十五年目 2
合戦場を後にした高坂は、目的の松葉色を視界の先に捉えた。
雑渡の言ったとおり、忍び装束の少年だ。
高坂はいささか驚いた。想像していた人物よりはるかに幼い。少年というより、子どもと受け取れた。ふわふわと揺れる髷がなお一層、幼さを醸し出している。
少年が高坂に気づく様子はなかった。そのまま早足で、人目を避けるように山道へ入っていく。
高坂も少年に続いて山へ入った。
日の長い夏とはいえ、夕暮れが迫った山道は薄暗い。
しかし、少年にとっては慣れた道なのか、速度は弛まない。
一体、どこまで行くのだろう。
高坂は一人呟いた。
こちらの方へはあまり来たことがない。ほとんど初めての道筋だった。少年と程よい距離を保ちながら、高坂は幾つも山を越えた。
ところが、歩いているうちに、高坂は段々と腹が立ってきた。知らない土地にいる不安からではない。少年がとても危なっかしいからである。
山に入った時から、木の根に躓いてコケるし、川に嵌るし、イノシシに襲われるし、獣を生け捕る罠に嵌るし、そのほか色々。
そのドン臭さは、忍びという言葉を疑わしくさせた。
この山道を初めて通る高坂でさえ上手く危険を避けているというのに、歩きなれた様子であるあの者が描いたように次々に危ない目に遭っている。これをどう説明したらいいのだろう。
もしかして、足でも悪くしているのだろうか。
そう思い、前方を行く人物をしばし観察してみるが、そんな様子は見当たらない。
高坂は、ますます腹立たしくなり、疑問ばかりが胃の辺りでぐるぐるしていた。
確かに、少年は忍び装束ではあるが。しかし、これで本当に忍びであったのなら、同業者としては涙を拭わずにはいられない。
少年は明らかにボロボロになっていた。一体、どうやったら短時間にそこまでボロボロに変われるのかというくらいに酷い有様だった。まさに、不運というほかなかった。
あまりにも不運としか言い様がないことが続くので、高坂は何度も手を貸しかけた。しかし寸でのところで堪えた。
高坂自身は怪しまれないように町人に扮していたので、別に少年に姿を見られてもいいのだが、顔を覚えられるのはまずい気がした。それに、相手のことがよく分かりもしない 内に妙な関係になるのも後々、面倒なことになりそうだった。なので、静観に留まったのだ。
本当に、組頭たちを手当てしたのはこの者なのか。
その少年の頼りない姿を追いながら、高坂は疑念を抱かずにはいられなかった。
普通の子どもに見えた。何の変哲もない(まあ、多少不運ではあるが)そこら辺にごく当たり前にいそうな子どもだ。
この子どもなのか。
高坂はぼうっと考えた。
この子どもが、血を止め、肉を縫い、骨を固め、薬を塗り、包帯を巻く術を知っていたというのか。
すべての者を見捨てず手を差し伸べ、死を生に変えたというのか。
流れ弾に当たるかもしれないのに。間者と疑われるかもしれないのに。危険を承知でそんなことをしていたというのか。
謎だった。
何の利益がある。何の得がある。どんな目的が潜んでいる。
見ず知らずの人間を救うために、そこまで身を犠牲にできるものなのか。
「あのー……ご気分でも悪いのですか?」
不意に声を掛けられた。一瞬、高坂の背筋が凍った。自分は身を隠している。声を掛けられるはずがない。いや、そんなことがあってはならない。しかし、今、確かに声が聞こえた。
高坂は顔を上げた。
頭一つ分低い位置に、心配そうに高坂を見上げる少年がいた。
高坂は心の中で舌打ちした。顔にこそ出さないが、しくじったと思った。こんなこと、後輩の尊奈門に知られれば大事だ。後世まで嫌味を言われるに違いない。まさか、忍びである身の上で、こんな子どもに気配を悟られ、ましてや姿を見られるなんて。
完全に失態だった。高坂の頭の中は冷静ではあったが、これから先をどう取り繕うかの算段で一杯だった。
「血の臭いがしたので来てみたのですが……」
反応のない高坂に、少年は畳み掛けた。自分が忍び装束でいることなど頭から忘れてしまっているらしい。目の前にいる高坂に必死の様だった。
「血の臭い?」
訊き返す高坂の声に、「あっ」という少年の声が重なった。
しゃがみ込んだ少年につられて視線を下に向けると、高坂の足の爪が割れ、草鞋に血が滲んでいるのが見えた。
「……酷い。かなり無理をしてここまで歩いてこられたのですね」
少年は本当に気の毒そうに言った。
高坂はなんとなく良心が傷んだ。とてもじゃないが、君を尾行してきたとは口が裂けても言えなかった。
「いや。まったく気づかなかった」
高坂は気まずさを隠して少年に話を合わせた。しかし、足の怪我に気づいていなかったのは本当だった。おそらく、足軽に扮し、合戦場を走り回っていたときに傷ついたのだろう。夢中になると痛みを忘れてしまうから厄介だ。
「そこに座ってください。幸いにも、僕は薬と包帯を持っていますので、手当てをさせてください」
少年の示した先に、人ひとりが腰掛けられる程度の石があった。
このまま、この少年と長い時間接するのはまずい。
高坂はやんわりと遠慮の意を示したが、少年はお構いなしに高坂を引っ張っていくと座らせた。
「駄目駄目。土がついて汚れていますし、化膿したら大事ですから。足の指がなくなっちゃうかもしれないんですよ。腐ってボロって取れちゃうかもしれないんですよ」
「あ、ああ」
脅すように言う少年に、高坂はしぶしぶ足を差し出した。
初対面の相手を脅迫まがいな言葉で言いくるめるなんて、気が知れなかった。
少年は小脇に抱えていた箱から竹筒を取り出し、水で高坂の足を洗った。出血している 箇所に薬を塗りこみ、油紙を巻いて傷を覆った。
作業に没頭しているのか、少年は無言だった。その姿を改めて近くで見ると、小さな鼻と、ふっくりとした頬の線がより幼さを強調しているのが感じられた。
少年はやさしい手つきをしていた。
同じ忍びであったとしても、自分とこの少年とでは大違いだと思った。危険や偽りや恐怖や……高坂の日常に溢れている言葉とはまったく無縁のように感じられた。
誰かを労わる手は心地がよかった。
しばしの間、高坂はまどろんでいた。が、あとは包帯を巻くだけという段になったとき、箱の中身を見て少年が声を上げた。
何事かと思い、高坂はその箱の中を覗いた。そこにはほとんどカラになった薬の容器と 水の入った竹筒しかなかった。
なるほど。肝心の包帯がないのだ。
高坂はここまでしてもらったのだし、別にこのままでも構わないと思った。しかし、少年の行動はすばやかった。
頭に巻いた頭巾を解くと、躊躇なく引き裂いた。
「これがあってよかったです。さあ巻きますね」
笑顔でそんなことを言う。
高坂は呆気に取られた。すぐさま表情は隠したが、それでも驚かずにはいられなかった 。
ここまでするのか。見ず知らずの人間のために。
頭巾をとった少年の頭はそそけていた。きっと、山道で転んだりしたせいだろう。装束には泥がつき、いたるところに細かな傷をこさえていた。第三者からしたら、高坂よりも この少年の方が怪我人のように見えなくもない。
この少年は自分のことなど二の次なんだろうな、と思った。自分に無頓着なわけではなく、目の前の誰かに対して深く心を掛けてしまう性質なのだ。
そして、同時に、雑渡たちの手当てをしたのがこの少年であることを確信した。
この少年以外には存在しないと思った。
「……ありがとう」
高坂の口からは自然と言葉が出てきた。顔を見られてしまったことなど、すでにどうでもいいとさえ思えた。
「いえ。大事に至らなくてよかったです」
道具をしまいながら、少年は本当に嬉しそうに笑った。その態度に恩着せがましさや策略は一切感じられなかった。
ただ、本当に、本心から、高坂の手当てができたことを喜んでいるようだった。
「どして私を助けてくれたんだ?」
深入り無用だとは分かっているが、高坂は純粋に訊ねてみたくなった。
「どうして……ですか? えっと、あなたが怪我をしていたからです」
少年はおずおずと応えた。
高坂は頷いた。その純粋さには、ただ頷くしか術がないと思った。
「そうか。何か礼がしたいのだが、私はこのような有様だ。後日になると思う。君の住まいを教えてくれないか」
高坂は腐っても忍びだ。抜かりはなかった。
少年に接触しておいて、ただで帰る訳にはいかない。何か実りある情報を持ち帰らなければ。それが忍びという者だ。
「いいえ。お構いなく。僕が好き勝手でやったことですから」
少年は高坂の思惑をするりとかわした。高坂を警戒しているのか、それとも何の他意もないのか。
思案する高坂に、少年はとんでもない提案をしてきた。
「それよりも、あなたのことが心配です。その足では山道はお辛いでしょう。お送りします。お家はどこですか?」
高坂は一瞬言葉に詰まった。油断をしていたわけではないが、相手も忍びであったことを失念していた。
「いや。大丈夫だ。家はこの近くだから」
高坂は遠慮気味に言った。束の間、少年はじっとこちらを見つめていたが、やがて納得したのか山の奥へと歩いていった。
高坂は胸を撫で下ろす暇もなく少年の気配を追った。
森が開ける。
そこにあったのは、どこまで続いているのか分からないくらいに長い塀と堅牢な門扉だった。軋むような音がしたのでそちらを見る。脇門に少年のふわふわした髷が吸い込まれ ていくのが見えた。
「ここに住んでいるのか……」
高坂は、目の前にそびえ立つ塀に向かって呟いた。
いつの間にか陽は傾いていた。辺りは薄暗い。
高坂は、つま先に目を落とした。
灰青に染まる景色の中、松葉色の包帯だけははっきりと分かった。
合戦場にて奇行を繰り返していた謎の人物が忍術学園の生徒、善法寺伊作であるとの報告が雑渡の元へもたらされたのは、その日の夜のことだった。
つづく
20120415