白露 2


 今更にして尊奈門は気づいた。高坂は自身が犠牲になる選択をすることが多いのだ。
 もう何年も前のことになると思う。尊奈門はたまごの殻を尻につけたような忍びだった。幼く未熟で考えなしだった。
 何かの遠征で野宿をしたとき、食料調達のため森に罠を仕掛けたのだ。大人たちに罠の様子を見て来いと言われて尊奈門が森に行くと、子ウサギが掛かっていた。嬉々とした。これで食料の心配もない。腹も膨れる。でも、次の瞬間、尊奈門の喜びは掻き消えた。罠の隣に親ウサギがいたのだ。食料が食料に見えなくなった。空腹もひもじさも忘れていた。ただ、可哀そうだと思った。だから、子ウサギを逃がしたのだ。もちろん、今だったら絶対にそんな間抜けで自分勝手なことはしない。割り切って子ウサギの皮を剥ぐ。けれど、あのときの尊奈門にはそれが出来なかった。どうにも哀れに思えて、だから子ウサギの罠をはずしてしまったのだ。
 でも、そのあとが大変だった。罠にはウサギの血がついている。それなのに獲物が掛かっていないとはどういうことか。尊奈門は大人たちに責められた。そんな小さくなる尊奈門を見て、高坂がかばったのだ。自分が獲物を逃がしてしまった、と。
 その後、高坂は散々な仕置きを受けたと聞いた。許しを請うために尊奈門が本当のことを言おうとしても、高坂は厳しく制した。そして、「お前は間違ってないよ」と付け加えるように言ったのだ。
 子どもとはいえ、尊奈門もタソガレドキの忍びだ。仕置きは差異なく行われる。幼い尊奈門には、その仕置きに耐えられるだけの体力がないと、高坂には分かっていたのだ。おそらく、あのとき高坂がかばってくれなかったら、尊奈門は今ここにいないだろう。
 器用貧乏なんだよな……。
 日が暮れたすぐあとに霧が出てきた。青く見えていた山には薄っすらと雲がかかっている。整然とした美しさのあった茅葺は白いもやの中でひっそりとしていた。ぼやけた世界にいると、思考までもが不透明になる。
 見張り櫓の壁にもたれ、尊奈門は息を吸い込んだ。喉をひやりとしたものが下っていく。昼日中に比べると、格段に温度が低いようだった。その吸い込んだ息を少しずつ吐き出してみる。朝から、というよりも、高坂と分かれてからというもの、ずっとそんなことをしている気がする。もちろん、任された見張りもぬかりなくこなしているのだが、どうもそわそわしてしまう。その理由は分かっている。高坂を傷つけてしまったという自覚があるからだ。そして、高坂が尊奈門を叱らなかったからだ。叱られたかったわけじゃない。けれど、仮にも後輩にコケにされて、どうして怒らなかったのだろう。気が動転していたんだろうか。
 尊奈門は自分を落ち着けるようにして、もう一度深呼吸した。その時、階段を上ってくる足音に声を掛けられた。
「異常ないか」
「……小頭」
 タソガレドキ忍者隊の小頭である山本陣内だった。
「交替しよう」
 すっかり意気消沈した尊奈門の顔を見て、山本は目を瞬かせた。
「どうした。随分、精気のない顔だな。この霧のせいというわけでもなさそうだし。何かあったのか」
 山本らしい落ち着いた声を聞いて、尊奈門の緊張はものの見事に破れた。先ほどよりも三割り増しで情けなく歪んだ顔になる。
「私、高坂さんにとても酷いことをしました……」
「悪いことじゃなくて、酷いこと、か」
「はい。私、自分の上手くいかない苛苛を、高坂さんにぶつけたんです。こんなの八つ当たりですよね。高坂さんを不快にさせることで、自分の中に溜まった鬱憤を晴らそうとしたんです」
 尊奈門は山本に、高坂との間にあったことを説明した。
 話しているうちに、自分の人間としての価値の低さを再確認する運びになった。今更ながらに、なんであんな意地悪が出来たのか分からなくなる。怖いな、と思った。自分や、他人のこころの沼みたいにドロドロした部分が怖い。人はその深みに容易くはまる。きっかけさえあれば、ふとした拍子に沼の方から人のこころを支配しにかかる。誰もが、それに身を委ねれば気持ちよくなれることを知っている。他人の後ろめたいことや弱い部分を抉り、さらし、ねじ伏せる。他人の屈辱的な目の色が、極上の快感をもたらすのだ。
 でも。
 それをやってはいけないと、多くの人は分かっているのだ。どんな理由があろうとも、どんな感情に支配されようともやってはいけない。それは、自分も相手も傷つくからだ。ぼろぼろになるからだ。
 すべての話を聞いて、山本は遠くを見つめた。その視線の先には狭く重そうな空があった。
「そうか……。尊はまた土井先生に勝てなかったか」
「話の要点はそこじゃないです」
「しかも練り物で作った武器って。発想が突飛すぎる。なるほどな。高坂が笑うわけだ」
 思い出し笑いをする山本に、尊奈門は飛びついた。
「高坂さんに会ったんですか」
 山本は頷いた。
「何か、言ってませんでしたか。くたばれとか、暗闇には気をつけろとか。はあ。私のこと……そりゃ怒ってますよね」
 山本は、まさか、と言って笑った。
「怒ってなんかなかったよ」
「そんな、まさか。そんなはずないです。私……高坂さんに殴られても見限られても無理ないような振る舞いをしたのに」
 尊奈門は沈み込んだ。山本が軽く肩をすくめた。
「それで、そんな酷い振る舞いをして、尊奈門の気持ちは晴れたのか?」
 尊奈門は下を向いて首を振った。
「とても、後悔してます」
「だったらいいんだよ。仲間なんだから謝る機会ならいくらでもあるさ」
「私、強い高坂さんがうらやましかったんです。私、何をやっても全然駄目で、でも高坂さんは何でも出来て……。何でも持ってて……」
「でも、高坂がたったひとつだけ持っていないものがある。――組頭のこころだ。高坂が望むような形のこころは、あいつがどれだけ願っても手に入らなかった」
 山本は見張り櫓から周囲を見渡した。狼煙台が設置してある山々に異常ないことを確認する。山本は腕を組むと、視線を前方に注ぎながら言った。
「誰にでも一つや二つは弱点くらいある。確かに高坂の弱点は組頭だよ。でも、高坂のそれはちょっと特異だな」
「どういうことですか」
「あれは、自分の気持ちを押し込める性格だからな。ずっと組頭のことを慕っていて……きっとそれは情を移すとかそんな生温い言い回しじゃ追いつかないくらいの気持ちの量で……。でも、絶対にそれを口にはしない」
「なぜですか。振られるのが怖い、とか?」
 山本は笑った。しんとした笑顔だった。
「だったらまだ可愛げがあるけどな。高坂は変に気を使われたくないとか迷惑かけたくないとか悩ませたくないとか不必要な遠慮ばかりする」
「つまり、組頭を煩わせたくないってことですか」
「……あいつは、自分が他人に迷惑かけるのが耐えられないんだ。他人に頼られたり迷惑かけられたりすることに抵抗は皆無なんだろうけどな。でも、自分が他人の時間や思考を狂わせることを異常に嫌う。何でもかんでも自分ひとりで考えて、自分ひとりで解決しようとして、挙句の果てに抱え込んで静かになる。確かに高坂は弱くはないよ。でもな。尊奈門が思うほど強くもないよ」
 尊奈門は深く頷いた。のっぺらぼうみたいに色のなくなった高坂の顔が頭の片隅にちらついて消えない。こうしている今も、高坂はあんな顔をしているかもしれない。
 高坂が尊奈門に弱点を指摘されてあんな顔になったのは、それが本当だったからだろう。しかし、それだけじゃない。きっと自分の一番触れられたくなくて、一番秘密にしていた部分に土足で入られたからだ。頑張って張り巡らせてきた分厚い壁を、乱暴に崩されたからだ。尊奈門の一言で、素のこころがあらわになってしまった。ずっと隠してきた、ずっと押し込めて向かい合うことを避けてきた己の弱さを見つけられてしまった。だから、平常心ではいられなかったのだろう。
 ふと、あの不運な子どもに似ているかもしれない、と思った。
 尊奈門は低く声をひそめた。
「みんな、器用貧乏なんですね……」
 霧の中、山本がわずかに笑ったような気がした。


 つづく 
20100913


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