猫だまし
塀から医務室の庭に下りると伊作がいた。
約束もしていないのに、まるで示し合わせたかのような光景が妙だった。
伊作も同じように思ったのか、膝のあたりの土埃を払う雑渡に苦笑した。
「先日はどうもありがとうございました」
頼りない星明りの下、面と向かって深々と頭を垂れた伊作に雑渡は小首を傾げた。
「はて……」
何に対して有り難がられているのか、雑渡には皆目見当がつかない。
ここ最近、伊作と接触した記憶はなかったし、何かをしてやった覚えもない。
いつの間にか怪訝な顔つきになっていたのだろう雑渡に伊作は笑った。
「お仕事の目になっていますよ」
「いや済まない。つい、ね」
「つい、ですか」
「うん。それに、仕事の時は今より三割増しで男前だし」
ちょっと澄ました雑渡に伊作は声を押し殺して笑った。
さすがに夜中に遠慮なく声を上げるほど不用心ではないようだ。
ここは忍びの学び舎。
人の気配、とりわけ外部からのそれには一際敏感だ。
もっとも忍びを生業とする以上、気付かれたら雑渡の面目丸つぶれなのだが。
「男前はいいですけど。怪我には気を付けてくださいね」
伊作は念を押した。
「ああ」
雑渡は素直にうなずいた。
「もっと言うと、怪我したときは僕を頼ってくださるとうれしいです」
伊作は少し遠慮したように呟いた。
雑渡は伊作の言った「先日は」の意味がようやく分かった。
数日前、仕事中に負傷した雑渡は、あろうことか昼日中に忍術学園を頼ってしまったのだ。
ふらつく身体で訪ねた医務室には一年生の保健委員である伏木蔵がいた。
「なぜ、僕を呼ぼうとする伏木蔵を止めたんですか」
伊作は少しだけ雑渡を責めた。
医務室を預かる保健委員長として、好き勝手をした雑渡に立腹するのも当然だろう。
……とすると、伊作が雑渡に礼を述べる意味が分からない。
「済まない。考えが足りなかった。一年生の伏木蔵にわたしの身体を見せるなんて目の毒だったね」
雑渡の全身には昔に負った怪我の跡が生々しく残っていた。
初めて雑渡のその姿を見ると誰しも無言になった。
それだけならまだいいが、中には業だの天罰だのと穿った見方をする者もいた。
仲間以外は男も女も寄り付かない。
一生背負っていく傷を恐れなかったのは伊作だけだった。
いや、伊作が恐れなかったのは雑渡の外身ではなく、雑渡の中身だったのかもしれない。
「そうではなく」
伊作は目を尖らせて、雑渡の言い分が見当違いだと言った。
「なぜ僕に手当てをさせてくれなかったんですか。すぐそばに居たのに」
「そんなことで怒ってるの」
「そんなことって何ですか。結構大事なことですよ」
「だって恥ずかしいじゃん。仕事でヘマしたの伊作くんに見られるなんて」
「そ、そんなことで」
「そんなことって何さ。結構大事なことなんだよ。かっこ悪いの嫌だもん。君の前では」
自分が見栄っ張りなつもりはないけれど、想いを寄せる相手には良く見られたいというのが普通の心理じゃないか。
なんてことは言わないけれど。
でも白昼堂々、伊作と会っているのを万が一にも誰かに見られたら伊作の立場が危ない。
卒業を間近に控えた六年生の伊作とタソガレドキの忍び組頭が一緒にいたという事実だけで、伊作が窮地に立たされることは目に見えている。
そんな雑渡の心配などお見通しとでもいう風に、伊作は肩をすくめた。
「伏木蔵は大丈夫ですよ」
雑渡の心の内に察しがついても黙っているのが伊作の気遣いだった。
「本当に」
「ええ。伏木蔵だっていずれは忍びに……。だから今回のことはいい経験だったと思います」
「そう」
それは保健委員としてか、本当に忍びとしてという意味なのか。
伊作の真意は掴めない。
雑渡は束の間、大人の顔になってしまった伊作を見つめた。
「それに、伏木蔵はとても喜んでいましたよ。あなたから竹とんぼをいただいたそうで。ありがとうございました」
雑渡はようやく合点がいった。
「いやいや。世話になったのはこちらだし、もっと気の利いた物を渡せればよかったのだけど」
「今度、一緒に遊んでやってください。伏木蔵は雑渡さんが元気なのが一番うれしいんです。その後具合はいかがですか」
伊作は雑渡の二の腕あたりに目をやった。
「すっかり塞がった。もともと浅い傷だったしね」
腕を振り上げて見せると伊作は安心したようにうなずいたが、すぐに目を伏せてしまった。
「まだヘソを曲げているのかい」
「まさか」
伊作は慌てて否定した。
その目を前のめりになって覗きこむと、伊作は一歩後ろに足を引いた。
「なんで逃げるのさ」
「あなたが近づくから」
「いいじゃん、べつに」
「よくありません」
「なんで」
「なんでって……」
面喰っている伊作の及び腰を雑渡が両腕を回して固める。
隙だらけなのは相変わらずだ。
抱きしめられる一つ手前のような恰好ではあるが、逃げられないと気付いた伊作は雑渡の肩をぐいと押した。
「気まぐれで情をかけられるのは嫌です」
伊作は顔を伏せ、小さな声で言った。
どうやら随分と軽薄な男だと思われているらしい。
でも、まあそれも仕方のないことだ。
伊作を見ていると雑渡の胸はたまらなく熱くなった。
しかし、この何とも言えない不思議な気持ちを伊作に告げたことはなかった。
「そんな風に思っていたのかい」
雑渡が言うと、伊作は自分のつま先を見つめたままでうなずいた。
「あまりやさしくされると辛いです。僕はもう、伏木蔵のように玩具で満足できる歳ではないから」
伊作の濡れた瞳が雑渡を見つめた。
そのまま、雑渡の胸に顔を傾ける。
雑渡は十五にしては小柄で細い伊作の身体を抱きしめた。
詫びる気持ちもあったが、それよりも言葉にならない情愛が勝っていた。
伊作を子ども扱いしたことは一度もないが、大人として接するには幼すぎた。
そういう雑渡の態度が伊作を不安にさせたのだろう。
いつも認められようと、子ども扱いされないようにと、気丈に振る舞っていた伊作が初めて気の弱さを見せた。
「どうしたらいい?」
「聞かないでください」
拗ねたような伊作の態度に雑渡は笑みを零した。
甘えるように傾けられた伊作の頭をそっとなでる。
次の春が来たら伊作は学園を卒業する。
それでも雑渡は変わらない。
変われない。
いつでも、いつまでもタソガレドキにいる。
伊作はどこへ行ってしまうのだろうと、風が冷たくなるにつれて思い馳せることも多くなった。
今も滅多に会えないのに、伊作が雑渡と同じ土俵で職を得るに至ればますます顔を見る機会は遠ざかる。
そうなれば恋しくなるのは必然だろう。
子どもだましの玩具で満足できないのは雑渡も同じだ。
寄り添う伊作の体温が雑渡と深間の仲になる覚悟があることを感じさせた。
雑渡は伊作の顎をすくい上げると、その唇を奪った。
「今はこれで我慢しておくれ」
伊作は少し驚いた顔をしたが、なぜか面白そうに笑った。
「あなた、我慢できるんですか」
まさか、そんな心配をされるとは思いもしなかった雑渡はぐっと喉を詰まらせた。
我慢……できるといえばできる気がする。
伊作がこれ以上のことを拒めば、雑渡は清らかな関係を守るだろう。
しかし、束の間唇を触れ合わせただけなのに、雑渡のそこは熱く痺れるように飢えていた。
御し難いほどたぎる気持ちが表に出ないようになんとか自分を律するしかない。
そんな雑渡の心理を見抜いてか、雌猫のように狡猾な目を向けてくる伊作が憎らしくてかわいくて堪らない。
「我慢できないかも」
「我慢してください」
「にゃんにゃんしようよ」
「猫じゃないんですから」
伊作はにべもない。
「何だよ、煽っといて。我慢は体に良くないんだよ保健委員長」
「あー、今日は星がきれいですねぇ」
伊作は雑渡を無視して空を仰いだ。
冬の近い空に大粒の星が散らばっているのがよく見えた。
ふいに黙り込んだ伊作の横顔に涙の跡があった。
春の星が出る頃、こんな風に寄り添っていられるだろうか。
目まぐるしく時が移ろっていくとき、二人はどうなっているのだろう。
雑渡には伊作の流した涙が切なく思えて堪らなかった。
「猫になりたいね」
雑渡が呟くと、伊作は泣き笑いのような顔でうなずいた。
終わり 2014/2/22
※第21期5話『雑渡昆奈門を守れ!の段』