やさしい手
雑渡が「いくさに行ってくる」と報告しに医務室に侵入してきたのは、月の無い夜のことだった。
虫の音に混じって僅かに衣擦れの音が漏れる。
伊作はそっと雑渡の頭に手を置いた。髪の毛をまさぐる。その意外なほど柔らかい髪の毛は、伊作の手をいとも簡単に飲み込んでいった。
敵を射殺しそうな雑渡の眼のように、もっと鋭い髪質なのかと思っていた。触れるものすべてを警戒し拒むような、そんなものばかり持っているのかと思っていた。伊作の表皮など易々突き破り、鮮血を噴かせ、臓腑をえぐり、四肢を砕く。それが生きる修羅に触れる代償だ。だから、それでいいと思っていた。むしろ、それで事が済むのなら安い方だと、そう考えていた。
それなのに。
この男の柔らかさに、ずぶずぶと溺れそうになる。
伊作は雑渡の耳朶を食んだ。冷えた膨らみを舌の上で転がしてみる。雑渡がくすぐったそうにしながら目を閉じた。
この心地よさはなんだ。
濃厚な果実を与えられているようなこの幸福感。
何もかもが上手く行き過ぎて戸惑ってしまう。
雑渡が伊作の首に鼻を押し付けてきた。口で吸い、甘噛みする。
伊作の喉が乾いた音を漏らした。
「伊作くんってさ、首弱いよね」
雑渡がにやにやと嫌らしい顔で言った。
乱れた呼吸を整え、伊作は自分の首をさすった。
「誰でも首は弱いでしょう。なんてったって急所ですから」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
苦笑いを浮かべながら、まあいいか、と雑渡が呟いた。
その不真面目な態度に、伊作は声を尖らせた。
「そういう意味ですよ」
伊作は真剣な目を向けた。雑渡が首を傾げる。
雑渡の首は決して太くはない。しかし、鍛え上げられた確固たる肉質を持っている。触れてみればそのことがより一層顕著に分かるのだ。首だけじゃない。肩も腕も胸も脚も。装束の上からでは分からないが、肌を見て、そして生身に触れてみて、初めて分かることがある。
刀傷、火傷、痣、縫合の跡、銃創、何やら分からないけれど、たくさんの傷、傷、傷。
そしてそれらが穿たれた、しなやかな四肢。
良質な筋肉。
それを支える骨格。
その感触は、しばしば伊作を現実に引き戻した。
鍛錬の末、普通の生活では容易に手に入れることなど叶わない特殊さを雑渡が持っているということ。つまるところ、雑渡の身体はいくさの道具であると言わざるをえない。
修羅の住人。
それは、雑渡が誰かを傷つける力を持っていることを意味する。
何かを破壊する力を持っていることを意味する。
伊作は雑渡の頬に触れた。雑渡がかすかに笑う。胸がきゅうっとなった。胸から身体が真っ二つに千切れてしまいそうだった。ただただ、皮膚と皮膚が密に重なった部分が痺れて、呼吸が苦しくて、伝えたい言葉は軋んで、もうこのままどうにかなってしまいそうだった。
なぜこの人は、虐げる力を持っているんだろう。
ここにいる雑渡は伊作を傷つける力など一切持ち合わせていないというのに。
伊作を壊したり踏みつけたりする力など最初から持ち合わせていなかったというのに。
雑渡は伊作の言葉の続きをじっと待っている。雑渡は言葉を急かしたりしない男だった。攻め立てたり追い立てたりして、強欲に言葉を引きずり出すこともしない。ただじっと待っていてくれる。常に伊作に合わせるように努めてくれている。そのことを雑渡のやさしさと言わずして何と言うのか。
そのやさしさを引きずって、この男はいくさに発つ。現実の世界に巻き込まれていくのだ。どんなに強かろうと鍛えていようと、斬られれば真っ赤な血の出る世界に。
「首を折られれば、いくら雑渡さんと言えども死ぬんですよ」
伊作は躊躇わなかった。手を雑渡の頬から首へするりとすべらせる。絞めるように手を回せば、雑渡の喉仏がひくりと動いた。
「首を斬られても死ぬでしょうね。真っ赤な血の海の中であなたは絶命する……首は急所ですから」
「ああ、そういうこと」
得心したように雑渡がうそぶいた。
伊作は雑渡と目を合わさなかった。かわりに、雑渡の喉仏を見つめていた。隆起したそれを両手の親指でしつこく撫でた。
「雑渡さんの喉仏って素敵です」
「おや。身体の部位を褒められるのは、なかなか嬉しいものだね」
「喉仏。喉頭隆起。でもね、雑渡さん。この喉の出っ張りが素敵なのは、雑渡さんが生きてるからなんですよ」
そこまで言って、伊作は雑渡を見た。虚を突かれたような目がこちらを向いていた。
伊作は低い声で続けた。
「死んだら、ただの骨です」
「伊作くん……」
雑渡が伊作の額を撫でるようにして、汗で張り付いた髪の毛を払う。
どんなにやさしくされようと、どんなに身体を添わそうと、雑渡は異質な世界にいる。とても死に易い場所にいる。乱暴な物言いだけれど、まったくの事実だ。そんなことはとっくの昔に知っている。知っていて、分かっていて、それでもこの人と話がしたかった。縁を断ち切らせないような繋がりが欲しかった。
それなのに、だ。
いくさがあると聞かされると、急に不安になった。死は容易く縁を断ち切る。
「頭も腕も指も全部、死んでしまったら名前なんか無くなる。ただの骨です」
ただの骨は哀しい。
やさしくても強くても素敵でも、ただの骨は伊作を呼んだりしない。
雑渡が伊作の手を引いた。頭を押さえつけるようにして抱きしめられる。その弾みで、伊作の元結が解け、咲き零れるようにして髪が乱れた。雑渡はその一房を手に取ると、静かにくちびるを落とした。
「伊作くんが好き」
突然言われてたじろいだ。
「な、何を言って」
「この髪の毛も、なめらかな頬も、綺麗な目も、可愛い口も、器用な指も、小さい爪も、わたしに触れる手の温かさも、与えてくれる言葉の強さも、ぜんぶ大好き」
「すごく恥ずかしいです」
「恥ずかしいけど聞いて。わたし、多分伊作くんと出会うまで、本当の意味で人を見たことってなかったんだと思う。知ろうとしたこともなかった。だから、伊作くんがわたしのことを大切に思っていてくれて、本当に好きっていう気持ちを初めて理解したんだ。だから、ありがとう」
「雑渡さん」
「それでも、どうしても、どう頑張っても、わたしは忍びなんだ」
伊作はそれ以上何も言えなかった。言葉が詰まって出てこない。雑渡の顔を見てしまったからだ。
その顔は世界に果てが無いことを嘆くかのように歪んでいた。触れたらすぐにでも壊れてなくなってしまいそうだった。こころを抉られそうになっが、伊作は目を逸らすことを自分に許さなかった。
「だから伊作くんはわたしのこと憶えてて」
その言葉に、伊作は雑渡をやさしく抱きしめることしか出来なかった。
「おや、長居をし過ぎた。もう行かないと」
「今度は――」
いつ会えますか、と訊きかけて口を閉じた。それは禁句だ。
「生きてたら会いに来るよ」
生きていたら。死ななかったら。なんとも惨たらしい約束の仕方だ。けれど、そういう風に言うのが一番正しい。その惨たらしさもやさしさだ。そのことをお互いに嫌というほど知っている。
静かに去っていく雑渡の背中に、伊作は黙って頷いた。
夜が静かに明けていく。まぼろしのような夜が。
俯けば、ばらりと髪の束が落ちてきた。雑渡に元結を解かれてそのままだったのを忘れていた。やさしい手の感触がまだ残っている。
そのことだけが、雑渡の存在を確かにしていた。
終わり 20101002