散華
城の廊下からふと山を眺めると、ぽつぽつと明るい色が見える。淡く霞む春の色。桜だ。
「今年は花見もできず終いか……」
陣内左衛門は誰ともなしに呟いた。陣内左衛門は忍務で長く城を空けていたため花見と縁がなかったのだ。だからといって気落ちなどしていない。忍務帰りの今は華やかな気分になどなれそうもないからだ。
それに華やいでいる場合でもない。今回の忍務報告をしなくてはならない。それなのに浮ついた気分でどうする。陣内左衛門は頭を一振りすると詰め所に向かって歩き出した。
真昼の気だるい日差しが薄暗い廊下に陣内左衛門の影を落とす。
感傷では飯を食うことは出来ない。分かっている。気持ちを切り替えろ。何年忍者やってるんだ。
先の忍務で陣内左衛門はいくさ場にいた。戦況を見るためだ。来る日も来る日も拮抗する二つの勢力を見ていた。ただ目の前でどうしようもなく流れる赤いものを眺めていた。今でも目を閉じれば瞼の裏にまざまざとよみがえる。倒れた人を見ては、お前、家族はどうする。恋人はいないのか。いたら恋人はどうする。年老いた親がいたら、その親はどうする。牛や馬はどうする。畑は、田んぼはどうする。そんなことをずっと心で呟いていた。
まあ、どうするっていってもどうしようもないのだ。倒れたそいつに明日などないのだから。でも、なぜか、それでも。見ていることしか出来ない陣内左衛門にどうにかできるはずもないのに……。どうにかしてやりたいと思ってしまうのは、若いゆえの感傷なのだろうか。
何年忍者してきても、これから先、何年何十年忍者やっていったとしても……。きっと慣れることなんてない。毎回毎回忍務の度に、自分の中で過去になっていく現実をどうにかこうにか受け容れていかないといけないのだ。
そういう風にして生きて死ぬしかない。
そんなことを考えながら歩いていると、詰め所の方から叫び声が聞こえてきた。
「組頭、くみがしらーっ!」
「何を騒いでいる、尊奈門」
陣内左衛門は叫び声の主である後輩の尊奈門をたしなめた。詰め所を覗いた陣内左衛門に尊奈門は大口を開けたまま、ぱっと顔を輝かせた。
「高坂さん! いつ帰って来たんですか」
高坂は大きく息をついた。
「ついさっき。まったく……。憩いのふるさとに帰って来た途端、お前の叫び声を聞かされるなんて……」
床に置かれた巻物の束を押しやり、陣内左衛門は腰をおろした。
「まあまあ。そんなつれないことを言わずに。でも随分帰りが遅かったので、てっきり討たれたものとばかり思っていました」
「……さわやかな顔で喧嘩を売るな。今ちょっと機嫌が悪いからな。うっかり買うぞ」
陣内左衛門が拳を構えると、生意気な後輩は謹んで辞退する旨を示した。ついつい笑ってしまう。こんな何気ないやり取りが出来ることが奇跡のように思えてしまうから不思議だ。
毎日生きていなければ陣内左衛門はここにいない。尊奈門と無駄口をたたくことさえ出来ないのだ。そう考えると当たり前のことが実は当たり前じゃないんだと感じてしまう。
陣内左衛門は忍びの家に生まれた。忍びとして生まれ、忍びとして育ち、忍びとして禄を得ている。身落ちと言われようが下賤と言われようが、どんなに残酷な現実を突きつけられても陣内左衛門に与えられた道から逃れることはできない。そんな風に覚悟していても、頭のどこかでは受け容れ難く思っていたのかもしれない。だからこそ、尊奈門とふざけあえることにほっとしてしまったのだ。
「よりによってお前になあ……」
「何です?」
陣内左衛門の含み笑いを尊奈門は怪訝そうに見つめた。
「いや、こちらのことだ。それよりも組頭はどこだ。忍務の報告をしたいんだが」
尊奈門は肩をすくめた。
「組頭はサボりです」
「うん。予想を裏切らないな。さすがは我らが組頭だ」
「褒めてる場合ですか。まったく」
「そんなに怒るな。腹減るぞ」
「みんなが組頭を甘やかしてばかりだからこうなるんです。殿に呼ばれて出て行ったと思ったらその足でサボりですよ。ちょっと目を離すとすぐどこかへ漂って行っちゃうんだから」
陣内左衛門は身を乗り出した。
「殿に? 次の忍務か?」
尊奈門は陣内左衛門の勢いにたじろぐようにして頷いた。
「ええ。今夜からの忍務で……私も行きます。今回、高坂さんは受け持ちの忍務がいつ終わるか分からなかったので人員に入ってませんけど……。ちなみに小頭は下準備で城を離れています」
「下準備?」
「ええ。対象となる軍の具足の調達を」
尊奈門の表情が少し硬くなる。それを見て、高坂も固唾を呑んだ。
「雑兵になっていくさの渦中へ……」
「まあ、形だけですが。このやり方が一番効率がいいですから」
「そうだな」
陣内左衛門は複雑な気持ちで応えた。
対象となるものの中に入り込めれば、戦力の調査をするにしても軍の内部を混乱させるにしても仕事がやりやすい。
しかし。
効率を求めればそれに比例して危うさも増す。
夏に、オーマガトキとのいくさで同じやり方をして、タソガレドキ忍軍は多くの犠牲を出している。陣内左衛門自身もだが、今目の前で普通に会話をしていた尊奈門も、タソガレドキ忍者隊の組頭である雑渡もその例外ではなかった。
それでも。それでも。陣内左衛門たちは忍びなのだ。従順な手駒となり、雲の上にいるような人たちのために尽くすしかない。誰が傷つこうと誰が倒れようと、そんな過程は無視されて通り過ぎていくだけだ。求められるのは常に結果だ。戦果を上げられなければ陣内左衛門たちに生きている意味も死んでいく意味もない。何もなくなってしまう。
ふと、雑渡のことが気になった。
「組頭の行きそうな場所に心当たりは?」
「さあ。遠くへは行っていないはずなのですが皆目見当も……。厠も井戸の中も屋根の上も梁の裏も見ましたけどいませんでしたし……」
「殿や女中の部屋は? またいたずらしに行かれたのではないか」
「見ましたけどいませんでした。ああ。そういえば」
尊奈門は何かを思い出したように手を打った。
「組頭が殿に呼ばれて帰って来たとき、殿の秘蔵のどぶろくを二つも持ち出して歩いてるのを見ましたよ」
「酒を?」
「昼真っから酒なんて飲まれて、忍務のときに使いモンにならなくなったら困ります」
尊奈門はがくりと肩を落とした。
陣内左衛門は顎に手を当てて少しのあいだ考えた。殿に何か言われたのだろうか……。
雑渡と殿の間にどういうやり取りがなされたのかは分からない。が、一介の忍びである雑渡が主命に背くわけにはならない。何を言われても従うのだろう。どんなに意にそぐわないことでも。例えば、今回の忍務だ。やるしかないのだが、普通に考えて誰も無事に済むとは思えない。そして、その部隊を率いるのは組頭である雑渡なのだ。現実から逃げるわけにはいかないが、それでも束の間、何もかもを忘れる時間が必要なのかもしれない。
春の暮れにざわついた心を取り除いてくれるもの。
だいたいの見当はついた。
陣内左衛門は立ち上がると、合点のいった顔で窓の外を見た。山の斜面に桜が見える。
「……花も今日が最後かな」
陣内左衛門の呟きに、尊奈門は首を傾げた。
「何が最後ですって?」
陣内左衛門は何でもないという風に首を横にふった。
「今回の忍務、私も行くから」
「それは助かりますけど。さっき戻ってきたばかりで大丈夫なんですか」
「ああ。まかせとけ。でも、ちょっと休憩な。花見にでも行ってくるわ」
「分かりました」
尊奈門は笑顔で請合った。
「出立は日暮れ前ですからね。遅刻したら置いて行きますからね」
その言葉を背中に聞いて、陣内左衛門は山へ向かった。
「見ろ陣左。満開だ」
雑木林の中で見つけた雑渡は、陣内左衛門に向かってそんなことを言った。山の陰で薄暗い中に桜の花が咲くと、そこだけ明るくなるから不思議だ。木の周りの地面には点々と可憐な花片が落ちている。どうやら桜は花の盛りを過ぎ、今は少しの風が吹くだけでも花びらを落としてしまうようだ。
「花見なんて暢気すぎます。今晩から仕事なのに……」
「だからこそだよ。息抜き息抜き」
「組頭は息抜きしすぎです。尊奈門は大騒ぎでしたよ」
「気にするな。飲め」
ひょうたんを二つ取り出し、その一つを陣内左衛門に投げて寄越した。どうやらこれが尊奈門の言っていた殿からくすねた秘蔵のどぶろくらしい。
ひょうたんの口を開け、一口含む。久しぶりの酒は陣内左衛門の胃の腑を熱くさせた。雑渡の方は随分酒が進んでいるらしく酔ってはいないが相当いい心地らしい。いかにも花見を楽しんでいるのだということが爛々とした目から伝わってきた。
「今晩からの忍務に、私も加わることにしましたから」
「おや、仕事熱心だね」
雑渡が目を丸くさせた。
「組頭のことが少し心配で……」
真剣な面差しで言った陣内左衛門に、雑渡はいくらも中身の入っていないひょうたんをしまいながら少し笑った。
「何を言ってるんだか。そんなにわたしは頼りないかな。陣左を不安にさせてるようじゃ、組頭としてまだまだだな」
「そういうわけでは……」
陣内左衛門は取り繕って応えたが、思えば上司をあからさまに心配する部下なんて間抜けだと思い首をすくめた。しかし雑渡の方はそれについてはさして気にする風もなく、散るばかりになった桜の花を一心に眺めていた。
「それにしても、わたしは梅の方が好きだな。桜ってきれいなんだろうけど、でもなんかぼやけてるし、香りもしないし」
梅の花は強烈な匂いを放つ。そのとろけるような芳香とともに一つ一つの輪郭がはっきりとした花は色の少ない早春を鮮やかにさせる。その昔は花見といえば梅の花を愛でることだったらしいが、今の世はもっぱら桜にそのお株を奪われている。
「……こんな感じで終われたらいいね」
雑渡が何気なく零した一言に、陣内左衛門はぎょっとした。
「やめてください、縁起でもない」
「怒るなよ」
「怒りますよ。今から仕事しに行こうってときに。大体、組頭には花みたいに散るなんて似合いません」
「ひっど。陣左、わたしが上司ってこと忘れてない?」
「忘れていたら窘めたりしませんよ。部下の誰が上司の死に方なんて聞きたいと思います? そんなきれいな死に方なんてさせませんよ。組頭なんて、桜餅でも食べてればいいんです」
雑渡は薄く笑った。
「今回の忍務はそんなに嫌かい?」
「忍びが首を振れるような立場でないことは重々承知しております。組頭が行くところへならどこへでもお供します……」
「わお。熱烈ねえ」
茶化す雑渡を陣内左衛門は目の端で睨んだ。
今回の忍務はとても危険だ。決められた刻限までに忍務を果たせるだろうか。いや、それよりも全員無事に帰還できるかどうか。
「陣左?」
「私は何があろうと組頭に尽くします。どこまでもあなたについて行く……。あなたが殿に尽くすというのなら、私はそれに従うまで。どんなに無茶な忍務でもあなたがそれに首を振らないのなら、あなたの守ろうとするものにどれだけの価値があるかなんて分からなくても……私はあなたの背中を追います」
「価値ねえ……」
物思いに耽るように、雑渡が呟いた。視界の片隅で花が散る。
「なあ。守るのにも色々なやり方があるわな」
「え」
「わたしたちは忍びだ。町人には町人の、武士は武士の、殿様は殿様の、そして忍びは忍びのやり方があるよ」
そして、町人に、武士に、殿様に、忍びに、それぞれの正しさがある。
「それは……はあ。まあ」
曖昧な返事をする陣内左衛門に、雑渡は構わず続けた。
「お前は、嫌いなものに囲まれて生きていきたいと思う?」
「え」
「殿様は殿様でしかないじゃん。エライって傅かれてもただの人でしょ。そのただの人が国を背負ってるんだよ。そうなりたくて生まれてきたわけじゃない。でもそういう風に生きていくこと定められた。生まれる前から与えられていたものをいらないって放り出すことも許されず、一生向き合っていかないといけない。それがどういう人生か分かる?」
「……分かりません」
「うん。わたしも分かんない。別に分からなくてもいい。でも、その一生向き合っていかなくてはならないものを、殿が慈しんで下さるようにと願わずにはいられない。その背負うもののために命をかけてもいいと思えるくらいの慈しみを……。だから殿の無理難題にも応えてみせなくちゃいけない」
「殿に命を懸けてもらうために、組頭も命を張るんですか。駒に徹すると」
「うん」
「殿にとっては単なる死ぬまでの暇つぶしかもしれませんよ」
「そうだね。もしそうならその暇つぶしに命がけで付き合うさ。ご褒美無いけどね」
「組頭は、ご褒美なんてあってもなくても関係ないのでしょう」
雑渡は首をすくめて薄く笑った。
「まあね。褒美なんていらないさ。この地位も……この名前さえもいらない。何もいらない。ただ、そう……。たまーに陣左と一緒に桜なんか見てさ、きれいだって思えたらそれでいいかな」
誰かの正しさのために……自分のためじゃなく生きて傷を重ねていくというのだろうか。名誉もなく栄誉もなく、他人の道を照らすために……。
途端に、桜が散るように終わりたいと言った雑渡が哀れに思えた。
「あなたは仏のように心が広い」
「おや。仏様のお心の広さを知っているのかい? そりゃすごい」
「別に知っているわけでは……。ただ、御仏は寛大だと昔から決まっておりますから」
雑渡が満面の笑みを浮かべた。
「わたしが寛大だとは恐れ入ったね。まあ、いろいろ言ったけどさ。単純にわたしはここが好きなのさ。土地も人も何もかも。失くしたくない。いつかは……もしかしたら……滅びて無くなってしまうのかもしれない。でも、今はまだわたしの目の前にある。いつだって、わたしの帰る場所はここしかないんだ。大層なことは考えなくてもよい。ただ、想像するんだ。好きなものがなくなったら嫌だろう。そんな世界で生きていくなんて嫌だろう。人でも物でも何でもいい。ただ自分の守りたいモノのために必死になれ。必死になれば、迷ったりしない。それが忍びというものだ」
「守りたい、もの……」
陣内左衛門は黙りこくった。視界にはどこまでもついていくと決めた雑渡がいる。
好きなものがなくなった世界。雑渡がいなくなった世界。考えるほどぞっとする。
生きるのが嫌どころかそんな世界、最早未練すらない。未練がなくなれば生きてはいられない。
生温い風が吹く。枝が揺れ、花びらが視界を塞ぐように降る。
「おや、まるで散華だ」
零れる花片を体一杯で受け止めるように、雑渡は首を反らし両腕を広げた。
法要などの際、仏に供えるために散らす花を散華という。しかし、実際の散華よりも今、陣内左衛門の前で起こっていることの方がより美しくより荘厳で、どこかぼんやりとした悲しみに包まれていた。淡々と終わりを告げる花びら。その一片が陣内左衛門の足元にも貼り付いていた。
「きれいだねえ……」
上機嫌ではしゃぐ雑渡に、陣内左衛門は曖昧に笑った。
雑渡が今、何を思っているのかが無性に知りたいと思った。雑渡に散華を思い出させた桜はきっと、きれいなだけではないはずだ。雑渡の中にあるさまざまな思い出が桜の花とともに蘇っているに違いない。
陣内左衛門は雑渡の指をそっと握った。硬い爪に厚い皮。そして、ほんの少しの温もり。そこに確かに存在している生の手ごたえの深さ。
「どうしたの。陣左」
雑渡は陣内左衛門に指を握らせたまま、ちょっと首を傾げた。
あと何回こうしてこの人と時間を共有することが出来るだろうか。あと何回この人は桜をきれいだと思えるのだろうか。
せめて。どうか。
桜の花が咲く頃の思い出だけは、この人にとって幸せなものでありますように。
「少し、桜の花に酔いました」
「お、なかなか乙なことをいうね」
天上から舞い降る桜の花の美しさは、現実から二人を切り離してくれた。見えない何者かが二人のために散華してくれているのかもしれない。
陣内左衛門は雑渡を見ていた。陣内左衛門のすべてを懸けて守りたい人を見ていた。
終わり 20110422