祈り 1


 思ったよりも遅くなってしまった。山で薬草摘みに没頭していたら、いつの間にかカラスも寝床に帰る刻限になっていたのである。
 暮れかけた陽が道の小石に濃く長い影を作っていた。似たような影を曳く伊作の後ろを伏木蔵は歩いていた。
 急ぎ足の伊作が振り返った。
「伏木蔵、その籠重くないかい? 持とうか?」
 伊作の視線は伏木蔵を通り越して、その背中にある籠へと向けられている。籠には摘みたての薬草がたんまり入っていた。もちろん、伊作も伏木蔵と同様の恰好をしている。
 伏木蔵は肩に食い込む紐をぎゅっと握った。そして、保健委員長のやさしい気遣いにやんわりと首を横に振った。きっぱりと言う。
「大丈夫です。一年生とはいえ、ぼくだって保健委員の一員ですから」
「お、立派立派。でも無理せずに苦しくなったら言うんだよ」
 伏木蔵は頷いた。
 やっぱり、伊作先輩の殆どはやさしさで出来てるんだ。残りはきっと不運で構成されてるんだ。
 伊作のことをやさしいと評するのはなにも伏木蔵に限ったことじゃない。
 善法寺伊作の人となりを知っている者なら、口を揃えてそう言うだろう。やさしい上に世話好きでお人好し。自分よりも他人のことに一所懸命になるし何よりも、他人の痛みが分かる人間である。
 そんな親身になってくれる伊作のことを誰もが好ましいと思っていた。
 ただ、伏木蔵には心配なこともあった。伊作の不運っぷりについては言うまでもないが、というか、それについては宿命と思ってあきらめるしかないと思う。
 そうじゃなくて。
 伊作はあまりにも他人の痛みに敏感になりすぎるのだ。痛みを感じすぎて、心を砕きすぎて伊作自身が壊れてしまわないだろうかとハラハラすることがあるのだ。一度や二度じ ゃない。何度もそんな思いをした。
 特に伊作が雑渡と接するときはより一層、その心配具合が酷くなる。
 伏木蔵は二人の仲がいいことは嬉しかった。伏木蔵は伊作と雑渡のことが大好きだからだ。
 伏木蔵の好きと伊作と雑渡の間にある好きとは確実に違うものなのだ。似て非なる完全に異質なものだ。それがどう違うのかは上手く言えない。けれど、何か重苦しくて大事で時 に首を絞められているような息苦しさもあり、そうかと思えばどこまでも柔らかく滑らかで磨き上げられた石みたいに綺麗なものを感じることもあった。
 その殆ど完成された世界で、時々伊作は苦しそうだった。伊作にしか知り得ない苦しみだ。そんな伊作を見つけてしまうと、つくづくやさしさが仇になっているという気がしてならなかった。
 仇。
 伊作にとっての害だ。
「伏木蔵」
 ふいに名を呼ばれ、伏木蔵はぱちりと目をしばたたかせた。
「ちょっと寄り道しようか」
 笑みを浮かべて言う伊作の脇に石段が見えた。金楽寺だ。金楽寺の和尚は忍術学園の学園長と懇意だ。伏木蔵も学園長からの用向きで金楽寺に行ったことがある。とはいえ、忍術学園から気軽に遊びに行ける距離にあるわけではなかった。辟易するほど遠いわけでもないが、決して近いわけでもない。伏木蔵に限らず学園の生徒も、何か特別な用事でもなければ足を運ばなかった。
 伊作先輩、何かご用事なんだろうか。
 提案されるがまま、伏木蔵は「はい」と答えた。


 だだっ広い境内には伊作と伏木蔵以外に人の姿はなかった。
 どうやら伊作に特別な用事はなかったらしい。伏木蔵の目の前にはただ手を合わせて拝む伊作の姿があった。手持ち無沙汰の伏木蔵もせっかくだから、と拝むことにした。背負っていた籠を下ろし手を合わせる。
 ――えっと。ろ組がもう少し明るくなりますように。不運が解消しますように。夕食に好物が出ますように。
 ふっと目を開けた。隣を見ると伊作はまだ手を合わせていた。とても真剣な表情である 。
 伏木蔵はちょっとだけ意外に思った。伏木蔵が知る限りでは、伊作はとても現実主義だからである。
 伊作は、お化けも迷信も呪いも信じない。おそらく、形のあるものが好きなのだろう。薬を作る際や治療する相手に対して、まじない言葉を唱えたりはするが、全面的にそれに頼 ることはない。
 神仏を敬う気持ちはあっても神頼みとは無縁の人なんだと思っていた。だからそんな伊作が何を思って手を合わせているのか気になって仕方がなかった。
 伏木蔵は目を開けた伊作に訊いてみた。
「何をお願いしたんですか」
「ん? いつも変わり映えしないことをお願いしてるよ。保健委員会の予算が増えますようにとか。今日摘んだ薬草で上手く薬が作れますようにとか。それから……」
「それから?」
 伏木蔵が問うと、伊作は目を泳がせた。しばらく宙を漂わせ、やがて言った。
「雑渡さんの傷がよくなりますようにとか」
「粉もんさん?」
 伊作が短く息を吐いた。瞼を伏せる。
「あの人の傷……」
「包帯の下ですか? あの傷、なかなか良くなりませんよね」
「うん。あれはもう、治らない」
 ごく控えめに、しかしはっきりと伊作は言った。その淡々とした抑揚のない物言いに、伏木蔵は思わず生唾を飲み込んだ。
 雑渡の傷については伏木蔵もうすうす感づいていたことだったのだ。
 何度薬を塗ろうが包帯を交換しようが、変わらないのだ。
 伊作はもうずっと前から、いや、雑渡に出会ったときから、その傷をひと目見たときから気づいていたに違いない。気づいてしまったというべきか。なまじ、医術の知識が豊富なために一瞬で見越してしまったのだ。
 この傷は治らない。不治だ。
 そんな現実は知りたくなかっただろう。いくら伊作が現実主義とはいえ、そんな残酷な事実なら気づきたくなかっただろう。
 雑渡の包帯を交換した日、誰もいなくなった医務室で一人伊作が泣いているのを伏木蔵は知っていた。伏木蔵もまた、どうしようもなく厳しい現実に戸惑っている一人なのだ。
「僕、医術以外はてんで駄目で……。これだけなのに。僕が唯一自信を持って他人に接することができる手段だったのに。それすらもあの人の背負うものに太刀打ち出来ないだなんて、最終手段まで取り上げられちゃ、もう祈るしかないじゃないか」
「伊作先輩」
「駄目だって、祈ったってどうにもならないって分かってるんだ。でも何かせずにはいられないだろ。無駄でも馬鹿にされても、あの人のために出来ることがあるのなら何でもしたいんだ」
 伊作の弱弱しい悲鳴に、伏木蔵は心細くなった。いつもの陽気で朗らかな伊作はどこにもいなかった。早くいつもの伊作に戻って欲しいと思った。必要以上に甘やかし世話を焼いてくれる頼れる伊作が恋しかった。
 それでも、伏木蔵は我慢した。伊作の悲しみが痛いくらいに伝わってきたからだ。大切な人に何も出来ない自分の不甲斐なさは痛いこと以外の何ものでもない。無力な自分を突きつけられるほど残酷な現実はない。
 伊作は取り繕うようにしてかぶりを振った。
「帰ろう」
 笑いながら伊作は籠を背負った。その諦念の滲んだ笑顔に伏木蔵は一歩も動けなくなった。また、誰も知らないところで伊作は傷つき痛み苦しんだのだ。
 粉もんさんの傷かあ……。
 伏木蔵は伊作の後ろ姿を見つめた。伊作の真剣な祈りの姿がよみがえってくる。
 力強く静かに、薬草の名前や骨の名称や昨日のことも明日のことも自分の名前さえ忘れて、不必要なものは一切頭の中からとっぱらって、ただ雑渡のことだけを祈っていたのだ。
 それくらいの凄みがあった。
 伊作はあんな風にして一心に雑渡を想うのだ。
 それはとても壮大なことのようであり、とても些細なことに思えた。小さな小さな吹いたら消えそうな祈りの灯だ。
 伊作は「いつも変わり映えしないことを」と言っていた。すると、ここの近くを通る度にこういうことをしているのだ。
 いつも手を合わせ。
 いつもあの人を願い。
 いつもこころを野ざらしにしている。
 自然と身体が動いた。手を合わせこうべを垂れる。こころの中で強く念じた。
 ――粉もんさんの傷がよくなりますように。それから、お二人がいつまでも仲良しでいられますように。お願いします。
 山門をくぐろうとした伊作が後輩の姿がないことに気づき、声を掛けてきた。
「伏木蔵。行くよ」
 はい、と慌てて返事をした。引っつかむようにして籠を手にとり背負う。石段を下りはじめた伊作を追いかけた。山の向こうに夕日が沈みかけていた。


 つづく 
20101008


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