十五年目 14


 案内も請わず庭を駆けて座敷に上がると、高坂は雑渡の背中に飛びついた。
「おお、どうした」
 高坂の気配には気づいていたが、まさかそういう突飛な行動にでるとは思わなかったのだろう。読んでいた本を取り落とし、雑渡はいささか驚いた声を上げた。
 生々しい頬の傷が雑渡の口に合わせて動いた。
 高坂は何も言えずしばらく雑渡の背中にしがみ付いていた。
「どうしたんだい。急に甘えんぼになったのかい?」
 雑渡は本を拾い上げると、傍の棚へと放り投げた。
「……その傷。私を助けてくださったのですね」
 雑渡の前に回りこみ、高坂は咎めるように言った。
「何だ。もう父上さまから聞いたのかい?」
 雑渡は悪戯の見つかった子どものように顔をしかめた。もしかしたら、頬の傷が疼いたのかもしれない。
 高坂はもう、何を言ったらいいのか分からなかった。身体の中から湧き上がってくるのは怒りにも似た情動だった。
「書状を見せてもらいました」
「そう」
「どうして……」
 雑渡の胸の辺りを掴むと強引に揺すった。
 謝辞の一つも伝えられないまま怒りだけが先走る。手が震えて仕方がなかった。
「どうしてこんなこと……」
「……」
 雑渡は高坂のされるがままになっていた。
「どうして、どうして……。あなたという人は……どうして……私なんかのために、こんなこと……。下手をしたらあなたの命が……」
 雑渡のしたことは一国の城主に楯突いたも同然の行為だ。どんな手法をとったかは分からないが、しかし、主の意志を曲げさせたのだ。主に意見するなど命を落とすことに等しい行いである。
「命を懸けるなんて当然じゃないか」
 雑渡は高坂の頬を親指の腹で撫でた。知らないうちに、高坂の目からは涙が筋になって流れていた。
「……何、て?」
「お前のために命を懸けるなんて当たり前じゃないか、と言ったんだ。お前はわたしの家族同然なんだ。家族の一大事に口出し手出しは当然だろ」
「家族……」
 意外な言葉に、高坂は目を瞬かせた。
 雑渡は高坂との関係をそういう風に捉えていたのだ。
 それは高坂が無我夢中で目指した繋がりだったのかもしれない。
「そうさ。家族さ。心外かい?」
 問われ、慌てて首を振る。
「そんな、嬉しいです」
「なら良かった。お前はわたしにいつも気を遣ってくれていて。本当はわたしが寂しがりなのを見抜いていたんだろ?」
「そんな……」
「見抜かれていたんなら嬉しいな。お前はわたしをいつも楽しませてくれた。いつも一緒に笑ってくれた。お前がわたしの何かであろうとしてくれているのがすごく嬉しかった」
「山本さまのようにはいきませんでしたけれど」
 山本陣内は忍者隊の中でも大きな力を発揮させ、雑渡を仕事の面でも私生活の面でも太い支えとなっていた。
「お前にはすごく支えられた。一緒に笑って怒ってバカなことして、風呂にはいって飯をくって寝て……。もう家族じゃないか。その家族のために命くらい懸けられなくてどうす る。お前がその小さな身体一つで里の皆を守ろうとしたように、わたしも命一つで守れる ものがあるのなら守りたいと思っただけだ」
 雑渡は小さく笑った。
 幾重にも赤く線を描いた傷跡が生々しい。
 雑渡には力がある。大きな力だ。それは一国を守ることも滅ぼすこともできる力だ。けれど、雑渡の大きな力は高坂という小さな存在のために使われた。命を懸けても当然だと思っているのだ。家族という存在のために。
「無茶にも程があります」
「ごめん」
「殿のお怒りを買うなど……私は昆奈門さまがいなくなってしまったらと思ったら――」
 高坂は自分の気持ちに気が付いた。怒ってたのではない。怖かったのだ。
 雑渡がいなくなってしまったら。命を落としていたら。
 そう思うと、ただひたすら恐ろしかったのだ。
 この世から光が消えてしまうくらいに恐ろしい。
「昆奈門さまがどうにかなってしまったら、それこそ私は正体をなくしてしまいます」
「大げさな」
 バカにする雑渡を高坂はきっと睨んだ。
「大げさなものですか。私はきっと後を追います」
「滅多なことを――」
「追うのです。この身体がそれ以外の道を選ばない。あなた様のいないこの世になど生きる意味もない」
「じゃあ、生きて帰って来られてよかったよ」
 雑渡の大きな手が高坂の頭を撫でた。
 しばしその心地よさに身をゆだねてみたが、しっかり者の高坂の心はそんなことには騙されない。
「で、どうやって殿を丸め込んだのですか?」
 雑渡の頬に膏薬を貼りながら、高坂はその顔を覗き込んだ。
「丸め込んだとは人聞きの悪い」
 雑渡はたじたじの様子だった。そんな雑渡が可笑しくて高坂はちょっと笑った。
「今後、殿に迫られた時の対策として訊いておかねばなりません」
「参考にはならないと思うぞ」
「で、どうやって脅したのです?」
「さらに外聞の悪いことになっている。が、決してそんな忠義に背くようなことをしていない。わたしはちょっと提言しただけだ」
「提言、ですか。何と?」
「うん? あの者はすでにわたしの手がついておりますが、それでもお傍に召抱えられるのですかって」
 雑渡はけろりとして言った。
 高坂はひっくり返った。
「はいいい?」
「だから、お前はわたしのお稚児さんってことになってるから。そこんとこヨロシク」
「よ、よ、ヨロシクって。ええ、私が、昆奈門さまの、ち、ち、稚児」
「駄目だった? でも、そのくらいのことを言わないと納得しないからさ、ウチの殿は」
 確かに、誰かの手がついた稚児を召抱えるなど、一国の城主としては矜持が許さないだろう。その心を読んだ雑渡の謀計は見事ではあるが、しかし。
「あ、お前の父上さまにも言っといたから」
 雑渡は思い出したように言った。
 体勢を立て直そうとした高坂は、再度ひっくり返った。
「ええっ? 父上さまにも!」
「だってねえ。お前を稚児にするんだ。ご両親の許可は貰わないと」
「稚児もどきでしょう? で、父上さまは何と……?」
「愚息ですがどうぞ宜しくって」
 高坂は一つ息をついた。まったく雑渡の根回しの早さにはため息をつくしかない。
 父上さまはどんな気持ちだったろう。
 高坂の脳裏に厳格な父親が膝から崩れ、雑渡に心からの謝辞を述べる姿が浮かんだ。高坂のことを心から慈しみ育ててくれた父だった。
 その父親を説得させ、危険を承知で高坂を抗い難い運命から救ってくれたのが雑渡なのだ。
「先ほども言いましたけれど、下手をすればあなた様のお命が危なかったのですよ」
 膏薬の貼られた雑渡の頬をそっと手で撫でる。
 ひどい傷だ。
 けれど、命を失うことにくらべれば何のことはない。痕は残るかもしれないが数日も経てば癒えるだろう。
「そうだな。わたしの軽率な行動でお前にいらぬ心配をかけた。そのことは本当に済まないと思う」
「いえ、そんな。私の方こそ言い過ぎました。しかし、殿はよくお許しになりましたね」
「タソガレドキ一国を預かる殿だぞ。そんなにボケちゃいないさ。きっとわたしの真意になんて気づいておられたはずだ」
「昆奈門さまが私を助けようとしていることに……?」
「ああ。だから刀を鞭に持ち直された。おかげでこのくらいの傷で済んだ。つくづく、殿には頭が上がらないというものだ」
「そうですか……」
「心の広い、人をよく見る、本当はお優しい方なのだよ」
 雑渡は目を細めた。心に決めた人に仕えることのできる喜びが伝わってくる。
 この人を支えたい。
 再び、高坂の胸に決意がよみがえった。破れたはずの夢が一つずつ繋がっていく。
 雑渡は命を懸けて高坂を守ってくれた。だから、今度は――。


「私が命を懸けて組頭をお守りするのだと……。一生をかけてあの方をお守りするのだと決めたのだ。あの時に……」
 高坂が話し終えると、伊作は夢から醒めたような顔をしていた。
「つまらない昔話だよ。忘れてくれ」
 高坂はそう言うが決して忘れられそうになかった。
 この二人は守り、守られ、互いに支えあって今日までを生きてきたのだ。
 それは伊作にはあまりにも眩しすぎた。目に焼きついて眩しい。
 強い。
 あまりにも強い眩しさだ。
 敵わない。
 そう思ってしまうのも仕方がない。
「やっぱり、僕がお二人の間に感じた絆はそういう他人が手出しできないような、すごいものだったのですね」
「稚児といっても、偽りの稚児だぞ。にせものだ。それに家族といっても……」
「高坂さんと雑渡さんはちゃんと家族だと思います。本物の家族以上に本物の」
 血は繋がっていなくても、自分で選び取ったかけがえのない家族に違いない。
「本当に、羨ましい……」
「陣左ってば、ちゃんと最後まで話さなくちゃだめじゃん」
 伊作の肩越しに雑渡の目が現れた。
「うわああ、ざ、雑渡さん。いつの間に」
「んふふ。こう見えても忍びでね」
「組頭、無駄な忍び足はお止め下さい。善法寺くんの心の臓が動かなくなってしまいます」
 倒れた伊作に手を貸しながら高坂は言った。
「ごめんごめん」
 雑渡は首をすくめた。
「雑渡さん、伏木蔵はどうしましたか?」
 高坂に助けられながら伊作は身を起こした。
「お友だちが呼びに来てね。一緒に遊びに行ったよ。もちろん、上手く隠れていたからわたしの姿は見られてないよ、安心して」
 忘れていたが、入門表に署名して正面から入ったとはいえ雑渡は曲者という認識で通っているのである。
「そうですか。お気遣いどうも……。で、最後まで話していないってどういうことですか? まだあのお話に続きが?」
「どうして陣左が家を勘当されたかっていう話はまだだろ?」
「ああ、そういえば。でもそれは、高坂さんが雑渡さんのお稚児さんになるために家を出たからってことですよね? 高坂さんのお父様も公認なんでしょう?」
 伊作は今までの話からそう勝手に判断していた。
「いや、違うんだ、善法寺くん。正確にはそうじゃない。っていうか稚児じゃなくて、偽稚児だし」
「陣左ってば、やけに拘るねえ」
「組頭と、何より善法寺くんのために拘っているのです」
 雑渡はくすりと笑った。伊作は分からないのできょとんとした。
「とにかく」
 と高坂は話を戻した。
「私が家を勘当されたのは稚児云々ではなく、私が当時、組頭の所属していた狼隊への所属を希望したためなんだ」
「狼隊?」
 見知らぬ言葉に伊作は首を傾げた。
 雑渡はさして興味も無いという様子で伊作の髪をいじっていた。
「タソガレドキ忍者隊が四つの小隊に分かれていることを知っているか?」
「四つの小隊?」
 やはり首を傾げる伊作に、高坂は一つ一つ丁寧に説明した。
 タソガレドキ忍者隊には、火器や火薬を扱い工作を行う狼隊。戦前の工作として、長い時間をかけて情報操作を行う黒鷲隊。一番の武闘派部隊として接近戦を制する月輪隊。合戦場で陣中間の伝令や斥候を行ったり、偽の情報で敵を陥れる謀計を実行する隼隊。以上 の四つの小隊に分かれている。
 高坂の家系は代々、月輪隊の忍びを務めてきた。しかし、そのしきたりに逆らって当時、雑渡が小頭を務めていた狼隊への所属を希望したため高坂の家から破門、絶縁されたのだった。
「正確には勘当されたんじゃなくて、勘当してもらったのだけどな」
「してもらった?」
「ああ。あまりに頑として譲らない私を見かねた組頭が私の父上さまのところへ出向いて、勘当してやってくれ、とお願いしてくださったのだ」
 家のしがらみから離れれば、どの隊への所属も自由ということなのだろう。
 雑渡はどこまでも高坂の味方であったのだ。
 伊作の胸はぎゅっと締め付けられた。
「いや、懐かしいねえ」
 関心なさそうにしていた雑渡であるが耳だけはちゃんと会話に参加していたらしい。伊作の髪を指に絡めたり解いたりしながら小さく笑った。
「本当にあの頃から陣左は譲らない性格だった」
「そうですね。おかげで組頭にも迷惑を沢山お掛けしました」
「のろけかい?」
「反省しているのです」
「性格など簡単に治るものでもなかろうに」
 昔話をする二人の姿はまさに、家族以外のなにものでもなかった。
 伊作には共有できる思い出など一つもない。
「そうですね。だから、私はいまだに簡単には譲らない性格のまま。この先もずっと組頭の家族であることだけは譲ったりしないのでしょうね」
 一瞬だけ、高坂の目に過去を懐かしむような色が見えた。その目と伊作の視線が絡む。何かを託すような眼だった。
「善法寺くん。私は……君が羨ましかった」
「僕ですか?」
 飛び上がるほど驚く伊作に高坂は顎を引いた。
「森の中で組頭に背負われた君を見たときはっきりと分かったよ。もうあの方に背負われるのは私ではないのだと。組頭が君を選んだということは、つまりはそういうことなのだと……はっきり分かった」
 二度と戻ることのできない時間を惜しむように、高坂は目を潤ませた。
 その一瞬だけで、伊作は気づいてしまった。
「もしかして高坂さん、雑渡さんのことを……」
「善法寺くん」
 高坂は伊作の言葉を遮った。意地でも言わせないというただならぬ気配を感じた。その顔はすっきりとした様子だった。もうすでに、叶わなかった過去を痛む眼差しは消えていた。
「組頭の心は君に譲るよ」
 高坂は立ち上がると、尊奈門がなかなか帰って来ないので様子と見てくると言って医務室を出て行った。
 その去り際、高坂と雑渡は目だけで話しをしたように見えた。どちらの顔も晴れ渡っていた。

 つづく
20120627



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