十五年目 1


 中天にさしかかった陽が短く濃い影を作っていた。風が吹く。砂埃が立つ。火薬の臭いが鼻を突く。
 一人の若い足軽が何かを探す様に走っていた。
 動くたびに具足が肩に食い込む。
 十日間、合戦場を走り回って疲弊した体に、重い具足が遠慮もなく圧し掛かってくる。
 若者は下唇を噛み締めた。
 しかし、若者の中ではその痛みよりも底の知れない不安の方が勝った。
 いないのだ。
 いるはずの、とっくに陣へ帰還しているはずの人がいない。
 若者は荒い呼吸を整えるようにして大きく息を吐いた。
 若者が見当をつけて出向いた場所には人の姿はなかった。そこに広がっていたのは、粉塵にまみれた戦の残骸だった。折れた旗指物や持ち主を失くした武器。焼け残った下草がまばらに見えるだけで音がない。つい昨日まで戦禍の中にあったとは思えないくらいの静けさだ。
 静かすぎて、何の気配もしなくて、ぞっとした。
 そこに生きているものの気配がない。死んでいるものの気配もない。
 暑さのせいではない嫌な汗が若者の背を伝い流れた。
 気持ちが悪い。吐き気がする。頭の隅が痛くて、手足も痺れている。何も考えたくない。
 いや、考えなければ。あの人がどこにいるのか思考することを怠ってはいけない。それなのに、何も考えたくない。考えられない。考えれば悪いことばかり浮かんでくる。
 焦るな。
 若者は自分に言い聞かせた。
 絶対に見つかる。
 いや、見つけるのだ。必ず。
 しかし、自分を鼓舞してみても不安な気持ちはなくならない。拳を握り締めると指の隙間から汗が滴り落ちた。
 笑って別れたのだ。
 どこそこの武将は威張っているとか、足軽の具足が重いとか、そろそろ白い飯粒が食べたいとか、そんな他愛ないことたくさん話して、笑って別れたのだ。ほんの数日したら、また顔を合わせるはずだった。笑って忍務の報告をするはずだった。
 それなのに。
 どうしてあの人はいない。
 こんなことが許されるはずがない。
 こんなことが……。
「高坂」
 後方から呼び止められ若者は振り向むいた。仲間の足軽が早足で近づいてくるのが見えた。
 若者の名前は高坂陣内左衛門。今はお貸し具足を身に纏っているが、タソガレドキ忍者の一人である。合戦場にて忍務を遂行する際、不自然のないように足軽に扮することも少なくはない。
「見つかったか?」
 高坂の焦りが伝わったのか、仲間の足軽は苦い顔で首を横に振った。
 この合戦場において、タソガレドキ忍者隊の一部の人員と連絡が取れなくなっていた。忍務中に命を落とすことも珍しくはない。元より、忍務は常に命懸けだ。高い俸給が得られるわけではないくせに、甘い仕事など一切ないのが忍びの者の現実だ。命懸けで金ではなく結果を得る。
 けれど、例えそうであったとしても、高坂は探すことを諦めるわけにはいかなかった。それは目の前にいる仲間も同じ気持ちだろう。
「ただ……けが人を手当てして回っている奇怪な奴がいるらしいぞ」
 仲間からそう報告を受け、高坂は胸騒ぎが治まらないままに駆け出した。息継ぎも忘れて走った。
 生きているのならそこにいる。
 では、生きていなければ……。
 いや、余計なことは考えるな。
 高坂はひたすら周囲を探し回った。仲間が言った奇怪な奴のことよりも、大事な人の生き死にだけが頭から離れなかった。



 四半刻の後、高坂は合戦場から外れた茂みの中で目当ての人を見つけた。
「組頭」
 高坂は叫んだ。
「陣左」
 組頭と呼ばれた男は緩慢な仕草でちょっと手を上げてみせた。その横には高坂の仲間が、そして、周囲を見渡すと敵方であるはずの人間がずらずらと並んで横たわっていた。その誰もが怪我をしているらしく動けない様子であったが、どういうわけか丁寧に手当てされていた。異様としか言いようのない光景だった。争い合っていたはずの者たちが、まるで闘志を忘れたかのように静かに寝かされている。
「お怪我を……」
 現状に混乱しつつも、高坂は先ほど組頭と呼んだ男の傍にはべった。高坂の上司であり、タソガレドキ忍者隊の忍び組頭である雑渡昆奈門である。
「大事ない」
 雑渡は造作もなく言った。
 雑渡は高坂と同様に足軽に扮していたはずであるが、その具足を失くしているようだった。負傷した箇所には綺麗に手当てが施されている。
 問わねばならないことがたくさんあるような気がした。
 具足の行方。
 怪我の手当て。
 そして、仲間の報告にあった奇怪な少年。
 しかし、高坂にはどの一つも問うことができなかった。
 ただ手が震えた。
 感情を押し隠そうと思えば思うほど血脈が勢いを増し、恐怖に震えた。
 雑渡の強さを信じていても、それでも、いつも頭のどこかでは、雑渡の命が潰える瞬間を想像してしまう。古傷の癒えないあの身体を酷使しているのだから尚更だ。
 あの時は大丈夫だった。今日は大丈夫だった。明日はどうだろう。次の忍務では。次のいくさでは……。
 高坂はそんな風にして怖れていた。
 大切だからこそ心を馳せてしまうのだ。
 けれど、今は、もうそんなことはどうでもいい。
 この大切な人を失う運命から逃れられたのだ。
 生きていた。
 この人は生きていた。
 息をしている。
 またこの方にお仕えできるのだ。
 ああ、仄かにあたたかい。
 高坂は雑渡の手をとった。まだ少し震えている。
 その震えが伝わったのか、雑渡が手を握り返してきた。
「煩わせてすまなかった」
 高坂は黙って首を横に振った。
「大きく深呼吸をしなさい。どうだ? 落ち着いただろう」
 雑渡に言われるままに、高坂は息を吐き出した。確かに、先ほどに比べて幾分かは震えが治まったように思えた。
 強靭な精神力を磨いてきたつもりであっても、いざという時には崩れてしまう。こんなに簡単に動揺し、まして上司である雑渡に宥められてしまった。修行が足りないと反省するしかないが、それは後回しだ。
 高坂は取り乱した恥ずかしさを振り切るように周囲を見渡した。
「組頭。これは一体どういうことでしょうか」
 むしろや草の上に寝かせられた男たちは元気でこそないが、死んでいる者は一人もいないようだった。
 素人目で見る限りだが、止血や固定などが的確に施されている。止血に使った包帯は、どうやら背旗を裂いて作った即席包帯らしい。ところどころに旗の染め抜きが見えた。固定用の添え木は、やはりいくさで使いものにならなくなった材を再利用しているらしかった。
「奇特な少年がいてね」
「少年……ですか?」
 高坂は怪訝な顔で雑渡を見た。
 タソガレドキの若手忍者だろうか。いや、しかし。いくら物事に頓着しない組頭といえども、名前はともかく、身内の顔くらいは分かるのではないか。それに今のタソガレドキ忍者隊にこれほどまでい医術に長けた者はいないはずだ。
「オーマガトキの手の者でしょうか……」
 高坂は今回のいくさの相手方の名を口にした。
 辺りを見るがその奇特な少年の姿はない。遠くで砲弾の音と怒号が響いているだけだ。
「違うと思うな。彼は忍び装束を身に着けていたから」
 事前の調べによれば、オーマガトキに忍者はいないとのことだった。いや、いるにはいるが、少年ではない。ママゴトで忍者をしているようなのが二人だけだと聞いている。
 いよいよ様子が分からなくなってきた。
「何か妙なことをされませんでしたか」
「片っ端から怪我した奴を手当てして回る行為自体が妙といえば妙だが……。普通の少年だったよ。どこかの城の忍者ってわけでもなさそうだし。怪我の程度が酷いと張り切るんだ」
「あ、怪しい! やはり我々、タソガレドキに害を成す輩かもしれません」
「害、ねえ。でも、害を与える人間が怪我の手当てなんてするかな。それに隙がありまくりで、すっごくぽちゃぽちゃしてたし」
 その少年の姿を思い出したのか、雑渡の顔に笑みが浮かんだ。
「ぽちゃぽちゃ?」
「そうそう。なんか、こう……ほっぺたの辺りとかさ、ぷにーってしたくなるっていうか」
「そ、そんな変態行為を初見の相手に、しかも子供にしたのですか。いくら私の頬が引き締まっているからといって、そこらへんの子供を引っ掛けなくても――」
「引っ掛けてねーよ。いくらなんでも、わたしだって礼節ぐらいは弁えてるさ」
「組頭の幼児愛護精神をくすぐるなんて」
「どうでもいいけど、わたしを変態扱いするな」
「これはいよいよ、恩を売って相手を油断させる忍術かもしれません」
「聞いてないな」
 雑渡はやれやれと肩をすくめた。周りが見えなくなった高坂には何を言っても無駄だということは長年の付き合いで分かりきっている。
「恩を売って、ねえ。そうかもしれないけど、相手は名前すら告げなかったしねえ。何かを聞き出す素振りもなかったし。怪我の手当てが好きな性質なんじゃないの」
「ますます怪しい」
 高坂が呟いたとき、かすれ声が聞こえた。
「でも高坂さん、私が命拾いしたのは彼のおかげにちがいありませんよ……」
「尊奈門、起きたか」
 雑渡の隣りで寝ていた諸泉尊奈門は力なく笑った。
「不思議ですよね……。私、人のどこを斬ったら血がたくさん流れるとか、どこの骨が折れやすいとか、どこが刀を刺しやすいとかは知っているのに、自分の血の止め方も骨を固定する包帯の巻き方もほとんど知らなかったんですから……」
 尊奈門はその少年を擁護する立場に回る気らしい。
「分かったよ。もうしゃべるな。お前はよく頑張った」
「……あれ……。高坂さんが優しい……。これは何か良くないことの前兆ではないでしょうか」
「弱ってる人間を足蹴にするほど甲斐性なしじゃないぞ」
「ふふ。高坂さんが心配してくれるなんて、嬉しいなあ」
「そうか。私も小言を言う相手がいなくならなくて、ほっとしたよ」
 高坂は安堵のため息をもらした。尊奈門は嬉しそうにしながら、また目を閉じた。
 蝉がかまびすしい。
 立ち上がった高坂に、雑渡は視線を走らせた。
「どこへ行く」
 雑渡が問うてきた。高坂は真っ直ぐに雑渡を捉えた。
「あなたの手足に代わり、どこへなりとも」
「探るつもりか……?」
 雑渡はやや怪訝な視線を腹心の部下に向けた。
「深入り無用だ」
 忍びにとっての常識だ。そんなことは高坂も十分に承知しているだろう。高坂は優秀な忍びであり、雑渡の傍近くに仕える腹心の一人だ。いずれ、タソガレドキ忍者隊を引っ張っていく中心的存在になるだろう。本人は地位や名誉に興味を一切示さないが、周囲は高坂に対してそれに足るだけの器量を持っていると確信していた。冷静で従順。何よりも忍びはどうあるべきかを常に考え実行している。
 しかし、今日の高坂は、どうしたことか雑渡に意見した。
「組頭はその少年のことが知りたくないのですか?」
「語弊があるなあ……」
「いえ。あなた様のことだからきっと、お礼の一つでも述べないと気がすまないんじゃないかと思いまして」
 高坂は取り繕うように言葉を継いだ。雑渡の義理堅い性格を見越してそう言ったのだ。
 長年傍に仕えてきた高坂には、雑渡の気持ちの揺らめきが分かるような気がしたのだ。
 しかし、それだけではない。合戦場で手当てをしてくれる良い人が居た、では終われないのだ。それが何者か確かめなければならない。もしも、タソガレドキに暗雲をもたらすのであれば、どんな者だろうと排除するのが掟だ。たとえそれが、高坂にとっても雑渡にとっても不本意であろうと。
「それに、私自身もその人物の正体が気になります」
「多分、あれは無害だよ」
「分かっています」
「ではなぜ」
 なかなか承服しない高坂に、雑渡はやや痺れを切らした様子だった。高坂は普段なら決して逆らうことなどない男だ。何か引くことができない理由でもあるのかと、雑渡は部下の言葉を待った。
 高坂は雑渡の目をまっすぐに見て、そして強い口調で言った。
「あなたの身体にいとも容易く触れました」
 高坂の両脇にあるこぶしが強く握りこまれる気配がした。
「これが……。この事実がどういうことだか、組頭は分かっておられますか」
 高坂の切れ長の目が雑渡の眼を凝視する。
 雑渡はふっと短く息をついた。雑渡は部下である高坂の眼に時々威圧されることがあった。年若い者がふとした瞬間に見せる、真実を暴こうとする眼だ。こちらの事情にお構いなく、視線だけで心の奥底を抉ろうとする。幼い残酷さだ。
 その正体不明の少年が、雑渡のひどく膿んだ身体に触れることを躊躇わなかったと言いたいのか。それとも、雑渡が得体の知れない少年に何の躊躇いもなく身体を預けてしまったことを責めているのか。
 雑渡には高坂の心のうちは読めなかった。
 どんなに長い時間を共に過ごしたといっても、やはり生身の人間である。知らないことや分からないこともたくさんあるのだ。
 確かに、雑渡は名前も知らない少年に怪我の治療を受けた。それは事実だ。しかし、それだけだ。何をそんなに知りたがる。何をそんなに気にかける。
 けれど、雑渡の傍近くに仕える高坂がその少年のことを探る理由にしては十分過ぎた。
 雑渡は見ず知らずの少年を間合いに入れることを許したのだ。
「……歳は、多分、尊奈門より若いよ。割と小柄でひょろっとしてて、松葉色の装束だった」
 雑渡は謎の人物の身なりを高坂に教えた。少年を追う許可を得た高坂は、無言で頭を下げると目的を果たすため雑渡の前から姿を消した。
 おそらく、いや、絶対に。
 高坂は早々にあの少年の正体を突き止めるだろう。けれど、早まって殺してしまう心配はない。逆に殺されてしまう心配もない。高坂の忍びとしての能力を雑渡は過大評価なしで相当高く見積もっている。
「さあ、帰ろうか」
 雑渡は雲一つない空に向かって言った。すると、不思議とありがたい気持ちになった。
 もしかしたら、息絶えていたかもしれない自分と部下。そして、今ここに手当てを受けて寝かされている者。
 見えない糸があるような気がした。
 目に見えない縁。
 容赦ない日差しが照りつける。
 汗が額を伝い右目に沁みた。
「今日も暑いな……」
 雑渡は空に向かって呟いてみた。


  つづく

20120412
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