思い出の狭間


 ――私はいつでもあなたの善き部下であろうとする。

 川の水色が深い。昔はこういう川を見ると、大人たちが「竜が潜むようだ」と言っていた気がする。それを聞くと秋の訪れを感じたのを憶えている。
 高坂は川に突っ込んだ手を引き上げた。腕を軽く振る。飛び散る水滴が陽にきらめいた。
 ちょうど、最後の桶を仕掛け終えたところである。桶だけではなく、この川底には壷やら竹筒やら色々と仕込んであるのだ。いわゆる、地獄落しである。川を渡ろうとした馬の足をとることで敵軍の足止めと時間稼ぎを、という作戦である。
 高坂が襷掛けを解いたちょうどそのとき、背後から声を掛けられた。
「見事な『地獄落し』ですね」
 高坂が振り返ると、岸にかがみ込み川底に目を凝らす尊奈門がいた。川よりも澄んだ目で、高坂の仕掛けた罠に感心している。
 高坂は川から岸に上がった。濡れた足裏に砂が纏わりつく。捲り上げていた袴の裾を戻しながら後輩を睨んだ。
「バカ尊。これくらい誰だって出来る」
「そう思ってるのは高坂さんだけですよ。仕掛けてある位置が絶妙で、ああ、このすごさを分かってないのって、ひょっとしたら高坂さんだけなんじゃないですか」
 そうなのだろうか。
 一瞬、高坂は思考した。が、すぐに、そんなわけはないと改める。
「感心してんな。まだ作戦が成功したわけじゃない。ここを敵さんが通ってくれて初めて、俺たちのしたことに意味が生まれるんだ。ただ川の底にモノ埋めるだけなんて、そこらへんのガキにでも出来る。俺たちは結果を出してナンボの存在なんだぞ」
 結果が出せなきゃ存在すら危うい。いや、存在している意味がない。
 与えられた仕事を当たり前のようにまっとうしてこそだ。
 誰も期待なんかしてないし、称賛もない。成功させるのが当たり前なのだ。それこそが当然のように求められる。
 仮に、高坂が今の生業で生きていなかったとしたら、失敗しても結果をだせなくても、正面きって責められはしないだろう。むしろ労われるかもしれない。努力したとか最善を尽くしたとか、言い訳も人の同情を誘って叱責されることはないのかもしれない。
 しかし、高坂は忍びだ。
 結果が全てだ。
 そのことに、何の疑問もない。それが忍びの世界で生きていくということだ。
 罠なんて敵が掛かるように施して当たり前なのだし、敵を罠に嵌めるように誘導することも出来て然るべきなのである。
 そこにあるのは、常に命令と結果だけでいい。
 その命令と結果の行間に、どれだけの努力や研鑽が、時には犠牲があろうとも、「見事だ」なんて、そんな賛辞は介在無用だ。
 余計なものはいらない。集中しなければならない忍務の時などは特に、だ。
無駄なものは邪魔なだけ。とみに、思い出などという代物は厄介意外の何ものでもない。
 高坂は自分のことが嫌いではない。嫌いではないのだが、良すぎる記憶力だけは時折呪うことがあったりする。
 思えば、この地獄落しも雑渡に教わったものだった。
 かなり昔のことだ。まだ、高坂は子どもといっても十分な歳だった。
 タソガレドキの里の忍者は、子どもの頃から遊びの中でその忍びの技を磨いていく。高坂も雑渡に遊んでもらいながら、否、遊ばれながら忍びの技を学んだ。
 高坂が「ちゃんと指導をしてくれ」と乞えば、雑渡は「お前は優秀でおもしろくない」と舌を出した。いかにも雑渡らしい切り替えしだと思ったが、この後、高坂が憤慨したのは言うまでもない。
 そう考えると、あの人は今も昔も変わっていないな。
 記憶なんて、ただの過去だ。掘り返したっていいことはないし、まあ、覚えてるようなものだから、格段悪いってこともないんだろう。でも、所詮は過去。今じゃないし、まして明日のことですらないのだ。
 記憶が、思い出が無駄とは、そこまで辛辣なことは言わないが、それでも、無い方が身軽だろうなとは思う。それが美しければ美しいほど、忘れてしまいたいような気がした。
 囚われるのだ。過去に囚われて今が停止してしまいそうで怖い。
 思い出さなければ、もはやそれは思い出ではあり得ないのだから、封じ込めておけばいいのだろう。
 もちろん、高坂にだって、自分だけの場所に大事にしまってある記憶や想いはある。何重にも封をしてやわらかい絹みたいなもので包み込んで。
 それでも、わずかな隙間から、ちょっとした油断から、滲み出てしまうものがある。
 仕事の出来や鍛錬の成果を称賛されるたび、高坂は雑渡を想った。高坂の忍者としての価値観と技術は、すべて雑渡から受け継いだ賜物なのだ。
 高坂は体中で雑渡を思考できた。
 感謝でも感動でも感激でも喜びでも慈しみでも、もしかしたら既に言葉ですらないのかもしれない。この胸の内をせめぎ立てる、ただ一人への想いを言いたくて言えなくて堪らない瞬間がある。堪らなくて、それでも耐える時、小さく小さくなった高坂は、思い出の中の雑渡に集約されていく気がした。
「どうやらうまく行きそうですね」
 期待に満ち溢れた尊奈門の声に、引き戻された。尊奈門の強い視線につられて、そちらへ目を向けた。その視線の先には何もない。がしかし、わずかに馬の足音が聞こえてきた。
 高坂は視線を動かさないまま短く言った。
「ああ」
 そうだ。これでいい。きっとうまく行く。何もかもが滞りなく、秩序を保ったままで流れていく。
 高坂には能力がある。雑渡から受け継いだ技で雑渡を支える力だ。
命令と結果。
 その二つに、あるいはその狭間に。どんな過去もどんな思い出もどんな個人もなくていい。
 どんな情もなくていいのだ。
 きっと、言葉には出来ない。するつもりもない。
 だからこそ、高坂は己が忍びであろうとするたび、こころに強く念じた。
 ――私はいつもあなたの善き部下であろうとする。
 旗指物を揺らしながら群集が近づいてくる。息を呑み、川に目を向けた。どこまでも水の色は濃く深い。耳を傾ければ、この世を確かに流れていく、水音だけが響いていた。


 終わり 
20101001


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