天上の花


 この赤い色はいけない。
 木々を渡る風の中、陣内左衛門は足元から目を逸らした。陣内左衛門を取り囲むようにして、彼岸花が燃えるように咲いている。揺れ動く度に赤い色が何重にも見え、まるで辺り一面が火の海のようだった。
 息をつき、頭上を仰いだ。風に吹かれて裏返った葉の隙間から灰色の空が見えた。曇天である。そういえば、今朝城を出るとき尊奈門に言われたのだった。
「夕方から雨ですよ。ちゃっちゃと組頭を連れ戻してきて下さいね。まったく……忍術学園に遊びに行ったきり、ちっとも帰って来ないんですから」
 埃まみれになった尊奈門がハタキを振り回しながら言った。自分では決して掃除をしない雑渡の部屋の清潔さは、諸泉尊奈門の采配によって維持されているといっても過言ではなかった。忙しげに掃除をしながら、しかし、陣内左衛門の顔をちらとも見ようとしないその後輩の偉そうな態度に少しだけむっとした。
「お前、簡単に言うけどなあ。あれでなかなか手強いんだぞ」
「どっちがです? 組頭が? それとも善法寺伊作が?」
 容赦なく切り込まれ一瞬息が詰まった。もちろん陣内左衛門は雑渡のことを言ったのだ。けれど、そんな風に改めて訊かれると、一体自分はどちらの人物を評して手強いと言ったのか途端に分からなくなる。
 善法寺伊作について、陣内左衛門はどれほどの知識も有してはいなかった。名前と顔を知っているくらいだ。しかも、はっきりと伊作の顔を記憶したのもついこの間のことなのだ。忍術学園のオリエンテーリングの最中、雑渡が彼に接触した折だった。
 雑渡が伊作と知り合ったのは、オーマガトキとの合戦場だったと聞いていた。なんでも、怪我の手当てをしてもらった縁らしい。
 妙な縁もあったものだ、と当時の陣内左衛門は嘆息した。人の生命を奪う忍者と人の生命を救う忍者。その奇妙な取り合わせに少しだけ興味を持った。北と南のように正反対を生きている者同士がどんな風にして心を通わせるのだろう。どんな風に影響し合うのだろう。そのことは、良い方向へでも悪い方向へでも、お互いを変えていくに違いないのだ。変化は避けられない。
 陣内左衛門の目に伊作は、何とも頼りなげな存在に映った。
 来春には忍者になるのだという彼は、そんなことを微塵も感じさせないほど忍者に向いていないようだった。雑渡から聞いていた様子通りで驚いてしまった。雑渡でなくても、思わず手を貸したくなるような子どもだった。ちょっと抜けてて素朴で単純で純粋で。しかし、やさしい人となりだということは感じた。雑渡が夢中になるのも分かる気がした。
 伊作に手強く執着しているのは雑渡の方だ。
 陣内左衛門はかぶりを振った。
「とにかく。早いとこ連れ戻さないと殿にばれる。今だってぎりぎりのところで誤魔化してるんだ」
「そうですよね。もう、痔とか下痢とかじゃ誤魔化しきれませんよ」
「……おまっ、そんなこと言ったのか? もっと他にあるだろう。竹の採取とか領地の見回りとか」
 呆れた陣内左衛門に、尊奈門はぺろりと舌を出した。
「組頭には反省して頂かないといけませんから」
 命知らずな、と思いつつ、そのときの尊奈門も生意気な顔が浮かんでくると、陣内左衛門は笑ってしまった。
 とにかく、陣内左衛門は上司である雑渡を連れ帰らなくてはいけないのだ。雑渡だって空気が読めないほどうつけではない。放っておいても勝手に帰ってくるのだろうけれど、尊奈門の勢いに押されるまま、忍術学園付近の森まで迎えに来てしまった。そこで足を囚われたのだ――この膝下を埋め尽くす彼岸花に。
 陣内左衛門は木に背を預けた。踏みしだいた彼岸花の、むんとする青臭さが鼻をついた。頭の片隅がじわじわと痺れてくる。それは決して臭いのせいだけではなかった。
 ――ああ。やはり、この赤い色はいけない。
 陣内左衛門はかたく目をつぶった。
 物事には連想というものがある。陣内左衛門にとって、まさに彼岸花がそれだった。秋が近づくと何の前触れもなく突然に咲き始めるこの花の別名は死人花。死者に寄り添って咲く花なのだと教えてくれたのは、確か雑渡ではなかったか。
 なんともぞっとする花だった。だからこの花を見つけると不安になった。
 この花は、その昔、雑渡を蝕んだ炎によく似ているのだ。炎は雑渡を死者に近づけ、手放したと思ったら消えない傷を残していった。
 陣内左衛門はあのとき抱いた恐怖を忘れられないでいた。仲間に聞かれたら笑われるかもしれないが、小心者と言われようが臆病者と言われようが、どうしても拭えないのだ。  雑渡を失くしたかと思った。自分の何か一番大事な根幹のような部分が崩れ落ちてしまったような気がした。足元が無くなって辺りは暗くて、どこにも行けないような気がした。ただただ、恐ろしかった。もう二度とあんな思いはしたくない。だから、今度こそ守ると決めたのだ。この手で。
 赤い記憶と赤い傷。一生負い続けて行くのはどんな気分なんだろうか。陣内左衛門はくちびるを噛んだ。結局、自分には何も理解できないのだ。陣内左衛門と雑渡は、身体も記憶も別々なのだから。
 雑渡はすっかり元気だ。何も心配要らない。今だって城を抜け出して忍術学園に遊びに行くくらいなのだから。雑渡はとっくの昔に乗り越えているのだ。それなのに。
「私ばっかりが、乗り越えられないんだよなあ……」
 ひとり呟いてみる。
 風が吹いた。禍々しい赤色がいっせいに揺れ始めた。


「雨が降るかもしれません」
 曇り空を眺めながら伊作は言った。灰色の雲は厚く、流れも速く感じられた。伊作の視線につられるようにして、隣を歩いていた雑渡が空を見上げた。
「本当だ。日が暮れる前に降り出すかもね。ここで別れようか」
 途中まで送ろうと同行していた伊作に雑渡は言った。伊作は残念に思った。もう少し一緒にいたいような気もしたが、雑渡の気遣いを無駄にはできなかった。実際、忍術学園を出たときよりも風が強くなっている。森の木々が騒がしいくらいにざわついている。天候が崩れるのも時間の問題だった。
 伊作はしぶしぶ頷いた。そんな伊作の様子を見て、雑渡は笑った。
「また寄るよ」
 大きな手が伊作の頭を撫でた。自分でも本当に単純だと思うのだが、それだけで顔がにやけてしまう。確実な約束とまではいかないけれど、それでも雑渡が伊作に会いに来るかもしれないという希望が持てただけで十分だった。そんな些細なことが、伊作にとってはとても重要だったのだ。
 変に期待するのはよくない。けれど、死に近い場所で仕事をする雑渡にはいつ何時会えなくなるか分からないのだ。だからどんなに小さくても少なくても一瞬でも、二人で共有できる時間があるのならそれを大切にしたかった。わがままや贅沢は言わない。いつでも笑顔でいようと、雑渡と本気で向かい合う覚悟が出来たときに決めたのだ。
 だから、伊作は笑った。
「お元気で。身体、大事にして下さいね」
「うん。伊作くんもね」
 つと、雑渡の手が伸びてきた。しなやかな指が伊作の頬に触れる。促されるようにして、伊作は顎を反らした。静かに目を閉じる。くちびるの端にやわらかいものが触れた。やさしくついばむ様にして離れていく。すると次の瞬間、腕を引かれた。目の前に雑渡の鎖骨が見えて、ああ、抱きしめられたのだと思った。伊作はつま先立ちになり、男の首に腕を回した。重心が崩れ、そのまま草むらに倒れ込む。どちらも無言だった。ただ、身体だけが熱いように感じられた。耳に聞こえてくる脈の音は、もうどちらのそれか分からなかった。
 ふいに、風に倒された草むらの向こうに赤いものが見えた気がした。伊作は身を起こして視線を投げた。彼岸花の群れだった。その圧倒的な花群れに息をのんだ。
「いつの間に咲いたんでしょう。ここへはよく薬草を採りに来るのに気が付きませんでした」
 誘われるようにして歩き出した伊作を雑渡はゆっくりと追ってきた。
「すごいね。真っ赤っか」
 風が吹きぬけて、赤い絨毯を激しく揺らした。それを見つめていると、伊作のこころもざわついてきた。後ろに立った雑渡を振り返らずに言った。
「雑渡さんと初めて会ったときみたいですね」
「死人花なんて咲いてたっけ」
 その声の調子から、姿は見ずとも首をひねっている様子が伝わってきた。伊作は首を振った。
「いえ。違うんですけど。でも、そう、あそこは合戦場だったから、たくさん血を見ました。ちょうどこんな感じで、どこを見ても赤かったんです。雑渡さんも赤かったです……」
「そう……。そうだったかもしれないね」
 会話が途切れた。もっと気の利いたことを言えればいいのに。沈黙に圧されてこころばかりが急く。何も言えなくなったのは、彼岸花に胸のうちを暴かれたような気がしたからだ。
 本当はずっと不安だったのだ。希望が持てるだけで十分なんて嘘だ。もう、ずっと不安の中を彷徨っているのだ。
 ――雑渡さんが死んじゃったらどうしよう。
 頭の隅の隅の隅では、そんなことをずっと考えていたように思う。考えないようにしても、ふとした折に突きつけられてしまう。結局、わがままや贅沢を口にしないのも、ただの強がりなのだ。でもその強がりがなければ到底やっていけない。それが伊作に与えられた現実だった。
 雑渡と出会ってから、季節は確実に移り変わっていた。夏から秋へ。
 風の匂いも空の色も、何もかもが刻々と変化している。
 それは本当にどうしようもないことで、当たり前のことで、誰にも止められないことなのだ。時間が止まるなんてことはあり得ない。死にでもしない限りは。すべては、生きているからこその時間の経過なのだ。
 しかし、雑渡と伊作にとって、互いに与えられた時間がどのように過ぎていったのかは皆目見当もつかないことだった。
 だから伊作は不安に駆られる。
 もしかしたら雑渡は、伊作と初めて出会った状況さながらの場面にいたかもしれない。この彼岸花みたいに真っ赤な血を流し、もだえ、その命を遂げようとしていたかもしれない。
 無論、このことは伊作の想像に過ぎない。けれど、何だか足元が地に沈み込んでいくような不安に襲われた。寒くはないのに背筋に悪寒が走った。無理やり笑おうとしたけれど、やはり上手くいかなかった。
 雑渡は伊作の隣に並んだ。膝を地に付けて屈み込む。抑えた声で囁くように言った。
「この火傷を負ったとき――」
 雑渡は両腕をさすった。
「わたしは火の海の中にいた。ちょうど今みたいに目の前が真っ赤だったよ。死ぬかなと思った。でも死んでもその炎の中で成さなきゃいけないことがあったから……あのときは本当に必死だった。熱いとか怖いとか一切感じなかったんだ」
 伊作は頷いた。雑渡が自分の過去について話してくれたのは初めてだった。だから伊作は黙って雑渡の横顔を見ていた。伏し目がちになって話すその横顔を、本当に美しいと思った。
「でもしばらく経って、自分が生きてるのも不思議なくらいの火傷をしているのに気づいて。ちゃんと動けるようになって、火傷したことなんて忘れたはずなのに、思い出しちゃうんだよね。傷が疼いて足が竦んで……恥ずかしい話だけど、火を見るとちょっと怖くなる」
「恥ずかしくなんかないですよ」
 伊作は自嘲気味に笑う雑渡にまくし立てた。
 季節がどれだけ移ろっても、拭いきれない恐怖がある。雑渡は、もうずっと長いこと独りで耐えていたのだ。それはどれだけ途方もないことなのだろう。
「僕は雑渡さんの身体を見たとき思ったんです。痛かったろうな、怖かったろうなって。よく頑張ったねって……そう思いましたもん。雑渡さんは立派です。その恐怖は雑渡さんが立派だった証です。だから、いいんですよ。恥ずかしくなんかないですよ。むしろ恥ずかしいのは僕の方です」
 伊作は両手を握り込んだ。爪が手のひらに食い込む。ぎゅっと閉じた目から滴が落ちた。赤い花弁の上で弾ける。
「そうやって雑渡さんは頑張ってるのに、僕ばかりが不安の中にいるんだと思ってました。雑渡さんの心中を知ろうともしませんでした。雑渡さんの苦しみや悲しみを分かろうとする機会も持たず、僕はそういう雑渡さんの過去を作ってきたことに対して、まったくの無関係であろうとしていたんです。ぬくぬくした安全な場所で、雑渡さんが死ぬかもしれないとか、ありもしないただの想像に恐れを抱いていた僕は本当に愚かです。こんなにも愚かでなければ、もっとあなたを抱きしめられたのに――」
「怖い思いさせてたんだね。ごめんね」
 立ち上がり、雑渡が言った。伊作はその顔を見ることが出来ずに黙っていた。ただ風だけが吹いていた。涙の筋が冷やされていく。
 彼岸花がしきりに揺れていた。救いを求めるようにして虚空に緋色の指がひしめく。
 この赤い指は雑渡のものだろうか、それとも自分のものだろうか。
 伊作は自分の指を見つめた。
 この二本しかない腕で、十本しかない指で、雑渡さんを支えられるだろうか。救えるだろうか。雑渡さんはほんの一部分ではあったけれど、自らの過去を語ってくれた。そのほんの一部分の負荷を丁寧に癒し包み込むことが出来るだろうか。
 雑渡が手を絡めてきた。
「わたしもこの死人花の一つだったんだよね。伊作くんに救いを求めて、そして助けられた。初めて出会ったあの時から、もうずっと君に支えられてる。伊作くんは決して愚かなんかじゃないよ。怖いことがあっても色んなことに負けそうになっても、伊作くんがいるから大丈夫って思えるんだ。だから、ありがとう。わたしの傍にいてくれて本当にありがとう」
 雑渡は伊作の両手を包み込むようにして持ち上げ、そっとくちびるを落とした。
 伊作は笑った。礼を言われて嬉しかったからじゃない。また一つ、雑渡に対する覚悟が増えたからだ。
 ――どんなことがあっても、どんなに長い時間を費やしても、雑渡さんを見届ける。
 伊作は雑渡といるとどんどん強くなれた。覚悟をするということは、きっと勇敢になることなのだろう。雑渡のためなら、どんなことも出来ると思った。
 伊作は雑渡に手を握られたまま、ぴしっと背筋を伸ばした。


 陣内左衛門は出て行く機会を完全に失っていた。断言しておくが、盗み聞きをしようなどという考えは微塵もなかった。聞こえてきてしまったのだ。声を掛けるのも何となく躊躇われた。二人の邪魔をするほど野暮じゃない。第一、そんなことをしようものなら後々、雑渡に何をされるか分かったもんじゃない。避けられる危険は避けるべきである。
 背中を木に預けながら、陣内左衛門は息をついた。隠れて耳をそばだてているという現状に多少の居心地の悪さも覚えつつ、それでも陣内左衛門の心中は穏やかだった。雑渡と伊作の会話に耳を傾けるうち、迫ってくるような息苦しい恐怖は消えていた。それは、善法寺伊作という人物の言葉を直接、自分の耳で確かめたからかもしれなかった。幼い言い回しの端々に、伊作の真心が敷き詰められているような気がした。
 ――彼は組頭に対して、必死に寄り添おうとしてくれている。
 そんな風に思ったのだ。そのことは、陣内左衛門のこころをほぐし温めた。
 二人の不器用なくらい拙いやり取りに、陣内左衛門は勘違いをしていたことに気づいた。
 ――組頭は乗り越えてなんかいなかった。でも今、乗り越えようとしている。善法寺伊作と共に……。
 そんなことを思っていたら声を掛けられた。
「陣左。盗み聞きはよくないよ」
 ……さーすが組頭。ばれてたのね。
 後が怖いぞ、と思いながら、陣内左衛門は潔く姿を現した。いくらも離れていない場所に二人はいた。彼岸花の赤い川を挟んでこちらを見ている。
「お迎えに上がりました」
 陣内左衛門が用件だけ言うと、雑渡は浅く頷いた。その隣では伊作が真っ赤になっている。きっと陣内左衛門にすべてを聞かれていたことが恥ずかしかったのだろう。もっともだと思う。陣内左衛門は、かわいそうなくらい羞恥に染まった伊作に、こころの中で謝った。
 伊作に手短な別れを告げ、雑渡がこちらに向かってきた。泣くんじゃなかろうかと思って、陣内左衛門は伊作の方をじっと見ていた。
「睨むなよ」
 薄く笑いながら言う雑渡に、陣内左衛門は抗議した。
「睨んでません。元々、目つきが悪いんです」
 すっと静かに雑渡の肩が並ぶ。結局、伊作は泣かなかった。それどころか、満面の笑みを浮かべていたのだ。意外だった。もっと見た目みたいに女々しい――といったら失礼か。もっと脆弱な生き物なんだと思っていた。だから驚いたのだ。尊奈門が伊作を手強いと称したことが、今になってようやく腑に落ちた気がした。確かに、別れの一つひとつが今生限りになるかもしれないのに、それでも笑顔で送り出せるその伊作のこころは頑強なものに思えた。
 けれど、雑渡に向けられた伊作の笑顔は、ただ優しいだけではないように思えた。言えなかった言葉も少なからずあったのだろう。伝えられもせず、でも呑み込むことも出来なかった感情が、その痩身で渦巻いているように感じられた。だから、嬉しさも楽しさも悲しさも寂しさも満遍なく内包したような、いびつで静謐で透明な笑顔がそこにあるように感じたのだ。
 そんな風にはとても笑えない。陣内左衛門はそんなことを思った。だから、笑っている伊作を見て、強いんだな、と感心した。
「いいんですか。あんな簡単な別れ方で」
 雑渡は笑った。
「いいんだよ。また会うんだから」
 雑渡の明確な意思に殴られたような気分になった。本当だったら「約束なんてするもんじゃありません」と諌めるべきなんだろうが。とうとう、陣内左衛門は何も言えなかった。朗らかに笑う雑渡の顔が、本当に幸せそうだったからだ。
 ふと、昔、雑渡に言われたことを思い出した。彼岸花の別名は死人花。死者に、或いは死に近いものに寄り添って咲く花。
 けれどあのとき、雑渡はこうも言っていなかっただろうか。
「でもね、そんな不吉な名前ばっかりじゃなくて、曼珠沙華とも言うんだ。天上の花、仏様の傍に咲く有り難い花だね」
 陣内左衛門は再び、伊作に視線を投げた。その僅かな時間。二呼吸くらいの時間だ。その一瞬ともとれる間に、陣内左衛門は初めて伊作と真正面から向かい合った。検分するような陣内左衛門の視線に、伊作が射すくめられたように身を固めたのが分かった。寂しい森の焔の中で、伊作だけが切り取られたように見えた。凛として、陣内左衛門をまっすぐに見つめてくる。
 きっと、伊作も雑渡も強がりながら生きていく。
 それがどういう世界なのか、陣内左衛門にはとても想像できなかった。きっと、伊作と雑渡しか知り得ない世界だ。
 そんな風に、誰かを恃みながら生きていけたらどんなに幸せだろうかと思った。自分にはとてもそんな力はない。誰かを痛烈に想うあまり、狂ってしまうような強がりは、自分の中にはまだ、ない。でもその強がりの中から生まれた相手を思いやるこころは、たくさんの困難を乗り越えていく力になるのだろう。
 天上の花。
 もしかしたら雑渡は、伊作の中にそれを見つけたのかもしれない。陣内左衛門は雑渡と伊作の出会いに感謝した。これから二人が歩いていく道がどんなものなのか分からない。けれど、陣内左衛門は知っていた。伊作と向かい合う雑渡は、とても人間らしく、そして美しいのだ。
 振り返ればもうすでに雑渡は帰路を歩んでいた。伊作に軽く頭を下げ、陣内左衛門も雑渡に続いた。
 目の端を赤い色が掠めていく。
 それらをなるべく踏まないように慎重に歩いた。


 終わり 
20100904


戻る