嘘つきな
忍術学園、保健委員会の内で一番の働き手といえば六年は組の善法寺伊作である。学園最強の不運の持ち主と謳われる伊作は六年連続保健委員におさまったばかりか、六年目の今は保健委員長まで務めている。
その目覚しい働きぶりには、まさにその保健委員長に相応しいものがある。
まず、忍術の朝練も兼ねて日も昇らないうちに山へ薬草を採りに行く。その後は普通に授業も受けるのだが休み時間と放課後は委員会業務に費やす。実技の授業で怪我をした生徒に薬を塗ってやり、腹を壊した生徒に煎じた薬を飲ませ、いつもの取っ組み合いで無駄な怪我をこしらえてきた同級生を叱りながら手当てしてやり、薬草を栽培している畑の手入れをし、採ってきた薬草を分け、必要な薬を調合し、風呂に入って寝るのかと思いきや再び医務室に戻り、灯りに向かいながら薬草の採取記録をめくったり、医術書とにらめっこをしたり……。
なんだか、もう。
「すっごく濃い一日だよね」
天井からぶら下がった雑渡が吐息まじりにそう言うと、伊作は声にならない奇声を発してのけぞいた。
「おや。いい反応」
医務室に当たり前のように立ち装束についた埃を払う雑渡に、伊作は肩で息をしながら大きな口を開けた。
「な、雑渡さん。いきなり背後から声をかけるのは止めてくださいっ」
「ごっめーん」
雑渡があしらうように言うと、伊作は顔を赤くしながらものすごい剣幕で迫ってきた。
「僕は心の臓が飛び出るかと思いましたよ」
「大げさな」
「いいえ。大げさなもんですか。いいですか。人の心の臓の動く回数って生まれたときに決まってるんですよ。今の分で僕は必要以上にバクバクしちゃいました。早死にしたらどうしてくれるんですか」
伊作はそんな風になじりながらも雑渡に座布団をすすめ、お茶まで出してくれた。そういう律儀なところが、つくづく伊作らしいと思いたまらなくなる。
「本当にごめん。でも、伊作くんってば朝から夜まですごく忙しそうで……声をかける機会をずっと待ってたんだ」
伊作がぎょっとして雑渡を見た。
「ずっとって、朝からいたんですか」
「うん。ずっと伊作くんを見てた」
ケロリとして応えた雑渡に、伊作はふらふらしながら額を押さえた。
「……世の中にこんなにも暇を持て余している人がいたとは……」
「暇人とは聞き捨てならないね。余暇を有効に利用していると言ってくれ」
「利用の仕方を間違ってますよ……」
「本当はひと目見たら帰るつもりだったんだ。でも、君のことが心配で」
「僕の何が心配なんです?」
苦笑する伊作に雑渡はにじり寄った。驚く伊作をよそに、近すぎるくらいまで顔を近づける。こつり、と額を当てた。
「……やっぱり。熱、あるんだね」
雑渡が離れると、伊作はばつの悪い顔になっていた。その顔は相変わらず赤みが差し、心なしか息も荒い。
「……雑渡さんにはかないませんね」
「いつからなの」
少々厳しい口調で問い詰めると、伊作は潤んだ目を向けた。
「えーっと、確か二、三日前からです」
「休まずに、今日みたいなことをずっと続けていたのかい?」
「怒らないでくださいよ」
「怒ってなんかないよ。ただ、君は頑張りすぎだと思って……」
伊作は力なく笑った。
「新野先生が出張でいないんです。僕は忍術学園の医務室を任されているんです。毎日ひっきりなしに医務室に来る生徒たちに適切な対応をしなくてはいけませんし、僕は保健委員長ですし、六年生で、最高学年で、頼りにされているんです……。それに、薬のおかげでもう治りかけですし。すっかり大丈夫ですよ」
「これでも?」
雑渡は乱暴に伊作の手首を掴むと床に張り付けた。伊作の腹に馬乗りになる。
「っ痛い」
伊作が顔をしかめながら身をよじった。雑渡の手の中で伊作の細い腕が力なく動く。
「これでも大丈夫って言えるのかい? 大丈夫ならわたしを跳ね除けてごらんよ。わたしはそんなに力を入れてないよ」
しばらくはじたばたしていた伊作であったが、どうやら抵抗するのをあきらめたらしい。伊作は困惑した視線を雑渡に向けた。夜になって熱が上がったのか、伊作の額には玉の汗が浮いていた。
雑渡は拘束をゆるめた。
「乱暴してごめん。でも、伊作くんがあまりにも自分のことをないがしろにしているから腹が立ったんだ。君はいつも人のことばかりだ……。わたしはそのことが君の命取りになりはしないかと常々心配なんだ」
はい、と言ったのか、それとも何も言わなかったのか、伊作の言葉を聞き取ることはできなかった。ただ、雑渡が抱きかかえるのにおとなしく身を任せていた。
隙間風の入らない奥の部屋に布団を敷き、そこに伊作を寝かせた。
「あの、すみません。あなたにこんな手間をとらせて……」
桶の水で手拭いを絞ると、雑渡は伊作の額にのせた。
「あやまらなくていい。わたしはやりたくてやっているんだから」
「でも……あの、もう本当に平気ですから」
「また押し倒すよ」
半眼で睨むと、伊作は慌てて黙り込んだ。その様子がおかしくて雑渡は笑った。伊作の頭をなでてやると汗のせいか、髪の毛が湿っていた。こんなにも辛いのに伊作はずっと保健委員長であろうとしていたのだ。その健気さに、胸の奥がきゅっとした。
「よく、頑張ったね。伊作くんは偉いね」
「そんな。僕なんて」
伊作が恥ずかしそうに布団で顔を隠した。
「本当にそう思うよ。君は頑張りすぎるほど頑張ってる。だから、きっとこれは君へのご褒美なんだよ」
「……え?」
「いつも君は人に尽くしてばかりだから、たまにはわたしに甘えてみなさい」
やさしく笑いかけると、伊作の口がわなわなと震え零れた涙が布団に染みた。
「……僕」
「うん」
雑渡が相槌をうつと、伊作はしゃくりあげた。
「だって、頑張らなきゃって……頑張らないわけにはいかないから……。他の保健委員は下級生しかいないし、だから」
雑渡は親指の腹で伊作の涙をぬぐってやった。気丈に振舞っていたといってもやはりそこは十五の子どもなのだ。雑渡は自分の前では伊作が子どもでいてくれることが少し嬉しかった。
「ずっと辛いって言えなかったんだね」
熱があると言えば、他の保健委員たちは伊作を休ませようとするだろう。けれど、下級生に出来る仕事といっても限られたものしかない。委員会業務が滞るのは明白だ。だから伊作はみんなに言うことができなかった。そして自分自身にも平気なんだ、大丈夫なんだと言い聞かせ騙しながら生活するしかなかったのだ。
「さ。もうお休み。ずっとここに居てあげるから」
雑渡は伊作の手を握った。熱く湿った手だった。
「雑渡さんの手は冷たくて気持ちいいです……」
「そう。よかった。わたしも君の力になれることがあって嬉しいよ」
本当に、心の底からそう思った。雑渡の前ではただの十五歳でいてくれる伊作の人生に関わることができている。それが心底嬉しいのだ。
あどけない伊作の寝顔を見つめていると曇りのない心持ちになるから不思議だ。どこまでも底抜けにやさしくなれる気がする。雑渡が人を慈しむという感情を知ったのは伊作に出会ってからだった。
絞りなおした手拭いを伊作の額にそっとのせた。
「わたしは嘘つきで頑張り屋さんな伊作くんが大好きだよ」
静かな部屋に伊作の寝息だけが響く。握り締めた手が熱い。こうして繋がったままひとつに溶けてしまってもいいと思った。
終わり 20110401