遠い朝
暮れていく庭がみえる。鈴虫が何かを探すように鳴いていた。
その人恋しくなるような響きに耳を傾けながら、伊作は男の背に問いかけた。
「あしたは、早くに発つんですか」
医務室前に座り込んだ雑渡がうなずく。
「うん。ちょっとした遠出になるからね」
そうですか、と男の隣に座りながら伊作は言った。
夜に変わる前のわずかな茜色が、二人の膝を染めている。
「雑渡さん」
雑渡が首を傾けた。先ほど取り替えたばかりの包帯が白々としていた。
「今回のいくさは、終息するまでにどれくらいの月日がかかるんでしょうか」
うーん、と雑渡がうなる。
「分かんないなあ。その状況にもよるしねえ」
「そ、そうですよね……」
伊作はあわててうつむいた。つまらないことを聞いてしまったと思った。
今は雑渡と話ができる限られた時間なのだ。少しも無駄にはしたくない。
山の端に隠れようとする夕日が恨めしかった。
雑渡から、いくさがあると聞いたのは何日も前のことだった。
城就き忍者ともなれば、ありきたりな仕事のひとつだろう。
でも、伊作にとっては違った。
もちろん、いくさなんていつもどこかで起こっている。どこかで起こってどこかで勝手に終わっているのだ。勝ったり負けたりするのもどこかの知らないだれかだ。
でも、今目の前に突きつけられたいくさは、どこかのだれかじゃない。
雑渡なのだ。
憎からずも思っている人間が、生き死にを賭けるような場所に赴こうとしているのだ。
伊作は、突然に安逸とした日常を裂かれた気持ちになった。
そのばらばらになった気持ちを立て直せないまま、今日まで来てしまった。
明日、雑渡は遠くへ発つ。
うつむいたままの伊作に、雑渡は明るく言った。
「しばらくお別れだけどさ、またすぐに会えるよ」
伊作はうなずかなかった。うなずけなかったのだ。
この人が無事に帰ってこられるなんて、分からないじゃないか。だれにも分からない。
ぎゅっと目を閉じた。目の裏が赤々と灼けるようだった。
いつもこんな思いをしている気がする。じっと待つだけ。
そのことは伊作を支えもしたけれど、苦行と思える一因にもなった。
こころが弾むというよりは、ただ辛い。
ふいに、膝に圧力がかかった。何事かと目を開ける。
座った伊作の膝に、雑渡の頭があった。横になって寝ているのだ。
「……なにしてるんですか」
「ちょっと借して」
言うなり、雑渡が太ももに頭をこすり付けてきた。とろけそうな顔をしている。なんとも気持ちよさそうだった。
そんな姿を唖然と見ながら、伊作は頬をひきつらせた。
「男の膝枕なんて、居心地悪いだけでしょうに」
「ここより他に居心地いい場所なんてないよ。まさに極楽。一番よく眠れそうなんだ」
「恥ずかしい人……」
内心呆れつつも、意に反して顔は赤くなってしまう。
それを見て、雑渡がくすくすと笑った。笑いながら手をのばし、伊作の流れ落ちた髪をからめとる。
「伊作くんにはいろいろと借りがあってまだ返せてなくて。だから、きっとわたしは帰ってくるよ」
急にまじめな視線をむけられて、伊作は息をのんだ。
雑渡が伊作をなだめようとしているのが分かった。
それでも、伊作の眼裏は熱を増していく。とめられなかった。顔がゆがむ。
「ぼく、伏木蔵に言っちゃったんです」
「何て?」
「雑渡さんは大丈夫だって。無事に帰ってくるって。だから――」
「だから?」
雑渡がまっすぐに見つめてくる。その眼はいけない。その眼はいつも伊作をあらわにしてしまう。
「だから、死んじゃ嫌です……」
目頭が熱い。のどと鼻の奥がじわじわして、ずっと我慢していたものがあふれてくる。
「ぼくを嘘つきにしないでください」
「伊作くん……」
「雑渡さんも嘘つきにならないでください。できないことは言わないでください。守れない約束ならしないで」
声がふるえた。くちびるを噛みしめる。
自分でも何を言っているのか分からなかった。ほとんど脅迫に近いことを口走っているような気がする。
雑渡はゆっくりとまばたきをした。そして少し笑った。
「伊作くんはあったかいね。すごくあったかい。……またここで眠りたいな」
そう言って、雑渡は自らの四肢を少し丸めた。
急に雑渡のことが小さな子どものように思えた。心細さに何かに縋るような姿だった。
「ぼくの膝枕なら、いくらでも貸してあげますよ」
雑渡がわずかにうなずいた。その黒い髪にそっと触れてみる。陽の匂いがした。
「わたしはここに帰ってくるよ。必ず起こりうる未来にしてみせるよ」
まるで予言だ。でも、そのことばの響きには少しも歪みがない。雑渡の強い意志が伝わってくるようだった。
「明日からのわたしはタソガレドキのために在るけれど、それが終わったら伊作くんにわたしの時間をあげるよ」
「何言って――」
雑渡が首をふる。
「伊作くんからは与えてもうばかりで。それくらいしか返す方法を思いつかないんだ。だからわたしは死なない。わたしも伊作くんも嘘つきにさせない」
伊作は深くうなずいた。
雑渡が伊作の髪にくちびるをそわせた。その慈しむような安らかな感触に溺れそうになる。
少しだけ足が痺れていた。でも、なぜか今はそのことが心地いい。
この重さ。
雑渡の頭ひとつぶんの重さだ。
それをいつでも受けとめたいと思った。雑渡の言う未来にその機会が与えられるのならば、清らかな重さを一身に受けとめたい。
鈴虫が鳴いている。消えそうでなかなか消えない応酬が続く。
次から次から溢れてくるいのちの応酬。
空に一番星がかがやきはじめた。
深い静寂に小さく遠い朝を思った。
終わり 20100311