言葉を飾るのは得意じゃない。おべっかを使ったり、こころにも無いことを口にするなんて出来なかった。陣内左衛門の性分なのだ。
 ぽつりと、呟くように言う。
「私にも、とても楽しそうに見えます」
「ほらね、やっぱり」
 尊奈門が、まるで鬼の首でも取ったかのようにあごを反らす。
「うるさい。しょうがないだろ、そう見えるんだから」
 ぎゃいぎゃい言い争う二人の部下を見て、雑渡は密やかに笑った。まあまあ、と宥めながら、可愛いものでも見るように目を細めた。
「そうか……。それならよかったよ」
 雑渡は心底ほっとしたように言葉を漏らした。包帯の巻かれた腕を、今までの歳月をいたわるように撫でている。それは美しく、そしてかぎりなくやさしい動作に思われた。
 雑渡はゆっくりと言葉を紡いだ。
「だって、この身体は、お前たちに随分と助けられてきた身体だもの。これでつまんなそうに生きてたら罰が当たる。実際、つまんない時間なんて一つもないしね。今だって、お前たちの漫才を見てるのは本当に楽しいし。せっかく与えてもらった残り時間だ。死んでるみたいに生きたくないんだ」
「……組頭」
 この人がそんな風に思っていたなんて知らなかった。一言ひとこと、噛み締めるように発された言葉が、この胸を鷲づかみにする。爪が胸に深々と刺さり、今にも押し潰さんばかりだ。とても――苦しい。
 陣内左衛門は目を伏せた。
「私は、組頭が生きててくれて本当に嬉しいです。これからもずっと、組頭を支えていきたいです。でも、時々……ふいに思ってしまうんです。自分がやったことは本当に正しいことだったのかって……」
「高坂さん、それは――」
 見守っていた尊奈門が唾を飲み込んだ。陣内左衛門は深く息をつき、そして言った。
「怨んでませんか……あなたを死なせなかった私のことを」
「高坂さんっ」
 目を剥いて叫ぶ尊奈門を、雑渡が視線だけで制した。そして、首を横に振る。
「わたしは、陣左の正しさに救われたんだ」
「でも、救われた先に待っていたのはとんでもない辛苦だった。違いますか」
「陣左」
「治らない傷背負って、責任ある立場にのし上げられて……」
「陣左」
「出来ない、不可能、苦しい、辛いなんて絶対に言うことを許されない。そんな生活をずっと強いられてるじゃないですか。これのどこが救いですか。楽しいことなんて一つも無い。私の偽善が組頭を苦しめているのだとしたら、私は――」
 忘れたはずの言葉が、次々に口をついて溢れてくる。包帯の隙間から見える片目に向かって、鋭い視線を投げた。
 しかし雑渡は、陣内左衛門の視線など意に介さず、さも当たり前だという風に言った。
「どこが救いって……そんなの決まってる。お前たちがいてくれることでしょ。それ以外ないじゃない。陣左や尊奈門がわたしといて笑ってくれるから、だからわたしも笑えるんだよ。とっても簡単なことでしょ」
 雑渡がにっと笑った。子どもの頃からちっとも変わらない。陣内左衛門の好きな顔だった。穏やかであざやかで、陣内左衛門のこころの隅々まで照らし出すような笑顔。だからこの人の前で嘘なんてつけないし、余分な言葉もいらない。いつも正しくありたいと思わせてくれる。大切な笑顔だ。この世にたった一つきりの。
 そう。雑渡昆奈門は一人しかいない。刹那、その事実に気づき眩暈がした。今、ほかになにも、雑渡に重なるものはない。雑渡は雑渡だけ。それだけだ。ほかになにもない。誰よりも確かに今を生きてる。それがこんなにも嬉しいだなんて。
 雑渡の手が陣内左衛門の頬を撫でた。真っ直ぐに見つめてくる。それだけなのに、不覚にも泣きそうになった。
「陣左。もっと自分に誇りを持っていいよ。偽善? 冗談じゃない。どんな正しさにも絶対的な基準はないけれど、でも。陣左の正しさはわたしにとっては本物だった。もちろん、尊奈門や、わたしを支えてくれるすべての人にとってもね。仮に今のわたしが、陣左の偽善の上に成り立ったものだったとして……うん。偽善、上等じゃないか。だって、わたしはこんなにも幸せなんだから。だから、もう苦しまなくていいんだ。陣左、笑って」
 そう言うと、雑渡が笑いながら頬をつまんで引っ張った。強張っていた頬が緩み、つられて笑ってしまった。何かが、すとん、と抜け落ちたような気がした。雑渡の笑顔が、ただ単に嬉しかった。
「ここに尊奈門がいなけりゃ、抱きついてましたよ」
「おや、残念」
「何ですかっ。人をお邪魔虫みたいに言って。はいはい。いつまでもそうやって和んでて下さいっ。壁直すのに道具とってこなきゃ。まったく」
 尊奈門はきゅうりをかじりながら部屋を出て行ってしまった。その後ろ姿に、雑渡と顔を見合わせて吹き出した。
「にしても、陣左。今日は随分と甘えん坊さんじゃないかい」
「たまにはそんな日もありますよ。もう組頭と口喧嘩はできないですし。あの頃とは違います」
「違わないよ。ああ、図体は違うか。でも、違わないよ。だって、陣左と一緒にいて楽しいもん。あの頃と何も違わない。やろうよ口喧嘩。まったく負ける気がしない」
 指をこきこき鳴らす雑渡に、陣内左衛門は笑った。
「私も、一生勝てる気がしません」
 ずっと組頭を苦しみから救いたいと思っていた。けれど、そう思うことで、本当は自分が救われたかったのかもしれない。結局自分は、許されたかっただけなのだ。やさしい言葉と甘えさせてくれる時間が欲しかっただけなのだ。
 でも、これでようやく、組頭と向き合っていける自分になれた。そんな気がした。
 ふいに、蝉の鳴き声が大きくなった。そのどれもが、いのちをしぼるようにして鳴いている。夏はまだ始まったばかりだ。


 終わり 
20100809


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