白露 3


 尊奈門が高坂に謝ることができたのは、翌日の朝だった。早秋の風に消え入りそうな薄日の中、里の入り口に向かって畦を歩いてくる高坂を見つけたのだ。
「済みませんでした」
 尊奈門が頭を下げると、高坂はほんのちょっと困ったようにして笑った。それからうやうやしげに尊奈門の肩を叩いた。間近で見た高坂の装束は湿っていた。髪も皮膚もすべてが水気を帯びているように感じる。おそらく、ずっと霧の中にいたのだと思った。先も見えないような濃い霧の中で、一体何を考えていたのだろう。何を思って、どんな顔でいたのだろう。
 俯く尊奈門の横を高坂が無言ですれ違う。高坂は何も言わなかった。かといって、尊奈門を避ける様子もない。ずんずんと里の中心に向かう高坂に、遅れないように歩いた。
 畦を挟んでそれぞれに、稲穂が金色になって揺れていた。まだはっきりとしない陽の光がたわわな金色と交じり合う。
「お前が」
 高坂は急に立ち止まったかと思うと、呟いた。
「お前が何を謝ってるんだか分からないけど。お前は謝る必要ない。お前は事実を言っただけで、何も間違ってないんだから」
 ああ。一緒だ。あのときと全く一緒だ。
 森。子ウサギ。罠。仕置き……。尊奈門は過去の出来事を振り返りながら、高坂の背中を見つめた。
 あのときと変わっていない。この人はいつも自ら進んで傷つこうとする。そんなのは見ているこっちが傷つく。人はよく傷つくし、どうしようもなく脆い。でも。
 尊奈門は大きく息を吸い込んだ。前を歩く背中にぶつけるつもりで言う。
「私、高坂さんが羨ましいんです。高坂さんにちょっと嫉妬してたんです。高坂さんはみんなからの信頼も厚いし、強いし、恰好いいから――」
「お前なあ……」
 呆れたように高坂が振り返った。うっすらと頬が赤い。照れているのだと気づいて、尊奈門はとたんにおかしくなった。
「そんな恥ずかしいこと、よく面と向かって言えるよな」
「だって、本当のことですもん」
 風が枝垂れた稲の穂先を揺らす。シャラシャラと乾いた音が響いた。
 高坂は立ち止まったまま、毛並みのようにやわらかな稲の海を見ていた。やがて風に消えそうな声で言った。
「この光景は、毎年見ても飽きないな。落ち着く。そこにあるだけで綺麗で、誰の迷惑にもならない」
「高坂さんは、誰かの迷惑になるのが嫌ですか」
「多分、嫌なんだろうな。それに、知ってる範囲で誰かがどうにかなるのとか、耐えられない」
 だから肩代わりをする。その人の傷を自分が負う。
「私は、いつも人に迷惑かけてばかりですよ。迷惑かけなきゃ生きられないってくらいには」
「それは尊奈門が、いつも間違ってないことをしようとしているからだろ。自分のこころに正直に生きようと思えば、誰かに迷惑はかけるもんさ」
 高坂はほんの少しだけ笑った。目を細め、訥々と語る。
「だから、私は正直じゃないし、いつも間違いだらけなんだろうな。そうやって、間違わずに生きられる奴はいいなって思うよ。尊奈門に色々言われて……。しばらく一人で考えてた。悔しいけど、尊奈門の言う弱点は当たりだと思う。私は、タソガレドキのためっていうよりかは、組頭のために仕事をしてきて……。だから、組頭がいなくなったら、きっと空っぽだ。何も自分の中に残らないことに気が付いたんだ。馬鹿だろ?」
「そんな……」
 高坂の強張った薄笑いに、言葉が詰まった。
 いつも、いつもいつも、この人はそんな寂しいことをこころの底に潜ませていたのだ。考えて考えて、誰かのために、何かのために、自分は二の次、必要なら気持ちも押し殺す。常に優先順位を考えて、大切にしたいものを壊さないように。組頭とか小頭とか尊奈門のこととかを、いつも考えている。落ち着き払った顔をしているけれど、時々厳しい口調になるけれど、本当はすごくやさしいことを知っている。
 なぜ高坂が強いのか、ちょっとだけ分かった気がした。
「やっぱり、高坂さんはすごいです」
「今の話を聞いて、どこをどうしたらそうなるんだよ。私はお前が思ってるような羨望の的になる人間じゃない。私の腕っ節が強いのはなあ、多分、弱点ありまくりで弱っちくて、だから強いんだ。そういうの隠そうとして強くなったんだよ。それだけだ。組頭に見捨てられたら嫌とか、そんなことばかり考えてるうちにこうなったんだ。本当にそれだけなんだ。立派なことなんて一つもない。だから、お前は羨ましがっちゃいけない。これはにせものの強さだ」
 吐き捨てるように言って、高坂は尊奈門を見た。今日、初めてまともに高坂と目を合わせた。少しだけ吊り上った切れ長の美しい目。その双眸が尊奈門を射るように見つめてくる。目の色は強いけれど、その奥にある悲しみがちらついて見える気がした。
 そんな風な目をして、この人はいつも組頭の隣にいるんだ。言葉も想いも呑み込んで、小さくなって。それでも、崩れずにちゃんと立ってるんだ。この人は、自分の生き方に対する覚悟がどれだけのものか、知ってるんだ。
 胸がじわじわと熱くなっていくのが分かった。確かに、高坂には正直さはないかもしれない。でも、間違ってなんかいないし、嘘も偽りもない。一切ない。全部、本物の高坂自身の明確な意思だ。
「本物ですよ」
「え?」
 聞き返した高坂に、尊奈門ははっきりと言った。
「高坂さんの強さは本物ですよ。高坂さんは本当にやさしい。私のつまらない話もちゃんと聞いてくれるし、私をかばってくれるし、私に本当の気持ちを打ち明けてくれたし、いつも誰かのためを思ってる。強さって結局のところ、やさしさの中から生まれるんですよ。だから、高坂さんの強さは本物なんです」
 高坂は目を大きく見開くと、俯いた。
「だから、そういう恥ずかしいことを言うなって」
 口ではそう言いつつも、なんだか嬉しそうだった。尊奈門の意見を否定する素振りはない。
 ふいに、稲穂で何かが光った気がした。目を向ける。露だった。穂先の上にいくつかの白い露が降りている。そこに、太陽が射して光って見えたのだ。
「もう露が降りるようになったんだな」
 覗き込んできた高坂が、感心したように言った。
 もう少し陽が高くなれば、この露も消えてしまうだろう。誰も知らないうちに降りて、誰にも気づかれず消えていく。ここでは、そんな景色がずっと繰り返されているのだ。
 急に、高坂と手を重ねたくなった。高坂の存在を確かめたくなったのだ。
 高坂はすでに畦を歩き出している。その後姿に向かって、尊奈門は駆け出した。


 終わり 
20100916


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