十五年目 15
「譲られちゃいました」
伊作は呆然と高坂の背中を見送った。
「まったく、何を言い出すかと思ったら。陣左のやつ」
雑渡は大きく息をついた。
高坂は気を遣ったつもりなのか、嫌味なのか。
どちらにしてもその捨て科白は伊作の心を戸惑わせた。
心を譲ると言われても……。
何だか切なかった。
高坂には雑渡を恋慕う気持ちがあった。きっとあったのだ。ほんの少しだけでもあったのだ。でもその気持ちに気づきながら伝えることさえなかった。
高坂の深く永い気持ちが身に沁みた。
伊作はどんな顔をして雑渡を見ればいいのか分からなくなってしまった。
「尊奈門さんは大丈夫でしょうか」
わざと話題を逸らしてみる。
「尊奈門のことだ。多分、土井先生と話し込んでいるんだろう」
雑渡は高坂の言葉など意に介していないのか、やれやれと肩をすくめた。
「でも、どうして陣左のことを訊いていたんだい?」
雑渡は伊作と並んで縁側に座った。
「えっと、確か……。僕と雑渡さんが親子みたいだって言ったら、高坂さんにそれは雑渡さんの前で言っちゃ駄目だって言われて」
「今言ってるよね」
「あ、本当だ。雑渡さん、どうして泣きそうなんですか? 僕、何か悪いことを言いましたか?」
「いや、いいんだ。続けて」
「はい。それで、高坂さんに親子は駄目だけど、夫婦だったら言ってもいいよって言われて。あれ、雑渡さん今度は笑ってます? しかも結構なにやにや笑い」
「わたしに構わず続けてくれ。今、夫婦という響きを身体全部で噛み締めているんだ」
「はあ……」
異様に思いつつも、伊作は雑渡の言うとおり続けることにした。
「それで、雑渡さんが独身だっていうのを思い出して、でも高坂さんが雑渡さんの家族だから寂しくないですねって、それで……僕は……」
きっと、高坂の目には伊作がもう二度と見ることの叶わない姿の雑渡がいるのだろう。
伊作の知らない雑渡が。
家族として一番近いところで雑渡を守り支えることは、強い高坂にしかできなかったことだろう。
「伊作くん?」
急に俯いて黙り込んだ伊作の顔を雑渡は覗き込んだ。
「お腹でも痛くなった?」
雑渡はどうしたらよいか分からないという様子で伊作の肩を抱いたり、背をさすったりしていた。
「胸が……」
伊作は自分の胸に手を当てた。
「胸が痛いのです。あなたのことを考えると、どうしようもなくこの胸が痛い」
「伊作くん」
「どうしてか自分でも分からないのです。でも、あなたの身体に大きな傷ができた理由も知らなかった僕にとって、高坂さんは眩しすぎて」
「陣左?」
「高坂さんのことが羨ましくて仕方がないのです。あなたの家族であなたを支える存在で……。僕はあなたの何にもなれないと思うと、どうしようもなくこの胸が痛むのです。森 の中で雑渡さんに助けられたとき、僕は自分の不甲斐なさに失望し、僕の背後で戦う高坂 さんに嫉妬しました。あなたのその身体の傷が全部僕のせいならよかったのにと、訳の分からないことを思いました。この気持ちは何なのでしょう。言葉にできないこの気持ちは――」
「それは――」
何かを言いかけて、雑渡は口を引き結んだ。
雑渡は伊作のこの気持ちの正体を知っているのだろうか。
「ねえ、伊作くん」
雑渡は伊作に呼びかけた。真っ直ぐに伊作の目を見る。
「はい」
応えると、雑渡の目が今まで以上に柔らかさを帯びる。
「君はわたしの命の恩人だ。君がいなければわたしはここにいなかった」
伊作が胸に置いた手に、雑渡の手が重なる。
「君に出会って世界が変わった。比べようもないほど変わったんだ。伊作くんは誰の何にもなれないって言うけど、わたしは違うと思う。他の誰が何を言っても、わたしだけは違うって言えるよ」
「どうして、ですか?」
雑渡の手は温もりに満ちていた。不思議と胸の痛みが薄らいでいく。
「伊作くんはわたしの特別だもの。何にもなれないなんて、そんなことはない」
「特別……」
思わぬ言葉に伊作はぽかんと口を開けた。
特別。
そんな嬉しいことを言われたのは生まれて初めてだった。
「僕が、雑渡さんの特別……」
貰った言葉を繰り返してみる。
雑渡が小さく笑った。
「そうさ、伊作くんは雑渡昆奈門の特別さ」
「で、でも。僕は何も……何もできていません。山本さんのようにどっしり構えて雑渡さんを支える力もないし、高坂さんのように雑渡さんの家族でいることもできない。尊奈門さんのように誰かを和ませる力も、何も……持っていないのに、それなのに」
涙目になった伊作の頭を雑渡は撫でた。
「確かに、あの三人はわたしを無償で支えてくれる。山本は付き合いも長いから、わたしのよき頭脳でいてくれる。陣左はあの若い体躯を活かして、わたしのよき手足でいてくれる。尊奈門は意外にも観察眼はある方だから、わたしのよき目耳でいてくれる」
雑渡は自分の傍にある支えを一つ一つ語った。
「でもありがたいことに、伊作くんもわたしを支えてくれる力なんだ」
雑渡は嬉しそうに言った。
伊作はただ驚いた。
「僕も……」
「そうさ。だから、笑わないで聞いてくれるかい?」
見ると、雑渡は照れているのか、しきりに頬を掻いていた。伊作が初めて見る雑渡の姿 だった。
「はい」
伊作は神妙に頷いた。何を言われても笑ったりなどしない。真剣に受け止める。
「伊作くんは本当に一所懸命に物事に励んで、頑張り屋さんで、おっちょこちょいだけど、へこたれない人で。わたしの命を助けてくれて、わたしが生きていることを喜んでくれて、わたしが見たこともない世界、感じたことのない世界を与えてくれた。伊作くんと仲良くなりたいと思って、伊作くんの成長が楽しみで、伊作くんが笑ってくれるのが本当に嬉しかった。伊作くんが笑ってくれるのなら、どんな困難にも打ち勝ってみせようと思った。伊作くんと一緒にいると明日が輝いて見えて、心が弾んで、ああ、今生きているんだって、そう思えた」
「雑渡さん」
「だから、君はわたしの夢でいてよ」
雑渡は伊作の手を取ると、その甲にくちづけた。乾いたような湿ったような不思議なその感触に束の間、伊作はうっとりした。
「夢……?」
「そう。君はわたしの夢で光で希望でいて」
雑渡は切なげに目を細めた。
伊作は少しだけ躊躇して、それから頷いた。そっけない顔をしていたけれど本当は泣くほど嬉しかった。
雑渡の一部になれたことが信じられなかった。
自分が誰かの何かであれること。その些細なことが溢れんばかりの喜びとして迫ってくる。
伊作にも雑渡を支えられる力があったのだと、心からそう思えた。
「僕でいいんですか? あなたのそんな大事なもの、僕で……」
「伊作くんがいいんだ。伊作くんじゃないと駄目なんだ。だから今のわたしを見て」
雑渡の右目が伊作の瞳の奥を真っ直ぐに捉えた。
「伊作くんはわたしの過去に拘るみたいだけど、わたしにだって知りえることのできない君の過去があるんだ」
「そういえばそうですよね」
「でも、そんなことを一々言っていちゃ始まらないだろ。わたしだって今よりはるかにぽちゃぽちゃした伊作くんの姿を見たかったよ」
「また出ましたね。ぽちゃぽちゃ」
「まあ、わたしの願望は置いといて」
「願望なんですね」
「とにかく」
雑渡の言う、ぽちゃぽちゃの謎は解けそうになかった。
「伊作くんは言ったよね、自分にとって大事なのは昨日でも明日でもない、今目の前で起こっていることだって。だったら大切にしなくちゃいけないのは、君とわたしが出会えた 十五年目の今でしょう」
雑渡は伊作の手をぎゅっとにぎった。伊作との出会いを本当に喜ぶように顔を綻ばせた。
十五年目。
伊作は一人呟いた。
ずっと、自分の生きてきた十五年には雑渡がいなかったのだと悔やんでいた。
他人のことばかりを羨んできた。
けれど違ったのだ。
十五年目に雑渡がいたのだ。
伊作の生きてきた十五年目に雑渡と出会えた。
特別だ、と。
支える力だ、と。
思わぬ言葉にも出会った。
伊作の欠点だと思っていたやさしさが強さなのだと知った。そう思わせてくれた。
雑渡は伊作に夢や光や希望でいてくれと言う。
けれど、本当は雑渡こそが伊作が十五年目に出会えた夢で光で希望なのだ。
雑渡は相変わらず笑っていた。伊作の存在が雑渡を喜ばせ、ときに支える力となっているのなら本当に誇らしかった。
「高坂さんに、雑渡さんの心を譲られました」
「そうだね」
「くださいって言ったら怒りますか? あなたの心を僕に……」
伊作は真剣な面持ちで心の内を晒した。雑渡は少しだけ目を大きくさせて、そして破顔 した。
「物好きだね」
「最初で最後のわがままです。あなたの心、僕にください」
「返品不可だよ」
傾き始めた陽の光が二人に差す。
「……眩しい」
目を細めた伊作の頬に雑渡のくちびるが寄せられた。
終わり 20120627