薄野
息を切らしながら影と一緒にやってきたのは雑渡昆奈門の待ち人だった。
「お待たせしてすみません、雑渡さん。出掛けにいろいろあって。ああ、でもまだ居てくださってよかった」
弾んだ呼吸で一息にまくしたてると、善法寺伊作は手の甲で額の汗をぬぐった。
「本当に来た……」
意外だとでもいうような雑渡の言葉に、伊作はごそごそと綺麗に折り目をつけた紙切れを取り出した。
「だって、お手紙を下さったものですから」
月明かりがたった一行の筆跡を映し出す。
薄野で
伊作は嬉しそうにその手紙を雑渡に示した。
まぎれもない、それは確かに雑渡の書いたものだ。
にわかに吹いた風が一面のススキを一斉に傾がせた。銀の海に一瞬、目を奪われる。
「これでも忍たま六年ですよ。詳しいことが書かれていなくても大体わかります。先日、高坂さんと尊奈門さんにお会いして学園の裏々山のススキ野原に薬草があることをお伝えしましたし、お忙しい雑渡さんのことだから会いに来てくださるなら忍者の仕事がない満月の時分かなって」
忍びは月明かりはおろか、星明りでさえも仕事に差し障りがあると言って嫌う。
正解でしたね、と言って伊作はにっと笑うと、その手紙を大事そうにしまった。
つられて雑渡も目が笑った。
雑渡が意外に思ったのは伊作が手紙の意味を理解していたことではない。
伊作が今日、ここに来たことに対して驚いたのだ。
雑渡に会う会わないの判断は伊作に任せた。
ずるいとは思うが、まっとうだとも思う。
会いたいと思うのは雑渡の勝手だし、会えないと思うのは伊作の都合だ。
けれど、伊作は雑渡の望む選択をした。
初秋の涼しい夜風が通り抜けていく。雑渡はそこではじめて、自分の頬が熱くなっていることに気付いた。
「用事はなかったのかい? 出掛けにいろいろあったと言っていたけど」
気を紛らわすためにそんなことを訊いてみる。
「あー……大したことではないんですけど……医務室で薬を整理してたら零したりばら撒いたりして整理が掃除になったりとか、いざ出かけようとしたら庭の穴に落ちたりとか……まあ、いろいろですよ」
「いつも通りのいろいろだね」
「あはははは。見てくださいよ雑渡さん。ぽっかり真ん丸お月様ですよ。こんな日は忍者は休業ですね」
「君の場合、年中休業だろ」
「うぐっ。あ、知ってますか雑渡さん。ススキってあの馬の尻尾みたいなところが花で、昔の人は尾花とか美草っていったらしいですよ。風流ですよね」
「伊作くんは不運だよね」
「うっ。そ、そんなことより、足の捻挫の具合はどうですか」
雑渡は横座りの積み重ねで足を軽く捻挫していた。捻挫に効能のある薬の材料を探していた高坂と尊奈門に偶然、伊作は出会っている。
「もうすっかり良くなった」
「それは何よりです。もう横座りはよした方がいいですね」
「えー。それは困るなあ。個性が死んじゃう」
十分個性的ですよ、と伊作は苦笑いになった。
「まあ、それはそれとして。高坂さんと尊奈門さんは一所懸命でしたもの。お二人のおかげですね」
「不満かい」
「そりゃ、忍術学園の医務室を訪ねてきてくだされば、すぐにでも薬をお分けしましたけど……。でもタソガレドキにはタソガレドキの立場があるでしょうし、正面切ってそんな頼み事はできないんでしょうし……」
「……いや、そうではなく」
伊作の期待外れで、しかも結構たんぱくな物言いに、雑渡は気が抜けた。
もっと照れておどおどしてあたふたして、しまいには怒ってしまう……そんな伊作の姿を想像していたのだ。
「妬けるかい、って訊いたの」
雑渡は意地悪い笑みを浮かべた。
一瞬、伊作の目が点になったのが分かった。ぽかんと夜空に浮かんだ月のように口を開け雑渡を見つめている。
風がススキの細い身をこすり合わせ、乾いた音を立てる。
やがて伊作はぽつりと零した。
「正直、妬けますね」
伊作の言葉はあまりにも静かで、雑渡はさっと真顔に戻った。
「本当に?」
真面目に問う。
「ええ。でも、それより何より、どきりとしました。あなたに何かあったって」
伊作の目尻がうっすら濡れているのがはっきりと分かった。
「高坂さんと尊奈門さんが何の薬草を探しているのか分かって、ああ、大した怪我じゃないって判断がつきましたけど……肝が冷えたというか、何も考えられず怖かったです」
雑渡は自分の傲慢さを申し訳なく思った。伊作の本心も知らず、ただ伊作の気持ちを試すようなことを言った。
「……ごめん」
「いえ、そんな……。ただの八つ当たりです」
固く目を閉じた伊作の姿が切なかった。
伊作が雑渡の傍に常にいることはできない。
雑渡が怪我をしたとしても、それを知る術はない。
たとえ、知ることができたとしても、それは人づてに聞くしかない。しかも随分、時が経った後に。
それはどれほど苦痛でどれほど耐えがたことだろう。
雑渡のことを身近に感じている伊作にとってはなおさらだろう。
「伊作くんのそれは八つ当たりじゃなくて、心配だろう」
「そうだといいのですけど……まだ未熟ですね」
癪を起したことが未熟なのか、はたまた、二人の立場についての分別をつけられないことが未熟なのか、伊作の心のうちは読めなかった。
けれど、伊作が雑渡を気にかけていることは分かった。
「わたしはとても嬉しいよ。ありがとう」
「僕も、あなたが元気な姿で会いに来てくれて嬉しいです」
伊作はちょっと照れくさそうにうつむいた。
誰かに心配をしてもらうなど、雑渡の三十六年の人生の中で数少ないことだった。
他者に気遣われることがこんなに嬉しいことだとはすっかり忘れていた。
伊作は雑渡にいろいろな人間らしさを思い出させてくれる。
手紙を書くこと。
約束をすること。
誰かを待つこと。
頬が熱くなること。
人をいとおしく思うこと。
そして、自分のこと……雑渡昆奈門のこと。
五十年にも満たないかもしれない一生を、忍びとしてこの乱世に生きることにどういう意味や価値があるのか分からなかったけれど……。
でも……。
ここにあった。
伊作が言葉を待つように首を傾げた。後ろ髪がススキのやわらかな穂のようにふわりと揺れる。頼りないその細身は、月下に輝く華奢な植物を連想させた。
雑渡は伊作の手首をつかんだ。
一瞬、伊作は気後れしたような目を向けた。
「あ、あの……誰かに見られたら」
「今更かい。それに大丈夫。君は上手に隠れてるよ」
雑渡よりも一回り小柄な伊作は頭の先までススキの群れに埋もれている。
その姿をかわいらしいと思ってしまったのが顔に出ていたらしい。伊作はむっと頬を膨らませた。
「そのうちぐんと大きくなって、このススキよりも大きくなって、それで、雑渡さんなんかすぐに追い越しちゃうんですから」
「へー、そりゃ大変だ」
喉の奥で笑いながら、雑渡は伊作を自分の胸に包み込んだ。
「こういうことができなくなってしまう」
伊作は観念したのか、大人しく身を寄せた。
「雑渡さんが困るから、背丈はこのままにしておこうかな……」
照れたように言う伊作は本当に健気だった。
「君は若いんだし、きっとすぐに大きくなる」
「大きくなったら嫌ですか」
「安心おし。君がどんな姿になっても、いくつになっても、どこにいても、わたしは花を抱くように君を抱くよ」
虫の音が遠くで響く。伊作の温かさと若々しい汗ばんだ身体に雑渡の意識は深く沈み込むようだった。
意味はずっとここにあったんだ。
「目が眩む……」
月の光が白銀の海を一層きらめかせていた。
終わり 20131013
※コミックス第53巻
ススキの花言葉は心が通じる、だそうです。
美草っていったのは額田王だそうです。