夢の丈


 夜が深まった頃に雑渡は部下に見回りだと告げ、タソガレドキの陣を出た。
 部下は「私が行きましょう」と申し出てきたがそれを雑渡はやんわりと断った。
 珍しくやる気のある雑渡に部下は首を傾げていたが、とくに深く追求することもなく雑渡の背中を見送ってくれた。
 こっそり陣を抜け出せばこんな面倒なことはなかったのだが、雑渡がいないとバレて騒ぎになったら余計に手間だ。
 誰とどこへ行っていたのだと根掘り葉掘り訊かれることは間違いない。
 こうして思い返してみると、まるで雑渡は信用されていないらしい。
 悲しいやら可笑しいやら。
 雑渡は苦笑しながらキノコ裏々川の上流を目指した。
 川沿いの茂みを歩いていると流れる水音だけが耳に残る。
 夜は静かだ。
 せせらぎに耳を傾けながら暗い茂みを歩いていると、開けた道の脇に道祖神と一本松を見つけた。
 雑渡は吸い込まれるようにそこへ近づくなり座り込んだ。
 木に背中を預ける。
 ごつごつとした硬い木肌が背骨に当たる。
 雑渡は視線だけを上に向けた。
 半欠けの朧月が浮かんでいる。
 春先とはいえ、川を渡る風は冷たい。
 それが夜ともなれば尚更だ。
 その風の冷たさは雑渡にいくらかの冷静さを取り戻させた。
 昼間の興奮が薄れていく。
 手持ち無沙汰に指を組み替えながら雑渡は今の状況を少しだけ後悔した。
 雑渡は伊作に呼び出しをくらっていたのだ。
 忍術学園の開催したオリエンテーリングの道筋が、ちょうどタソガレドキとカワタレドキの会談場所の近くだったのだ。
 何の意図もなしに伊作が雑渡の傍に来ている。
 どんなことにかけても一流の雑渡がこの機会を逃す手はないのだ。
 だから、伊作から会いたいと言われたときは嬉しかったし、こうして約束した川岸の一本松で待ちぼうけをしているのも楽しい。
 けれど、こんなに心が弾むのも実際に伊作がいない状況だからだ。
 いざ生身の伊作を目の前にしたらお花畑で寝転んでるみたいにふわふわしてる、なんて甘っちょろい心情ではいられなくなる。
 とにかく焦るのだ。
 伊作と静かなところで対峙すると、何を話していいか分からないしどう動けばいいか分からない。
 通いなれた道に突然迷ってしまったように心許なくなる。
 伊作が伊作じゃないような気がして、自分が自分じゃないような気がして頭がぼうっとする。
 雑渡が唯一後悔していることは、夜に伊作と二人きりで会うという生殺し的な状況になることだった。
「雑渡さん」
 茂みを掻き分けて伊作が小走りにやってくるのが見えた。
「お待たせしました。僕の方から約束を取り付けておいたのに、随分待ったでしょう」
「先生にはきちんと言ってきたのかい?」
 雑渡の隣に座りながら伊作は気後れした表情で頷いた。
「はい。はばかりに、と」
「随分長いはばかりになるね」
 雑渡がからかうと伊作は笑った。
 きっと忍術学園の先生のことだから伊作の可愛い嘘になど当に気づいているのだろうし、その行き先が雑渡のもとであるとも分かっているに違いない。
 それなのに優秀な先生と名高い彼らは伊作を止めなかった。
 どうやら雑渡は忍術学園に信用されていると思ってもいいらしい。
 おそらくそれは過信ではないだろう。
 喜ぶべきなのか悲しむべきなのか複雑な心境だ。
 まったく、随分と甘く見られたものである。
 まあ、警戒されるよりはやりやすいのだが。
「で、何か用事かい?」
 淡々とした調子で雑渡が訊ねると、伊作は二、三度目を瞬かせた。
 そして雑渡から視線をはずし、少し言いにくそうにした口元を抱えた膝の上に乗せた。
「……本当にごめんなさい」
 突然謝られ、雑渡は首を傾げた。
 伊作に謝られるようなことをした覚えはない。
 待ち合わせに雑渡よりも遅れてきたことを謝っているのかと、おぼろげながらに見当をつけた。
「いいや。待つのも楽しいよ。それにどうせわたしは暇だったんだし」
「そうじゃなくて」
 どうやら遅刻したことではないらしい。
 雑渡はしばらく考え、思いついて膝を打った。
「もしかして偽書の術のこと? あれはよく出来た手紙だったね。書いたのは長次くんだっけ? 伊作くんの筆跡とそっくりで驚いちゃった。まあそれよりも、わたしが伊作くんの筆跡に覚えがあるだろうという前提で挑んできた長次くんに驚いたんだけど。わざわざ手の込んだことをしなくても可愛い五、六年生の相手くらいしたのに」
「その節はご迷惑を……。まさかあなたと勝負したいがために文次郎や長次があそこまでするとは思わなくて」
「なかなか根性あるよね」
「それにしても、可愛いって……。本当、雑渡さんにとっては僕たちなんて掌の上なんですから」
「文次郎くんを怒らせてしまったかな」
「怒るというより、あれは闘争心ですよ。あなたの掌の上で転がされたおかげで、五年生にとっても六年生にとってもいい経験ができました。ありがとうございました。でも、僕が謝りたいのはそのことじゃないんです」
 薄暗い中、伊作の訴えかけるような表情がみてとれた。
 いよいよ、雑渡は伊作が何に対して謝罪しているのかが分からなくなった。
「一体、伊作くんは何を謝っているの」
「その……僕たち、タソガレドキとカワタレドキの会談をぶち壊しにしてしまったでしょう?」
 雑渡はそんなことかを肩をすくめた。
「それは君が気にすることじゃない」
 雑渡はあっさり言った。
「でも――」
 伊作は意気込んだ。その顔は罪悪感で一杯という感じだ。
 確かに、タソガレドキとカワタレドキの会談は失敗した。
 それは紛れもない事実だ。
 しかし、実質それは忍術学園の活動とは関係ないことだ。
 すべてはタソガレドキの器量による。
 不運の内にオリエンテーリングを終え、さらに雑渡の思いつきによって南蛮衣装まで着させられた伊作が罪など感じる必要は微塵もないのである。
 雑渡は伊作の頭を軽く撫でた。
「君たちは少しも悪くないんだ」
「雑渡さんはやさしいからそんなことを言うんです」
 伊作に「やさしい」と言われ、雑渡は耳の辺りがこそばゆくなるのを感じた。
 実際の雑渡は特別やさしい人間でもなんでもない。
 むしろ無機質な方なのに、それでも伊作は雑渡のことをやさしと思っている。
 思い込んでいるというのが正しいのか……。
 とにかく、善法寺伊作という人間は雑渡が普通に生活していたら絶対に言われないような言葉をぶつけてくる。
 仕事とはいえ、人の明日を奪うようなことをしている雑渡がやさしい人間だとしたら、この世は目隠ししてでも渡っていけるのである。
 伊作は雑渡の本質を知らないだけなのだ。
 忍者というものの本質、雑渡の正体を知らない。
 もしくは見ようとしないだけなのかもしれない。
 でも。
 いずれは分かる。
 気づいてしまう。
 目が、心が慣れれば感づいてしまう。
 雑渡が奪ってきた血の臭い。皮の臭い。肉の臭い。骨の臭い。誰かの家族。誰かの恋人。誰かの友。誰かの思い出。誰かの明日。
 目を覆いたくなるような醜悪さ。
 裁くことのできない忍びの業。
 夢を見させているつもりはないけれど、夢はいつか醒める。
 嘘をついているつもりはないけれど、嘘はいつかばれる。
 伊作のこころは遠ざかるけれど、きっと雑渡のこころは今以上に伊作を乞う。
 そういう運命だとしても。
 いや、そいういう運命だからこそ。
 どうかどうか、今は雑渡の本当の姿に本当の想いに気が付かないで欲しいと思わずにはいられない。
「……本当にどうにもならないことなら、最初から最後までどうにもならないもんさ。でも、もしタソガレドキとカワタレドキが相容れる運命なら、どこかで折り良く重なる日もくるよ」
「運命……」
 伊作はその言葉を繰り返した。
「でも、もし……もし僕らが余計なことをしたせいでタソガレドキとカワタレドキの運命が変わっていたらどうします」
 心配そうに言う伊作に雑渡は笑った。
「運命なんてそう簡単に変わるもんじゃないよ。誰にも手が出せないから……どう足掻いてもどうにもならない……だからこそ運命なんだ」
 伊作はほうっと息をつき、複雑な面持ちで闇の中にある川を見つめた。
 その表情をはっきりと見てとれたわけではないのだが、少なくとも雑渡の持論に納得しているわけではなさそうだった。
 しかし、それきり伊作は黙り込んでしまったので雑渡も伊作に倣った。
 深く息を吸い込むと、松の濃い匂いに混じって水の匂いがする。
 そして微かに伊作の匂いもした。
 装束に染み付いたらしい薬草臭と若者特有の青っぽい体臭。
 よほど注意を傾けなければ分からないが、それでも雑渡の鼻は人よりも利く。
 雑渡にとってはすっかりお馴染みになってしまったものだ。
「じゃあ、僕と雑渡さんが離れ離れになるようなことがあっても……雑渡さんは運命だから仕方ないと言うんですね」
 伊作は突然そんなことを言った。
 驚くほど強い声だった。
「雑渡さんが僕に刃を向けることになっても運命だと受け容れて、僕を手にかけるんですね。そうなんですね」
 伊作はこちらを見ないまま、そう続けた。
 雑渡の返事を聞くのが怖いような様子だった。
 雑渡は伊作に触れることができなかった。
 薄い月明かりの下、伊作のうなじから飛び出た後れ毛が小刻みに震えているのが見えたからだ。
 雑渡の後頭部は鈍く痺れた。
 自分は取り返しのつかないことを言ったのかもしれない。
 後悔ばかりが雑渡をさいなむ。
 夢から醒めてしまったのだと思った。
 確かに、運命をどうたらと語ったのは雑渡であるが、まさか伊作の考えがそんな突飛な方向へ行くとは思ってもみなかった。
 しかし、極論はそうなのだ。
 雑渡が今しがた伊作に語ったことはそういうことに違いないのだ。
「……そういう運命じゃないことを祈るばかりだよ」
 雑渡の言葉に伊作は一瞬だけ顔を歪めると緩慢な仕草で立ち上がった。
「帰ります」
 せせらぎにもかき消されそうな声で伊作は言った。
「送ろう」
 雑渡の提案に伊作はゆるゆると首を振った。
 そして、差しさわりのない礼を雑渡に述べるとそのまま忍術学園の野営地へと戻っていった。
 その背中が闇の中に消えるまで雑渡は伊作を見つめていた。
 やがて、その気配も消えると雑渡は深く息をついた。
 気のせいか闇が濃くなった気がした。
 川の流れは暗く、耳障りなほど静かだった。


「もたもたしないでください。殿の馬に追いつかれます」
 山本陣内は器用に木の幹を跳び移ってくると雑渡の前に畏まった。
 山本は雑渡よりも八つ年上である。
 それにもかかわらず、タソガレドキ忍者隊の小頭として雑渡の下に付いてくれている。
 実に頼もしい片腕である。
 しかし、折り目正しい態度とは裏腹に、雑渡をけしかけるその口ぶりではどちらが上司か分からない。
 雑渡たちタソガレドキの面々は日も昇らない内にキノコ裏々川をあとにしていた。
 殿の馬が行く筋道の前後を忍者隊が固めるといういつもの遠征と変わりない段取りだ。
 このままの調子で行けば、昼前にはタソガレドキ城に戻れるだろう。
「組頭ともあろうお方がどうしたんですか。昨夜はものすごくやる気に満ち満ちていたと部下から報告を受けておりますが」
 山本は雑渡をからかうように言った。
 しかしその目線は別のものに向けられている。
 山本は立て膝のまま、はるか後方に豆粒のように小さく見える殿とその取り巻きを俯瞰していた。
 その仕事ぶりは寸分の予断も無駄もない。
 雑渡はときどき、この優秀な小頭さえいれば自分はいらないんじゃないかと思ってしまうくらいだ。
「たまには務めを忘れてぼけっとしたい日もあるわけさ」
「たまに、ならいいんですけどね。組頭の場合は……」
「今日の山本はやけに毒があるよ」
 山本は声をたてずに笑った。
 後方との距離を保ちながら前の幹に跳び移って行く。
 途中、雑渡は肩に落ちてきた毛虫を払うのに気をとられ、蜘蛛の巣をかぶってしまい往生した。
 なんとも間抜けな雑渡の姿を見て、山本は控えめに笑った。
 数人の部下を引き連れていたが、山本以外に気づかれなかったのがせめてもの救いだった。
「今日は気もそぞろですね」
 殿の背中が城門の中に消えるのを木の陰から見送ると山本は言った。
 道中、野伏せりやら他城に雇われたらしい侍やら忍びやらをやんわりとあしらったが、さほどの時間も取られず雑渡の予想したとおり昼前にはタソガレドキに到着した。
 今更ながらに思うが、まったく敵の多い殿様である。
「そぞろ? そうか? でもちゃんと仕事はしただろ」
「ええ。さすがは組頭ですね。ダラっとしていてもやるときにはやるその姿には敬服します」
「またしても毒が。言葉の裏に毒が仕込まれている」
「気のせいです」
 軽く雑渡をいなすと山本は飄々と歩き出した。
「どこへ行く」
 山本は振り向いて笑った。
「今日の仕事は終わりでしょう? 久々に家へ帰ろうかと……。ああそうだ。家内が昼飯を用意していると思うので、組頭もご一緒にいかがですか? どうせ屋敷に帰ってもお一人でしょう」
「……」
 雑渡は迷った。
 その頭の中には昨日の伊作との一件がひっかかっている。
 しかしそれは自分と伊作にしか分からない問題であり、誰かに話してみたところで解決することではないのだ。
 いくら山本が雑渡の支えになってくれているとはいえ、助言を仰ぐのは気が引ける。
 これはあくまで雑渡の私的問題なのだ。
「最近、組頭と二人で話す機会もあまりなかったなと思いまして。組頭さえお嫌でなければ是非ご一緒に、と」
 雑渡の顔色とちらりと窺い、山本はさりげなく言った。
 山本は雑渡に何かあったことを察している様子だった。
 つくづく、出来る部下である。
 雑渡は山本の気遣いをありがたく思うばかりだった。
「お前の美人の女房とも久しく会ってないし、邪魔するかな」
 歩き出した雑渡の背後で、山本の密かな笑い声が聞こえた。


 外はいい天気だった。
 雑渡は山本の家の手入れの行き届いた縁側で足を投げ出し、握り飯を頬張っていた。
 そう広くはないけれど日当たりのいい庭で鶏がしきりに餌をつついている。
 小さな菜園では瓜とそら豆がそれぞれに蔓を絡ませている。
 山本と女房と六人の子ども。
 一家を養っていけるだけの穏やかで慎ましやかな生活が窺えた。
「組頭が来られたので、家内は大層喜んでおりますよ」
 山本は香の物と茶を乗せた盆を雑渡の横に置き、それを挟んで自分も座った。山本は雑渡に握り飯を勧めながら、自分も頬張った。
「梅に昆布の佃煮、醤油漬けの山菜まで入れて……、あいつ、気を利かせすぎだ」
「お前が家に帰るのはひと月ぶりくらいだろ。久しぶりに無事な姿で帰って来た亭主を迎えるのに相応しい握り飯じゃなか」
「豪勢なのは組頭がお立ち寄りになったからですよ」
 とは言いつつも、まんざらでもなさそうに山本は笑みを零した。
 雑渡は湯気の立つ握り飯の最後のひとかけらを口に放り込んだ。
「それにしても、ここ最近は携帯雑炊ばかりだったから、温かい飯は美味いな」
 それは良かった、と山本は口元を綻ばせた。
 やさしそうなその目は雑渡の部下というよりかは、一人の父親を感じさせた。
 視線に温みがある。
 雑渡の中にふわふわとした心地よさが広がった。
 静かに見守られているという誰かの視線が心強い。
 山本は忍びとして雑渡の部下である前に、一人の父親でもあるのだ。
 守るべきものがある人間のまなざしは奥深く感じる。
「昨日のオリエンテーリングは善法寺くんも頑張っておられましたね」
 山本はさりげなく話の向きを変えた。
 雑渡は飯粒のついた指を舐めるのを止め、長いため息をついた。
「昨日の夜は伊作くんに会っていて……」
「存じております」
「……なぜ、存じている」
「組頭の行動くらい予測がつかなければ、小頭なんてものは務まりません」
 雑渡は別の意味でため息をつきかけたが、気を取り直して続ける。
「わたしはね、自分がつくづく駄目な男だっていうのを思い知ったよ」
「一つも駄目なところがない人間なんていないでしょう」
「そういう慰めはいいんだよ。わたしは人を不幸せにすることにかけては天下一だ。なあ、山本。いっそ、わたしを思い切り罵ってくれ。そうすれば楽になる」
 雑渡は苛立った声を上げた。
「善法寺くんとどういうお話をされたんですか」
 山本は雑渡の苛立ちなどまるで意に介さない風であった。
「なんかさ、運命とか語っちゃってさ」
「君は運命の相手だよ、とかアホみたいなことを言ったのですか?」
 山本の声が色めき立った。
「いや……。違う。どっちかっていうと逆の方かな。にしてもアホって……」
「なんでまたそんな話を」
「なんでと言われても……まあ、成り行きかな。忍びとしてのおっかないわたしを知られたくないなとか、いつかは伊作くんとも離れなくちゃいけないなとか思ってたらそんな話をしてた。人生なんて風任せ。成るようにしかならないさって」
 山本はちょっとの間、考えるようにして言った。
「きっと善法寺くんは、自分と組頭との関係を想像してしまったんでしょうね」
 多分、それは図星だ。
「酷ですよ。仮にも彼は……まだ子どもですよ。どんなに図体が大人に近くても、組頭の半分も生きていない子どもなんです。それに善法寺くんは組頭のことを慕っている風ですし……。それなのに、そんな運命なんて話を持ち出されたら、組頭と距離を感じるのも無理ないですよ」
「運命は変えられない、なんていう考え方に至るのは、わたしの頭が固いせいかな?」
 運命にかまかけて人生を放り出しているつもりはない。
 変に気張ったりせず、淡々と覆いかぶさってくるような出来事を受け容れているだけだ。
 期待しなければ落胆もない。
 夢を見なければ破れることもない。
 けれど。
 一度でも期待してしまったら、一度でも夢を見てしまったら。
 その胸に抱いた想いをどうやって断ち切ればいいのだろう。
 願ったことも望んだこともない雑渡はそれらを終わらせる方法を知らないのだ。
「お前はさ。怖いって思ったことがある?」
「怖いですか……?」
「わたしは伊作くんに会うのが怖い……」
「……」
「楽しみな分、恐ろしさもある。どんなに頑張っても手に入らないことを知っているくせに。夢を見てしまうから」
「……夢ですか」
「叶わない夢を見てしまうんだ。都合のいい年寄りの自我を押し付けたくない。彼が彼ではなくなってしまう」
 もっと広い世界を見て、もっと色々な人と出会って、もっと多くの感情を覚えて、そしてもっと自分のことを知って……。
 伊作にはそういう権利があるし、そうであってほしいと思う。
 不運でも貧しくても忍者になろうがなるまいが、とにかく伊作が豊かに生きていくことを願わずにはいられない。
 そのために、雑渡は伊作にとって要らない人間であるべきなのだ。
「善法寺くんの言い分も聞かずに自己完結ですか。それこそ組頭は身勝手ですよ」
 めずらしく山本の言葉尻がきつくなる。
「私も怖いと思うことはありますよ。家内や倅に会うたび、死ぬのが怖くなります。私がいなくなったらこいつらはどうやって生きていくんだろうとか考えます。でも、きっと怖がっているのは私だけなのでしょうね。私はこんなにも家族に支えられて毎日を生きている。それを思い知るのが怖くて、忙しさにかこつけて家にも帰らないのかもしれませんね」
「……」
「……組頭の言うとおり、運命は変えられないものだと思いますよ」
 山本は湯のみのふちを指でなぞりながら言った。
 その視線の先では相変わらず、鶏が器用に首を伸び縮みさせながら地面をつついている。
「運命なんてものは、ほら、生まれる前から決まっていて、それこそ人知の及ばないことですよ。天におられる尊い存在が私たちの身の上に吉凶禍福を巡らせるんです。でもまあ。それはそれで。それだけのものでしかありませんよ」
「でもさ。それだけのものが、夢を見ることも希望を持つことも億劫にさせる……」
「それは違います」
 その時だけ山本はきっぱりと言った。
「いくら運命を決める尊いお方でも、組頭の心にまで手を出すことは出来ませんよ」
「こんなに歳取った人間が、夢を見てもいいとお前は言うのか?」
 座り直して雑渡は山本の顔をじっと見つめた。
 何かに迷った時、雑渡がそのことを口にしなくても助けになるような道を示してくれるのが山本だった。
 人に縋ってばかりではいけないと思っていても、ついつい頼りにしたくなる男なのだ。
「組頭」
 山本は静かに口を開いた。
「うん」
「夢を見る見ないは組頭が決めることであって、誰もそれを阻むことなんて出来ないんですよ。ただ一つだけはっきりしていることは、夢を見られるのは生きている人間だけだってことです。私もあなたも生きている」
 柔らかな山本の言葉は、雑渡の耳に優しく響いた。
 山本は雑渡の心を落ち着かせる大事な言葉をいくつもいくつも持っている。
 それはやさしい言葉ばかりではない。
 時折、上司に向ける言葉とは思えないほど厳しく、明らかな怒気を孕ませたものさえあった。
 しかし、それを煩わしいと思ったことは一度もない。
 山本は「生きている」と言った。
 そのたった一言が雑渡の頭の中を巡る。
 巡って、血の流れ、気の流れに乗る。
 身体が目覚めたように熱い。
 その通りだと思う。
 自分も山本も生きている。
 明日は生きているか知れないけれど、取りあえずのところ生きている。
 息を吸い込むこともできるし、手足を動かすこともできる。
 大声で叫ぶこともできるし、泣いて笑うこともできる。
 何だってできる。夢を見ることも……。
 神妙な面持ちの雑渡に、山本は僅かにうなずいた。
「夢や……望みを叶えられる人、もしくは願いを遂げられる人、心のままに生きることを許された人はこの世の中に本当に少ないと思います」
   山本は少し照れくさそうにした。
「私情など聞き苦しいばかりですが……。私は家内と夫婦になれるとは思ってもみなかったのです。そもそも若い時分には、所帯を持つなどと想像も出来ませんでした。なにせ仕事が仕事ですし。あの家内を一目見たとき、自分は身の程知らずな夢を見ていると思いました……。どうせ断られるなら、いっそ悔いがないようにしようと思って……。それが何がどう間違ったのか今はこうして一緒にいます。私は家族を失うことが怖いと言いましたが、怖い思いをするために所帯を持ったわけではありません。ただ、想いが通じた相手の傍にいるという選択をしたら、今の私がいたんです。あらためて思い出すと、何だか不思議な心地です」
 その気持ちは雑渡にもよく分かった。
 伊作が外聞の悪い雑渡に親しみを込めて接してくるたび、人生とは何と奇想天外なものかと思う。
 だから人生やめられないし捨てられない。
「私は家族に恵まれ、上司にも恵まれ、部下にも恵まれています。たとえ、それがあらかじめ用意されていた運命通りの道を歩いているだけだったとしても、それでも、私は今の自分の在り方を自分自身で選びました。運命は変えられない。その通りです。でも、きっと、生き方は自分で選んでいいのだし、変えていいんです。そうじゃなくては人生楽しくありませんよ」
 雑渡は目を閉じた。
 瞼に薄く陽が差すのを感じながらこれまでの自分の生き様を思った。
 雑渡がタソガレドキに生まれたこと。
 忍びになったこと。
 タソガレドキの城主に仕えたこと。
 大火傷を負って苦しんだこと。
 忍び組頭になったこと。
 そして。
 伊作と出逢ったこと。
 どの一つも後悔したことはない。
 どの一つが欠けても今の雑渡はなかった。
 けれど。
 伊作の笑顔が傍にあることに慣れすぎて気づかなかったのだ。
 自分が夢を見ていることに。
 昨日、伊作と会って、雑渡の言葉に色を無くした伊作を見て、そのときはっきりと夢を見ていることに気づいた。
 気づいて、気づかないふりをした。
 でも所詮はふりだ。
 周囲は誤魔化せても自分には嫌というほど分かってしまう。
 不毛な夢を見てしまったと。
「ねえ、山本」
「はい」
 山本の声はいつもと変わらず穏やかだった。
 思えば、山本が雑渡に付いてきてくれているのだって運命とは関係なく、すべては山本自身の意志であり心なのだ。
「諦める理由のために運命なんて言葉をちらつかせるのはやめるよ」
 努力もせずに、足掻きもせずに、この先に見えている別れを運命のせいにしようとした。
「組頭は傷つきたくなかったのですよ」
「この歳でね。笑っちゃうよね」
「何をおっしゃいますか。本物の出逢いというのもあるもんですよ」
 山本が悪戯っぽい目を向けた。
 その目の下には隈こそあるが、生き生きとしたものが感じられた。
 山本に話してみたことで、事態は俄かに好転したようだ。
「伊作くんに会いに行ってみるよ」
 どうなるかは分からないが、今すぐの結論は要らない。
 ただ無償に伊作の声が聞きたいと、伊作の笑った顔が見たいと思った。
「次の仕事までには帰ってくるようにお願いします」
 先ほどのやさしさはどこへやら。
「……心得た」
 じろりとこちらを見やる敏腕部下に雑渡は苦笑いを浮かべるばかりだった。


 朝方、伊作は雑渡を追いかけたらしいのだが、殿の後衛をしていた雑渡の部下に刀を向けられてしまったらしい。
 殿の前衛をしていた雑渡がその報告を受けたのは小頭である山本の家を発とうとした時だった。
 どうやら殿の命を狙う忍びと間違われたらしい。
 笑っちゃ悪いが、その不運あってこその伊作である。
 伊作が雑渡を追いかけたという理由は何だろうか。
 散々、突き放すような言葉を口にした雑渡を伊作が追いかけてくる理由はなんだろう。
「理由なんて組頭に決まっているじゃないですか」
 山本にそう言われ、そうなのかもしれないと期待した。
 その期待が雑渡の足を逸らせた。
 忍術学園に到着する頃には、西の空が朱に染まっていた。
 脅威の事務員に気配を悟られることもなく学園の敷地に侵入し、天井から医務室を覗き込む。
 案の定、部屋の中央に伊作がぽつねんと座っていた。
「こんにちは」
 雑渡はさりげなく伊作の背中に声をかけた。
 天井を振り仰いだ伊作は驚いた顔をしたが「いつも通りで安心しました」と言った。
 雑渡が天井裏から侵入することは日常と化しているのだ。
 床に下りると雑渡は遠慮がちに伊作の前に座った。
「君、わたしを追いかけてきてくれたんだって? 部下が申し訳ないことをした」
 殊勝に頭を下げた雑渡に慌てて伊作が首を振った。
「とんでもない。ただ、僕がすごい形相で追いかけていったので、いらぬ誤解を与えてしまいました」
「わたしの名前を出せばよかったのに」
「雑渡さんに迷惑はかけられません。そこは雑渡さんと一緒ですよ」
 伊作はきっぱりと言った。
「雑渡さんも僕に迷惑をかけたくないと思っている節があるでしょう?」
「……」
 伊作の顔が僅かにゆがんだ。
 雑渡はただ伊作の将来を思っただけで。
 それは本当に自分本位な考えでしかなかったのだけれど。
 それでも、雑渡なりに伊作のことを考えたのだ。
 こんな顔をさせるために、傷つけるためにあきらめようとしたわけじゃない。
 それより、なにより。
 雑渡のために身体を震わせるほど傷つくなんて思いもしなかったのだ。
 伊作が追いかける理由の中に、伊作が悲しむ理由の中に雑渡がいるなんて……。
 そんなことが……。
「……あるんだねぇ」
 雑渡が感嘆の声を漏らすと、伊作は首を傾げた。
「何があるんですか」
「うん。わたしのために誰かが必死になってくれることってあるんだねぇ、と思って」
「僕はいつだって必死ですよ。あなたは雲みたいにつかめないから」
 伊作は開け放しにされた障子戸から空を見上げた。
 刷毛でなぞったような薄紅色の雲がゆったりと流れている。
「本来であれば雑渡さんと僕は関わり合いのない人間同士でした。それが何かの悪戯か出会って仲良くなって……。僕が雑渡さんにして差し上げられることは怪我の手当てくらいしかありません。あなたを繋ぎとめておける手段はそれしかないのに。それが壊れたらあなたは僕のことなんて忘れてしまうのに」
「いつか歳をとってボケても君のことは忘れないよ」
「でも雑渡さんは物事の前提に運命があると言われました。交わらない運命ならば、それは最後まで平行だと。それは人間の力の及ばないことだと。だから、そんなことを言われて、雑渡さんは僕のことなんてすっぱりと切れるんだと思ったら急に苦しくなって」
「いや、違う」
 雑渡は伊作を遮った。
「君のことをすっぱり切れないから運命なんて持ち出したんだ。運命のせいにでもしなけりゃ君のことを諦めきれないから。何より君はやさしい人だから、やさしくない場所から遠ざけたかったんだ」
 いつか、離れる時のために。
 雑渡は口の中でそう呟いた。
 伊作は俯いたまま首をふった。
 そうしてしばらくは黙っていたが、やがて顔を上げるとためらいがちに雑渡の手に触れた。
「こういうとき……」
「うん」
「こういう風に悲しかったり寂しかったりしたとき、話を聞いてほしいとか顔が見たいって思うのは雑渡さんなんです。友だちはたくさんいるはずなのに、それでも雑渡さんじゃないとだめなんです」
 雑渡の手に伊作の温みが伝わってくる。
 生きている熱だ。
 今、雑渡を求めているのは夢でも幻でもない、生身の伊作なのだ。
「雑渡さんと一緒にいると楽しいです。会えないときはいつも無事を祈っています。ふとしたときに考えるのは全部雑渡さんのことで……。つまり、僕は今の自分の気持ちに後悔なんて一つもしていなくて……。だからいいんです。どんなに運命が変わらなくても、あなたが僕の幸いであることに変わりはありませんから」
 伊作は誇らしげだった。
 その誇らしさの根源に雑渡がいる。
 そう思っただけで泣けてくるような気がした。
 こんなにもたくさんの人が暮らすこの世で、もしかしたら誰もがたった一人に巡り会うために生きているのかもしれない。
 そのたった一人を探すために生まれて死ぬのかもしれない。
 伊作と出逢ったときに、雑渡の人生は大きく変わった。
 そのことに気づくと、雑渡の目頭はさらに熱くなってしまった。
 夢から醒めて。
 そうしたら、また新しい夢を見よう。
 夢の続きでもいいし違う夢でもいい。
 君に出会うため、何度でも。
「あのね、わたしは夢をみていたんだ……」
 そう語り始めた雑渡に、伊作は僅かにうなずいた。


 終わり 
20110618


戻る