呼ばふ 5


 雑渡は振り返らなかった。本当は振り返りたかった。あの可愛い生き物を、背後から思い切り抱きしめたくてたまらない。洗いざらい全部謝ってしまいたかった。
 きっと、伊作は泣いていると思った。
 それでも、雑渡は決して後ろを見ようとはしなかった。伊作を気にかける素振りも見せない。
 伊作の視線が張り付いているようで背中が熱い。けれど、同時に居心地の悪い視線も感じていた。
 追っ手が迫っているのだ。雑渡から密書を取り戻そうとしている忍びだ。
 足音が一人、二人……。付かず離れず、正確な追跡だ。
 しかし、雑渡はあくまでも囮だった。
 人間は一瞬見ただけでも印象強い特徴があれば覚えているものである。
 密書を奪い返そうと躍起になっている敵方には、それを盗んだ忍びは、顔を包帯で覆った男だと、しっかり目撃させておいたのだ。タソガレドキ忍者たち数名に雑渡と同じように顔に包帯を巻かせ、密書が然るべき場所に届くまでの時間稼ぎをしているわけである。  目立つ短所も時には役に立つものだ。
 囮だからこそ目立つ道を行き、追っ手に目撃されやすくする。そうでなければ敵の目を引きつけ、足止め出来ない。必然、常に危険が一杯なわけで。もちろん、伊作と偶然出会ってしまったあの街道でも、いつどこで敵が狙っているか分からないわけで。
 だから、正確には振り返らなかったのではなく、振り返れなかったのだ。雑渡と伊作が顔見知りだということが追っ手に察知されでもしたら、伊作の身が危険だ。
 自分のせいで伊作が傷つくようなことでもあれば、きっと立ち直れない。
 伊作を守ろうとして最善の方法を選んだはずなのに、雑渡のこころは最悪のどん底だった。あんなにも謝っている人間を無下に突き飛ばしたのだ。冷徹だった。伊作の目にも最悪の人間に映っただろう。
 でも。
 それでよかったのかもしれない。
 このまま二人のこころが離れていけば、伊作は二度と雑渡に突き飛ばされることはないのだ。雑渡も辛いことをしなくて済む。傷つけたくないから傷つけて。守りたいから手放して。嘘で塗り固めてきたような人生だったけれど、それで自分の身を守って来たけれど。
 伊作に対して嘘をつき続けることなど、はたして自分に出来るだろうか。
 あの純真無垢でやさしくて世話好きでおせっかいで、可愛い可愛い彼に、背中ばかり見せていられるだろうか。そんな中途半端な生き方を辛抱できるだろうか。
 伊作のことを思っただけで、こんなにもぐらついてしまうのに。
 だから、伊作と離れて正解だったのだ。雑渡の伊作に対する絡み付くような思念も、ゆっくり時間をかけてれば解けるだろう。
 あんなにも伊作を抱きしめたいと思っていたこの手は、伊作を遠ざけてしまった。何も掴むものを失くしてしまったのだ。
 いや。失くしてしまったというのは少し違うかもしれない。雑渡は伊作のことを手に入れてなどいなかったのだから。
 じゃあ、消えてしまったのだろう。掴もうと、手に入れようとしていた存在が消えてしまった。どうやってたどり着いたらいいのかも最早分からない。
 いつもそうだった。一番欲しいものは手に入らない。欲しくないものはたくさん降りかかってくるのに、抱きしめたいものはいつもこの手をすり抜けていく。今までは、ずっと我慢して辛抱して……そんな風にして上手くやってきた。自分を納得させてきた。だから、伊作に対する気持ちにも、そうやって片をつけるしかないのだと決心した。
 けれど。
 どうして、こんなに傷つくのだろう。
 伊作の存在を遠ざけようとすると、雑渡の身体の奥にある何かがそれに抗うのだ。諦めようとすると、伊作に繋がる思い出を必死に手繰り寄せようとしてしまう。
 身体はこんなにも遠く離れてしまったというのに、こころはぐんと引き寄せられていくような気がする。
 突然、雑渡の足が歩みを止めた。短く息を吸い込む。
 これが執着というものなんだろうか。
 ふいに視界の端を影がよぎった。前方に一人、素早く細身の男が回り込んできた。
 雑渡はやや目線を上げた。すぐさま、街道沿いの茶店に居た男だと確認する。雑渡から数間も離れず立ち塞がるその男は、一見したところただの行商人だ。いや、行商人風とでもいっておこうか。男の目つきは、明らかに商売をする者のそれではなかった。まなじりが激しくつり上がっている。そして、その手には商売人には縁もゆかりもなさそうな、物騒な物が握られていた。白昼の平和な街道にクナイが光る。
 やれやれ、と雑渡は首の後ろを掻いた。
「最近の商売人は物騒だね。いくら物が売れないからって、クナイで人を脅して商売するのかい」
「帳簿やそろばんでねじ伏せられないこともないが、商売相手が忍びとなれば話は別だ。何より、わざわざ分が悪くなるような武器を選ぶ必要はないからな」
 男は、どう見積もっても雑渡より十以上は若い。いかにも努力してドスのきいた声を出しているのが伝わってきた。それでも、忍びとしての経験は、決して浅くはないようだった。間合いの取り方が玄人じみている。そして、それ以上に、人を傷つけることに何の躊躇いもない眼をしていた。道端の雑草を摘み取るようにして全身の骨を一本ずつへし折り、皮という皮を剥ぎ、口を割らせて情報を得るなんて、まるで日常茶飯事であるかのような眼。必要とあらばいとも簡単に、忍びであろうとなかろうと、そんなことは瑣末なことだと嘯いて、人のいのちを何度も何度も終わらせてきた、そんな眼だった。
 尋常じゃない。
 恐ろしくないが、まともに相手をすると無駄に体力を消耗しそうだった。面倒は嫌いだ。
「無抵抗な老いぼれを、変な言いがかりで斬りつけるのかい」
 前方に陣取ったまま、男が眉間にシワを寄せた。あからさまに不機嫌だと主張してくる。
「まだ忍びじゃないと言い張るのか。まあいい。斬られるか助かるかは、お前次第だ」
「どういうことだい」
 いかにも、分からないという態度の雑渡に、男が苛苛を押し殺したような声で短く言った。
「密書を渡せ」
 こちらに向けられたクナイの先がわずかに動いた。男がそれを握る手に力を込めたのだ。
「そうすれば命ばかりは助けてやる」
「お決まりの台詞だね。自分で面白可笑しく工夫しようとか思わないのかい」
「は?」
 男は若干、気概を削がれたかのように間抜けな声を出した。
「いつもいつも同じこと言ってたらつまんないでしょ。例えばさ、「お前の平安を四半時祈ってやるから、おとなしく密書を渡せ」とか、「密書を渡さなければ、お前のふんどしに悪戯をした挙句、お前が水虫だと言いふらす」とか」
「お前……。いつもそんなこと言ってんのか?」
「いつもじゃない。時々だ」
「威張って言うことか。お前、馬鹿だろ。どうせ、就いてる城の忍者の中でも下っ端なんだろ。そんなんじゃいつまで経っても出世しないぜ」
 出世どころか、こちとら組頭やってんですけど。
 雑渡は肩をすくめた。男が頭を抱えてうずくまる。すっかり戦意は喪失したらしい。
「ああ、何で俺たちはこんなやつに当たっちまったんだ。お前、絶対囮だろ」
「うん」
 相手が勝手に自滅してくれるという好都合な展開に、雑渡はほくそえんだ。
 と同時に、何かが引っかかった。自分の心臓の音が早くなっていくのが分かった。
 この男は「俺たち」と、そう言った。今、確かにそう言ったのだ。
 それに加えて、雑渡を追ってきた足音は、二人分ではなかったか……。
 二人。
 その二人が茶店前の街道で見たもの。
 農夫と子どもの諍い。
 じゃあ、それを見て、追っ手の二人は一体、何を思った。
 一人は雑渡の目の前で、情けなくフテ腐りやる気を失くしている。
 では……もう一人はどこへ行った。
 「俺たち」の「たち」はどこだ。
 急に吐き気がした。手の先が冷えていく。嫌な予感が一気に膨らんだ。愛しいものが黒く塗りつぶされていくような、取り返しのつかないことが起きるかもしれない、とても嫌な予感だ。
 あれこれ考える間もなく身体が動いた。
 隙だらけになった男を手刀で落とすと、雑渡は来た道を一目散に駆け戻った。


 つづく 
20101104


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