月の光


 雑渡が見る限り、というか誰が見ても竹薮に道といえる道はなかった。夕闇のせいで視界が悪い。林立する緑の合間にようやく人の踏みしめたらしいあとを見つけた。足跡は複数あれども、雑渡が目的の人物のそれを間違えるはずもない。いくらもしない内に、探していた彼の後姿を見つけることができた。気配を消し、そっと近づく。後れ毛が見えるくらいまで近づいてもこちらにまったく気づかないことには、さすがに笑ってしまった。
 おいおい。君はそんなんで大丈夫なのかい。背後を狙われてるよ。
「やあやあ、そこのかわゆいお兄さん。忍術学園はどっちへ行けばいいのか教えてくれるかな」
 一つに結い上げた毛の束が勢いよく半周したと思ったら、くりくりとした眼が雑渡を捉えた。
「雑渡さん」
 驚いた声を上げ、善法寺伊作は顔をほころばせた。その柔軟な表情は雑渡を惹きつけてやまない。
「学園に行ったら伊作くんがいなくて。伏木蔵に訊いたら君は近くの竹薮に居るって教えてもらったから追いかけてきた。こんな遅くにどうしたの? 補習?」
 伊作は笑いながら首を横に振った。
「今日の昼、薬草摘みに行くのにこの道を通ったんですけど落し物をしてしまって。探していたんです」
「見つかったの?」
 伊作は恥ずかしそうにしながら、そっと青竹でこしらえた水筒を取り出して雑渡に見せた。雑渡は目を瞬かせた。その水筒には見覚えがある。忍術学園がオリエンテーリングを催した際、雑渡が伊作と伏木蔵に与えた水筒だった。二人は水一つ飲むのにも隙がありまくりで、あまりにも頼りなくて、もう手を貸さずにはいられなかったのだ。
「そんなもの大切に持っててくれてたんだ」
「そんなものって。僕にとっては大事なものです。これに水を入れるとおいしくなるんです」
 それは気のせいだよ。そう言ってやりたかったが、顔を赤らめた伊作は本当に愛らしく、余計な茶々を入れる気も失せた。
 どこにでもある、伊作にだって簡単に作ることができる水筒だ。竹を輪切りにして、取っ手をつけただけの代物だ。それでも伊作は雑渡から受け取ったものが好ましいと思ったのだ。それだけで雑渡は十分満たされた気がした。
「すみません。せっかく遊びに来てくださったのに、随分探したでしょう?」
 伊作は上目遣いで申し訳なさそうに言う。
「大丈夫。君を見つけるなんて簡単さ」
「そう言われてしまうと、気恥ずかしくてたまりません」
 伊作の情けない顔に、雑渡は声をたてて笑った。仮にも伊作は忍者を目指して修行中の身なのである。そんな人間が易々と追跡され姿を暴かれるようなことでは到底いけない。それにも関わらず、簡単に見つけられると言われてしまっては身の置き所がなくなるのも無理はないだろう。
「そういう、忍者としての才の問題は置いといて……。わたしは伊作くんがいつどこにいても、例えば今の時代じゃなくてもどんな姿になっても見つける自信があるってこと」
「大層な自信ですね」
 伊作は肩をすくめそっぽを向いた。その耳の後ろが微かに赤い。薄暗い竹薮の中、雑渡の目にその色だけははっきりと見えた。
 嬉しさよりも切なさが勝った。
 いつかは伊作も離れていく。
 そのことだけはどうしようもない現実のように思われた。確定した未来。きっと、ではなく、絶対に近い話だ。
 段々と濃くなる闇の中、湿った土を踏みしめて歩く二人の足音が続く。こうして二人で肩を並べて歩くという行為自体信じられないことだった。普通であれば出会うことなどない者同士だったのだ。それがどうしてか出会ってしまい、今こうしてここにいる。
 縁とはつくづく不思議で心もとないものだ。そう思わずにはいられない。
「雑渡さん。月が出てますよ」
 突然、伊作が弾んだ声を上げた。伊作に倣って雑渡も顎を反らせた。葉の隙間からほんのりと黄みがかった光が見える。
「こんな夜は忍者もお休みですね」
 振り向きざま、伊作は満面の笑みを浮かべて雑渡の両手を取った。
 風か吹き、耳障りな音をたてて竹が軋む。その音は存外に伊作の心を乱した。気が付けば伊作を腕の中に閉じ込めていた。伊作を早く帰えさなければならないが、そんな殊勝な考えは消し飛んでいた。雑渡の思い通りに抱きしめられている伊作が小さくて、本当に小さくてたまらなかった。
 好きだと、ついてきて欲しいと……はっきりした気持ちを伝えれば、この小さくて頼りなくて不運で善良でやさしい彼は悩むだろう。悩んで思い詰めてぎりぎりのところまで自分を追い込んで。本当は無限大に広がるはずだった伊作の選択肢と未来を毟り取ってしまうことになるのは間違いない。そんなことになったらお互いに辛い。
 もしも。
 もしも奇跡が起こって伊作が雑渡を選んでくれたら嬉しいけれど。それは同時に伊作が雑渡のために切り捨てなければならなかったいくつかの道があったことを意味するのだ。
 雑渡は伊作の悲しむ姿を見たくはなかった。そして、だからこそ伊作の決断を聞くことが怖くてたまらなのだ。
 息を吸い込めば、冷やりとした空気が胸の中に溜まった。
 月光が降り注ぎ、一直線に伸び上がる竹の一つひとつを輝かせる。ひと際美しい輝きを放っているのは皮を脱ぎ捨てたばかりの匂うような若竹だった。
 雑渡は腕の中の少年に意識を戻した。
 間近で見ると、伊作の首は驚くほど細く白い。瑞々しくハリのある表皮をめくれば、そこには一体何が詰まっているのだろう。誰にも知られない場所で一枚一枚、剥がしてみたくなる。
「きれいですね。かぐや姫の物語が生まれたのにも納得できます」
 雑渡の胸から少し離れると、伊作は周囲の光景にうっとりとした声を出した。
 竹から生まれたかぐや姫は、世の男を惑わせて翻弄し、最後の最後には月へと帰ってしまう。何とも滑稽な昔話だった。
「地上に残された哀れな男どもは、一体どんな気持ちでかぐや姫を見送ったんだろうね。妬み、怒り、痛み……。伊作くんはどれだと思う?」
「どれも違うと思います。というよりかは少なくとも僕だったらどれも違いますね」
 伊作はきっぱりと言った。
「多分、悲しいばかりだと思いますよ。だって好きな人が遠くへ行っちゃうんですよ。しかも月だし。そんなの死んだも同然じゃないですか」
 伊作は雑渡の目を穴が開きそうなほど見つめてきた。
「僕は雑渡さんがうんと遠いところへ行ってしまったら悲しいです。もう二度と会えなくなってしまったら悲しいです。雑渡さんは?」
「え?」
「雑渡さんは僕と二度と会えなくなったら僕を妬みますか? 怒りで心を痛めますか?」
 強くまっすぐに見つめられ、雑渡ははっと胸を突かれるような思いがした。
 伊作にもう二度と会えなくなったときのことを想像すると、悲しい気持ちが身に迫ってきた。悲しい気持ちとは心が空っぽになることなのだと思った。
「うん。わたしも悲しい」
「よかった」
 伊作が胸をなでおろした。その顔に安堵の色が広がる。
「伊作くんが望むものなら何だって手に入れる。蓬莱の玉の枝でも龍の首の珠でも。それで伊作くんがわたしの傍にいてくれるというのなら」
「貢ぎ物なんかいりません」
 伊作は苦笑まじりに応えた。
「雑渡さんの心が手に入るなら、僕は他の何も望みません」
「……たくさんの人を手にかけてきた心だよ」
 雑渡は低い声で言った。
「それも含めて、雑渡さんが与えてくれる心なら僕は一身を捧げて応えます」
 辺りは静まり、わずかに風が梢を揺らす音が聞こえるだけだった。
 伊作のつるりとしたシミ一つない頬に月の光が照り返して白く輝いている。
 今、伊作を覆う皮を剥けば、きっと中身は雑渡への想いで溢れていることだろう。
 伊作は躊躇うことなく自らの手を上衣にかけた。袷を緩めると骨ばった肩が覗く。その若い肢体に誘われるようにして月の光が降りてくる。まるで伊作ではなく、どこかの知らない誰かのように見えた。
 月の光は人を惑わす。
 雑渡は自分を戒めると、伊作の上衣をそっと直した。伊作に一身を捧げるとまで言わせてしまったのだ。雑渡もそれに見合うくらいの応えを見せなければならない。この無害な月の光に負けないくらいの応えを。


 終わり 
20110516


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