祈り 3


 人は、何のために祈るのだろう。


 うす曇の空が重い。風が焦げたにおいを運んでくる。
 伊作はかぶった笠を少し引き上げた。村里から少し離れた山道の辻である。眼下には墨絵のような有様の村が見えた。
 風が焦げた臭いを運んでくる。鼻が詰まり頭の芯がぼんやりする。まさに、木が草が土が家が動物が人間が死滅する臭いだった。
 つい先日まで、このあたりが合戦場だったことをまざまざと感じた。
 伊作は短く息をついた。見慣れている光景とはいえ、慣れるものでも気持ちのいいものでもない。
 それでも、気持ちよかろうが悪かろうが課題は提出しなければならないのである。
 伊作は合戦の被害に遭った村の調査に来ていた。何度も似たような課題を与えられてきたので手馴れたものである。必要な被害状況、危害状況は粗方調べ終わり、今は村を見下ろせるこの山道で気づいたことを書き留めていた。
 それにしても、と思う。
 何も、ここまですることはないじゃないか。
 伊作は、無残に焼き払われた田畑を見下ろした。
 ひどいとか、むごいとしか言い様がないのだが、昨今、格段珍しくもない光景である。珍しくもない目新しくもない。悲しいほどにありふれた惨状だ。
 田にしろ畑にしろ、収穫は望めないだろう。たくさんの家が灰になり、墨になりかけた梁だけ残している。死んだ人間より生きている人間を数えたほうが早いかもしれなかった。
 吹く風は重い。鳥の鳴き声も動物の姿もない。焼かれるのを免れた雑草でさえ、ひっそりと息を殺しているような不気味な静けさがある。
 いくさに巻き込まれた場所には、いつも独特の空気が漂っていた。その異様な静けさの中、伊作の筆は何度も止まりそうになった。
 多分、大多数の人間がいくさを望まない。それを望むのはこの国を動かしていく一部の力ある者だけだ。力あるものだけが自分の思いのままに振る舞い、自分たちがどういう犠牲の上で高笑いしているのか気づかないのだ。気づかないまま勢力が入れ替わりし、替わったところでやっぱり誰も気づかない。その繰り返しだ。
 だから、多くの者が望まない、こんな無駄で理不尽なことがなくならない。
 望まないことは容赦なく起こるのに、望んだことは叶わない。どんなに願っても届かない。
 こんな理不尽はない。
 だから望みを打ち砕かれないように、望まなければいいのか。願わなければいいのか。諦めて、どうせとか、やっぱりとか言えばいいのか。
 考えれば考えるほど正しいことが分からなくなった。
 安らかにと祈りを捧げても、いくさは起こるし人は死ぬ。
 今、伊作の目の前にある煤けた村が、焦げた風が、厳しい現実を突きつけてくる。
 そうだ。あの人の傷も治らない……。
 伊作は厳しい現実の一つを思い出して村から顔を背けた。
 帰ろう。
 歩き出した伊作は道の端に何かを見つけて立ち止まった。膝丈の小さな地蔵だった。いくさの被害に遭ったのか、その地蔵は煤けて、所々が欠けていた。痛々しい姿だ。その姿に雑渡を重ねた。
 伊作は地蔵の前で膝を折った。笠を取り手を合わせる。
 何も出来ない自分が嫌だった。いつも、こんなことしか出来ない自分が不甲斐なかった。
 それでも、どうしても、こうすることをやめられない。
 なぜ人は祈るのだろう。
「熱心だね」
 急に声をかけられて、伊作は飛び上がった。声の飛んできた方に振り返る。
そこには、伊作を見下ろし、にやりと笑う男がいた。雑渡だった。
「雑渡さん……」
 どうして、と聞きたかったのに、雑渡がすかさず口を挟む。
「すごく真剣だったけど、何を拝んでたの?」
「え? あの、その。いい城に就職できますように、とかです」
 つかえながら言う伊作に、雑渡は口角が吊り上げ人の悪い笑みを浮かべた。
「嘘つきだね」
「……何が、ですか」
「伊作くんは自分の力で出来ることを他力本願にしないだろ」
 知ったかぶりなその物言いに、伊作はむっとした。
 人の気も知らないで。
「それは、つまり、僕が自力でいい城に就職できるってことですか」
「伊作くんは不運なだけで、忍者の資質としてはいいものを持ってると思う」
 雑渡は伊作の隣でしゃがんだ。さっき伊作がそうしたように、雑渡も地蔵に手を合わせた。目を閉じ、深くこうべを垂れる。
「雑渡さんって、そういうの似合いませんね」
「酷い。せっかく伊作くんの不運が解消しますようにって拝んどいたのに」
「何しに来たんですか」
 雑渡は立ち上がって腰を伸ばしながら言った。
「お礼を言いに」
「お礼?」
 首をひねりながら、伊作も立ち上がった。袴についた土を掃う。
「何か差し上げましたっけ」
 伊作の問いに、雑渡は笑って「うん」と言った。
「気持ちを」
「はい?」
「伊作くんの気持ちを貰ったよ。わたしのことを神頼みしてくれてたんでしょ。伏木蔵から聞いた」
 伊作は、自分が見る見るうちに青ざめていくのが分かった。
 纏わりつくような風が吹く。木々の葉が乾いた音をたてて揺れる。足がふわふわして、目の前がぐらぐらして、風に煽られて倒れるかと思った。
 伊作は、笠を深くかぶった。雑渡とまともに目を合わせることなど出来ない。このまま、やさしいこの人の前から消えてしまいたかった。
 雑渡本人の口から言われると、改めて、自分のしてきたことが何にもならない子どもじみた遊戯のようなものだったと思われてならない。
 力が、この人を苦しみから救う力が欲しくて、たどり着いた先が神頼みだなんて。
 滑稽以外のなにものでもない。
 それなのに。
 さっき見た雑渡の顔は、とても嬉しそうだった。けれど、そのことが不思議で不気味で仕方がなかった。
 伊作は雑渡のどんな力にもなれてはいないのに、それなのにあけすけに嬉しそうな顔を向けられると、途端に虚しくなるのだ。自分が何も出来ていないのが分かっているからこそ、空虚になる。
 伊作は俯いて自分のつま先についた泥だけを見ていた。
 なんで。どうして。無駄だと分かっているのに。
 なぜ祈ることをやめられないのだろう。
「神や仏は人を救ったりしません」
 伊作は吐き捨てるようにして言った。しかし、雑渡はあくまでも穏やかな口調を崩さない。
「そんなことはないよ」
「あります」
 灰になった家々。荒らされた田畑。明日を失くした多くの人。鼻を突く臭い。耳を裂く泣き声。ぐるぐる巻きの包帯。毎日塗りたくる薬。引きつれる傷。
 どうにもならないことは、どうにもならないまま。何も変わらない。
「祈ったって、何も変わりません。どんなに祈ってもいくさはなくならない。病気も怪我もなくならない。あなたの傷だって……。いつも誰かが悲しい思いをしています」
「伊作くんも悲しい?」
 問われ、首を振った。伊作は悲しいのではない。悔しいのだ。力のない自分が悔しいのだ。
「僕は雑渡さんの力になりたいのに、一番傍に居たいのに、でも駄目で。僕はまったく役に立たなくて……。僕は願いました。何度も何度も。なのに、雑渡さんの傷は良くならないし、僕は苦しむ雑渡さんしか見ることが出来なくて、それが悔しくて。何も……何も変わらなかった」
 まるで自分の業をすべて吐き出すかのような苦しさだった。胸にやるせない思いがどっと押し寄せてくる。悔しい気持ちが体中で膨らんで、今にもはちきれてしまいそうだった。
「雑渡さんの傷が治るんだったら、僕は何でもするのに。雑渡さんが苦しまずに済むんなら、僕のいのちの十年でも二十年でも全部でも……あげてよって……何度もお願いしたのに」
 だらしなく垂れた伊作の手を雑渡がそっと掴んだ。伊作を慰めるようにささやく。
「ねえ、伊作くん」
 のどの奥に熱いものがつっかえて、伊作は返事が出来ない。目から落ちそうになる滴をこらえるのに必死だった。
 逃げ出してしまいたかったけれど、雑渡に手をつかまれているのでそうもいかない。ひたすら、駄々をこねる子どものように頭を振っていた。
 雑渡の声は穏やかだった。
「きっと、変わったよ」
「何も変わりませんよ」
 雑渡は少し屈み、伊作と視線を合わせるようにした。伊作の両手を力強く握り、言葉の意味を確かめるかのようにゆっくりと言った。
「ねえ、伊作くんの見てきたわたしって、本当に苦しんでるだけだった?」
「え」
 伏せていた目を上げる。笠の下から雑渡が伊作を覗き込んでいる。雑渡の深いまなざしとぶつかった。
「伊作くんは祈っても何も変わらないって言うけど。でも、わたしは変わったと思うよ。わたしの存在を望んでくれている人がいるって分かっただけで、救われた気がしたから。わたしは伊作くんと出会えたおかげで苦しむことから助けられた。伊作くんがわたしの存在を望んでくれる限り、わたしは苦しまない」
 雑渡の言葉に身体が震えた。握る雑渡の手に力がこもる。伝わってくる体温に我慢していた涙が零れた。
「僕、雑渡さんのために何も出来てないのに……」
 神仏は人を救ったりしない。願ったって叶わない。それなのに。
「何も出来てないってことはないでしょう。わたしのために祈ってくれたじゃない。その気持ちが嬉しかったんだ。祈るってことはきっと、望みを持ちたいってことだよ」
「望み?」
「そう。自分が大事に思っているもの対しての望み。希望。どんなに無理だと分かっていても大事なものを捨てられないでしょう。簡単に譲れないでしょう。だからわたしは伊作くんのことを考えて伊作くんのために祈るよ。伊作くんが嬉しいとわたしも嬉しいから」
 大事なもの。
 伊作は雑渡の言葉を無言で繰り返した。
 ようやく今になって、どうして伊作が祈ることをやめられなかったのか分かった気がした。
 伊作にとって雑渡が大事だったからだ。最も大切だったからだ。
 大事なものはいつもこころにあって。いつも雑渡がこころの中にいて。
 だからこころが希望を持ちたがったのだ。大事なものを大事だと思うこころが、諦めたくないと望んだのだ。
 雑渡は伊作の笠を取り上げた。そのまま頬を撫でる。大きくて分厚い手のひらだ。伊作はその温かい手に自分の手を重ねた。
 雑渡がふわりと笑った。
「人は人を救うよ。伊作くんがわたしを救ったんだよ。目には見えないのに、人が人を想う気持ちってすごい力だね。嬉しくて眩暈がする。きっと伊作くんに出会わなかったら、もうずっと何も望まないし誰も求めなかった。でも伊作くんがわたしの存在を許してくれた。だから、わたしはもう一度、大事なものを見つけることが出来た。伊作くんを想うことが、祈ることが出来るんだ」
 自分には何も出来ないのだと思っていた。けれど、違った。
 伊作にも出来ることがあったのだ。雑渡の傷を完治させることは出来ないけれど、それでも、隣にいることは出来るのだ。一番近くにいて、大事な人の最良を願うことは出来る。傍にいてもいいのだと雑渡の笑顔が語りかけてくる。
 今まで押し潰されそうになっていたのが嘘みたいに、身体が軽くなった。
 ああそうか、と思った。
 ――僕が雑渡さんを救ったんじゃない。雑渡さんが僕を救ったんだ。
 伊作は雑渡の手のひらに口づけた。
 失望も絶望も必要ない。この差し出された温かい手のために祈ることをやめない。
 静かに風か吹く。曇り空の隙間から薄日が射していた。


 終わり 
20101014


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