呼ばふ 9 (完)


 気が付けば月が出ていた。ぼんやりとした丸い光のおかげで、夜の闇も青く透きとおって見えた。
 雑渡は約束を違えなかった。雑渡は、やや気後れした様子で医務室の戸を開けると言った。
「入ってもいい?」
 月の光を背中に受けた雑渡は眩しかった。伊作は目を細めた。
「ここまで来させておいて、追い返すなんて鬼ですよ」
 伊作は、やや冗談めかしてそんなことを言った。
 逆光になっているせいで雑渡の表情はうかがえなかったが、きっと伊作と同じように照れながら笑っているのだろう。
 戸が閉められると同時に、外の冷気が入ってきた。はっきりとした寒さを感じて、伊作は身震いした。さっき留三郎に励まされたばかりなのに、不安が大きくなる。
 少なくとも嫌われてはいないと分かっている。でも、もう会えないなんて言われたらどうしよう。さよならなんて言われたらどうしよう。どうしよう。嫌だ。
 不安が不安を呼ぶけれど、せっかく寒い中来てくれた雑渡を突っ立たせておくわけにもいかない。
 伊作は一つ、深呼吸をした。
「どうぞ。座ってください」
 そう言って、熱い茶をすすめた。
 その言葉に素直に従う雑渡を見つめながら、伊作は鼓動が早くなるのを感じていた。
 緊張していた。身体が妙に強張っている。何から話したらいいのか皆目分からない。雑渡も伊作と同じ心情だったのか、しばらくは無言だった。
 青い静寂が耳に痛い。
 やがて、雑渡が口を開いた。
「首、大丈夫だった?」
 伊作の首に巻かれた包帯を窺いながら、雑渡は心配そうに言った。その視線一つからでさえ、雑渡のやさしさが伝わってくるようで、伊作は胸の内が灯ったように感じた。
 伊作は雑渡が、伊作に対する罪の意識でいっぱいなのが分かったので、出来るだけの明るさを取り繕った。
「平気ですよ」
「本当に?」
 そう言う雑渡の顔は心許なげだ。
 伊作は雑渡を励ますように、歯を剥いて笑った。
「血は出ましたけど平気です。首だって普通に動きますし。こんなのかすり傷ですよ」
「おお。男前! 惚れちゃいそう」
「雑渡さんは、すでに惚れてるでしょ。僕に」
 豪気なことを言う伊作に、雑渡は少し戸惑いながら下手な笑顔を浮かべた。
 軽口のように言ったが、伊作は真剣だった。
 後退は許されないし、前進できるか分からない。けれど、お互いに気持ちを認め合わなければ今さえ失くしてしまう。壊れたものは壊れたまま。けれど、どうして壊れたのかを見ない振りしていいんですか。
 伊作の豪気さと大胆さにはそんな意が込められていた。
「そうだった……。とっくの昔に、君のことがどうにも好きでたまらなかったんだ」
 雑渡の顔がゆがむ。笑おうとしているのだろうが、その表情は笑顔には程遠いものだった。どちらかといえば、泣きそうな表情だ。
 そんな雑渡を見るのが辛くて、伊作は俯いた。
 雑渡がぽつりと零した。
「ごめん」
 顔を俯けていた伊作が視線だけ上げると、雑渡と目が合った。
「僕の方こそ、すみませんでした。雑渡さんは謝らないで下さい。雑渡さんは何も悪くないんですから」
「でも――」
 言いかけた雑渡を伊作が遮る。これ以上雑渡に詫びの言葉を言わせたら、責任をすべて押し付けるようでバツが悪かった。謝罪すべきは、雑渡の心中を推し量ることが出来なかった伊作なのだから。
「悪いのは僕です。雑渡さんの行為の意味に気づけなかったんですから。それで一人で勝手に拗ねてたんです。密書騒動はありましたけど、あなたも僕も、こうして元気なんですから。だから、もうこの話は終わりにしましょう、ね」
「でも」
「これ以上何かおっしゃるんでしたら、大声出しますよ」
 理不尽とも思える伊作の言い分に、雑渡はまだ何か言いたそうにしていたが、しぶしぶという風に頷いた。
 伊作は苦笑した。雑渡のそういう譲らない性格も好きだった。そうやって、雑渡の好きなところを一つひとつ挙げてみると、随分たくさんあることに気が付いた。考えている内にあれもこれもと加わって際限がない。手の指、足の指では数えるのに追いつかない、そのきりの無さがとても嬉しいことのように思われた。
 しかし、嬉しいはずなのに、伊作の顔は浮かなかった。耳に留三郎の言葉がこびりついていた。
 確かに、自分は無神経だったかもしれない。
 雑渡にばかり応えさせてばかりだった自分を思うと、伊作の顔から徐々に笑顔は消えていた。
「お、怒った?」
 雑渡に訝るような顔を向けられて、伊作はやんわりと否定した。
「いいえ。ただ……」
 雑渡が見つめてくる。伊作の言葉を待っているのだ。ジリジリと灯心が燃えている。その下で静かに焦げる油のにおいが鼻についた。
 今から伊作が口にすることは、もしかしたら、せっかく埋まりかけた雑渡との間にある溝をさらに深めてしまうことになるかもしれない。壊れたものは元に戻らないのだからいいじゃないか、とヤケになってみても、どうにも踏ん切りがつかなかった。
「僕は自分ばかりだったな、と思って……」
 やっとそれだけを口にした。動悸がして息苦しい。雑渡の目を見ることが出来なかった。伊作の言葉を肯定するような視線を向けられたとしたら、もう立ち直れない。
 伊作の不安を読み取ったかのように、雑渡が落ち着いた声で言った。
「食満くんはいい人だね」
 唐突に言われ、一拍遅れて伊作は頷いた。
「……ええ。自慢の友人です。心配性なのが玉にキズですけど」
 雑渡は笑った。
「その心配性のおかげで、わたしは君に会いに行く勇気が持てたんだ。感謝しなくちゃ」
 雑渡の声が、はっきりと強く耳に入ってくる。その紛れもない現実の声が、伊作の背中をまっすぐに伸ばした。
 伊作は雑渡の目を見た。
「雑渡さんもいい人です」
 雑渡は声も立てずに笑った。
 そこで、初めて伊作は、雑渡との間に何か生まれたような気がした。壊れたものが元に戻ったのでも直ったのでもない。一から新しいものが生まれたような、そんな鮮やかな気持ちになった。
「でも、信じられないよ……」
 雑渡は茶を一口啜ると、呟いた。
 伊作は首を傾げた。
「何が信じられないんですか」
「君には完全に嫌われたと思ったから。もう二度と会えないんだろうなって思ったから」
「それは僕も同じです。もう二度と雑渡さんに――」
 言いかけて、伊作は胸が詰まった。喉の奥がじわりと熱くなる。気持ちと一緒に涙も膨れ上がってきた。
 声が出なかった。嗚咽だけが二人きりの部屋に響く。
 信じられなかったのは伊作の方だった。こんな風にして、また雑渡と話が出来ようとは思わなかった。
 雑渡が手を重ねてきた。ほんのりと湿っていて温かい。夢ではないのだ。今なら、嘘か本当かはっきりと分かる。これは本当の現実だ。そのことが飛び上がるほど嬉しくて、胸に響いて、伊作はさらに言葉が継げなくなった。
「伊作くん」
 やさしく名を呼ばれた。それだけのことで、伊作は気を失うくらいに痺れた。
 それなのに、まだ足りない気がする。
「もっと……」
 雑渡はゆっくりと、瞬きをした。
「え」
「もっと名前呼んで下さい。僕の名前……」
 縋るようにして欲望を口に出した。
 目の前の影が動いた。伊作の身体が前に傾ぐ。雑渡に抱きしめられたと気が付いたのは、少し経ってからだった。
「伊作くん」
 雑渡の息が耳に掛かる。伊作はうっとりとした。
 寒気も不安もなくなっていた。
「もっと呼んで下さい」
「伊作くん」
「はい……」
「伊作くん」
 身体から力が抜けた。雑渡に、身体も気持ちも、伊作の持っているもの全部を預けているような感覚になる。心地が良くて安心できた。
「ずっと、もう一度あなたに名前を呼んで欲しいと思っていました」
 ずっとそう願っていた。名前を呼ばれるたびに、自分のすべてを奪われていくような気がした。一枚の風が伊作の中に吹き荒れているような、伊作のこころを吸い上げられていくような不思議な気持ちになる。
 雑渡は髪を梳くようにして、伊作を撫でた。
「君に会えないとき、幻の姿に向かって呼ぶんだけど、それはすごく寂しいことだった。振り向いてくれないし、返事をしてくれないし、何より、わたしの手の中をすり抜けていってしまった。だから、わたしも伊作くんの名前を呼ぶことが出来て本当に嬉しい。伊作くんが目を合わせてくれて、ちゃんと返事をしてくれて、笑ってくれて、それでわたしと一緒に居てくれることが本当に嬉しい」
 伊作はくすぐったい心持ちで言った。
「じゃあ、これからは遠慮せずに呼んで下さい。もっともっと、一杯」
「言うねえ」
「言っちゃいました」
「まあ、元より遠慮するつもりなんてないんだけどね」
 雑渡が、心得たようにぎゅっと抱きしめてきた。伊作は自分が一回り小さくなったような気がして、なぜか嬉しかった。
「伊作くんの一番近くで、誰よりもこころを込めて君の名前を呼ぶよ」
 好きな気持ちだけでいいのだと思えた。好きな人のことを本当にこころから思い、信じ、笑うことが出来るのならそれでいいのだ。誰かのことを想う気持ちが、こんなにも大きく強いものだと、伊作は知らなかった。
 ふいに、強い風が吹いた。激しい音を立てて医務室の戸を叩く。次の瞬間、辺りは闇一色になった。隙間風が灯りを吹き消したのだ。
「灯りが……」
 火をつけようとした伊作を、雑渡は制した。
「いいじゃない。月はこんなに明るいんだから」
「でも……」
 青暗い世界。目が慣れてきても、互いの輪郭が分かるくらいの明るさしかない。見えない世界は、途端に伊作を不安にさせる。どこか知らない場所に迷い込んだようで寂しくなる。何が起こっても不思議じゃないと思えてきて、怖れと戸惑いを隠せない。
「伊作くん」
 ふいに、名を呼ばれた。何も見えないけれど、その呼び声だけは、はっきりと耳に届いた。
 硬くなった身体が、徐々にほぐれていく。例えようの無い不安が、払拭されていく。
「わたしはここに居るよ」
 それは紛れもない、伊作が応えたいと思った人の、伊作を導いた声だった。
 伊作は、まるでその声に抱かれるようにして静かに目を閉じた。


 終わり 
20101118


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