春陽
桃の甘い香りが風に乗って医務室に届いた。三月の空は湯気が溜まったようにぼんやりとしている。
思わず眠気に誘われるような陽気であったが、伊作の目はしっかりと開かれていた。眠りを貪っている場合ではないのである。
なんと言っても、今日は雑渡が来ているのだ。
「えーっと……、これはどこかな?」
雑渡は一包ずつ丁寧に分けた生薬を抱えて、薬箪笥の前をうろうろしていた。
「あ、ここです。一番左の上から五段目の……」
雑渡に見惚れていた伊作は慌てて教えた。視線に気づかれていないかどうか、ひやひやする。
「ああ。本当だ。ちゃんと書いてあったよ『芍薬』って。それにしても小さい抽斗だね。玩具みたいだ」
雑渡は抽斗に生薬の包みをしまうと、伊作に張り切った視線を寄越した。
「さあ。私は次に何をすればいいのかな」
「いえ、そんな。もう結構ですから。座ってお茶でも……」
伊作は強く遠慮の意を示した。しかし、雑渡は首を縦に振らない。
「だめだめ。今日は不肖の部下がお世話になったお詫びに、伊作くんのお手伝いをするって決めたんだから。何でも言ってよ」
「はあ……」
伊作はほとほと困り果てていた。
雑渡の言う、不肖の部下とは、タソガレドキ忍者隊の諸泉尊奈門のことである。
実は尊奈門、忍術学園教師の土井半助を敵視していて、ことあるごとに果し状を持って現れるのである。
尊奈門が闘志を燃やすようになったのは、忍術学園とタソガレドキ、そしてオーマガトキがぶつかった園田村の合戦が原因である。
尊奈門は土井半助に文房具で大敗を期している。
それ以降、果し状を持って土井半助の元へ勝負に訪れるのだが、いずれも敗れている。今だ尊奈門の連敗記録は破られていない。
悲しすぎる現実である。
「それにしても。尊奈門さんは起きませんねえ」
尊奈門は今日も勝負を申し込み、そして負けてしまったのだ。その際、軽い怪我をして気を失ってしまったため、今は医務室の次の間で寝かされている。不肖というよりかは、負傷の部下だ。
伊作は誰であろうと介抱することに一向の差し障りもない。それなのに、義理堅い雑渡はお礼に伊作の仕事を手伝うというのだ。
本来であれば、客人(正確には曲者だが)に仕事の手伝いをさせるなど、もってのほかである。しかも、相手はタソガレドキ忍者隊の忍び組頭であるのだ。
まあ、伊作がその申し出に対してどんなに困ったところで、引いてくれる雑渡ではないのだが。
「よく寝すぎじゃない? 借りてる布団なのにさ。殴って起こそうか?」
雑渡は細く開けた襖から尊奈門の様子を窺って舌打ちした。伊作は必死に止めた。
「駄目です。怪我人になんてことをするつもりですか。余計な怪我を作らないでください」
「そんなにヤワじゃないでしょう。天守閣から突き落としても大丈夫だったよ」
「ええー! あなた、尊奈門さんたちに何やってるんですか!」
「可愛いいたずらだよ。タソガレドキ忍者伝統の」
「命懸けのいたずらですね……。だからタソガレドキ忍者の皆さんってお強いんでしょうか……」
真面目に受け応える伊作に雑渡は笑った。
「そうだね。わたしの突飛もない振る舞いあってこそ、彼らは鍛えられてるのかもね」
とんでもない無茶である。しかし、タソガレドキ忍者隊においては、雑渡の傍若無人に耐えられてこそ、真の忍びであると言われている。
「そうでしょうか……。なんだか違うような……」
「まあ、いいから。それより、早く仕事の続きをしようよ」
雑渡は半ば強引に伊作を促した。
伊作は気後れしながら雑渡に続いた。
二人で座り、薬箪笥の整理を再開する。
伊作は申し訳ない、と思いつつも嬉しい気持ちでいっぱいだった。
実のところ、尊奈門に感謝の念さえ抱いている。
口実といえば聞こえは悪くなってしまうのだが、尊奈門が伊作の世話にならなかったら、雑渡がここに留まることはなかったのである。
それに、尊奈門が起きてしまったら、こうして二人で話をすることも出来なかった。だから、少し邪まではあるが、目を覚ます気配のない尊奈門に対してありがたく思っていた。
「伊作くん、これはどこにしまえばいいのかな……」
雑渡は小分けにした生薬の包みを手に、薬箪笥を上から下から眺めていた。
「ああ、それは低い方の薬箪笥の……」
その時、伊作の差し出した手が偶然、雑渡の手に触れた。互いに、弾かれるようにして手を引く。生薬の包みが乾いた音を立てて床板に散らばった。
驚きと期待に満ちた視線が絡み合う。
「……すみません」
「いや、こちらこそ……すまない」
伊作の内心は大きく起伏していた。触れた指が微かに痺れている。
はっきりと言ったことはないだが、互いに情を掛けているのが感じられた。言うことは疎んじられた。言葉にしてしまえば、二人の関係は終わってしまう。
雑渡は伊作の将来を案じている面があった。自分と一緒にいては、伊作のためにならない。そんなことを言っていた。伊作とて、もう子どもではない。分別のつかない齢はとうの昔に過ぎていた。物分りよく振舞わねばならない。それなのに、どうしようもなく我侭になりたいときがあった。
だから、伊作は雑渡といる時間を嬉しい反面、切ないとも感じていた。言葉に出来ない想いを抱えて、あと何度会えるだろうかと考えてしまう。
「落としてしまったね……」
取り落としてしまった包みを拾い集めようとする雑渡の手首を伊作は掴んだ。
一瞬、雑渡が息を止めたのが分かった。
「お願いします。少しだけこのままでいてください」
伊作は訴えた。雑渡は黙って頷いた。
春の陽が明かり障子を通して室内にやわらかく降り注ぐ。
雑渡は伊作の行為を責めなかった。無言で伊作を見つめていた。その表情はやさしかった。
「僕は尊奈門さんに感謝しているんです。あなたとこうして、二人きりでお話できたから……」
「じゃあお互い様だ。わたしは、尊奈門をダシに使ったよ」
突然、雑渡は心の内をさらけ出すように告げた。
それは伊作に会いたかったという意味にとってもいいのだろうか。
伊作は喉元に這い上がってくる言葉を必死に飲み込んだ。かわりに、ただ頷いた。掴んだ手が湿り気を帯び、その吸い付くような感触にうっとりとした。
このまま何も考えずに、ただ一言、慕っているのだと伝えることができたならどんなに楽だろう。
けれども、雑渡の心中を慮ると、とてもそのようなことは口に出せなかった。
雑渡はやさしい。今もこうして伊作に注がれるまなざしはやさしく愛しさに溢れている。それはこれからも変わらないだろう。
だから、伊作もやさしく在ろうと思った。
この一身で、暖かな春の陽のように雑渡を包み込める存在になろう。
伊作が雑渡に身を寄せようとしたその時、医務室の戸が勢いよく開いた。
「失礼いたします」
言いながら入ってきたのは、雑渡の信頼する部下の一人、高坂だった。間の悪いことを知ってか知らずか、遠慮の欠片は微塵もなかった。
「ちょ、え、何、陣左。わたしたち、いい雰囲気だったんだけど……」
予測不能な部下の行動に雑渡はめずらしく動揺している様子だった。
「そうですか。それは重ねて失礼いたしました」
「失礼されても、甘い時間は戻ってこないんだけど」
「タソガレドキに組頭が戻られない方が大問題です」
高坂は悪びれた様子もなく、上司である雑渡と顔見知りである伊作に一礼すると、何のためらいもなく尊奈門が寝ている隣室の襖を開けた。
「おい、尊奈門。いつまで寝たフリをしている。帰るぞ」
高坂が厳しい口調で激を飛ばすと、布団からむくりと尊奈門が起き上がった。
伊作は驚愕し、絶句した。尊奈門は狸寝入りをしていたのである。
雑渡の方を見ると、バツの悪い顔で伊作に手を合わせて謝る仕草をしてみせた。
「雑渡さん、知っていたんですか……」
伊作は自分の顔が真っ赤になっているのが分かった。
尊奈門が起きていたのだとしたら、あれやこれやの恥ずかしい会話も聞かれたことになる。
そう思うと、今度は顔が青ざめた。
尊奈門が申し訳なさそうな視線を伊作に送ってきた。
「ごめんね、善法寺くん。だって、組頭が矢羽で、今起きたら減俸って脅すもんだから、つい。権力には勝てなくて……」
襖を開けた時、雑渡の口から漏れたあの舌打ちのような音は矢羽だったのだ。
「雑渡さんってば、何を考えているんですか」
「ごめん、ごめん。あ、尊奈門と陣左は減俸ね」
雑渡はさらりと笑顔で飛んでもないことを言う。おかげで、二人の部下は顔を青くして固まってしまった。
それを見た伊作は、さすがに可哀そうだと思ったし、私情が入りすぎていると思ったので、助け舟を出した。
「そんなことをするんだったら、今後、雑渡さんは医務室出入り禁止です」
「え。いやだなー。減俸なんて冗談だよ。冗談。本気にした?」
雑渡は身の危険にすぐさま反応した。
絶対に本気で減俸しようとしてただろうな、と伊作は思った。あとの二人もきっとそう思っているに違いない。ひたすら、信じがたいという視線を上司に送っていた。
伊作はそれが可笑しくて笑った。
大きく息を吸う。
桃の甘い香りが胸を満たしていった。
おわり20120310