笹舟 6
陽が傾く中を走って走って走って、そのままの勢いで庭から屋敷の中に駆け上がった。広い部屋の中央に横たわる雑渡が伊作の目に飛び込んできた。ほんの一瞬、伊作の足はすくんだ。
雑渡のそばにいた高坂が「どうだ」と伊作に訊いてきた。
いつもと変わりない冷静な高坂であったが、その顔には憔悴の色が見て取れた。ずっと雑渡にかかりきりだったのだろう。
伊作は布団の傍に陣取った。
雑渡は苦しんでいる様子はないが呼吸がかなり浅く脈も弱い。何より驚いたことに、雑渡の身体は氷のように冷えきっていた。
尊奈門から聞いた話だと、熱が上がったり下がったりということだったらしいが、どうやら今は下がる一方らしい。いずれも、昔負ったという火傷の影響だろう。体温が上手く調節できていないのだ。
どうしたらいい、と焦る尊奈門に灯りと湯と包帯を用意してもらい、傍にいた高坂には伊作の持ってきた薬湯を煎じるよう頼んだ。伊作が色々な村をまわって、そこから得た知識で作られた薬湯だ。まさか、こんなにも早く出番がやってくるとは思わなかった。
皮膚の状態を最良に保つため塗り薬も必要だったが、これも伊作が持ってきたもので十分だった。伏木蔵の手を借りて作った軟膏だ。
たくさんの思いが詰まっている薬湯と軟膏。
でも。
これらが効かなければもうどうしようもない。
「ほかに何か出来ることはあるか」
薬湯を持ってきた高坂が訊いた。
伊作は笑った。
「まずは寝てください。十分疲れが取れたら鍋と米と塩を用意して……あとは待っていてください」
高坂は黙ってうなずいた。尊奈門は首をかしげている。
「鍋と米と塩……?」
「雑渡さん……起きたとき、きっとお腹が空いてるはずですから」
尊奈門ははっとしてうなずき、戸を閉めた。
それを見届けると、伊作は雑渡に向き直った。
「雑渡さん。あなたの部下は最高の部下ですね。早く元気な顔をみせてあげましょうね」
まずは古傷の手当てをし直さなければならない。これが上手くいけば、体温も少しずつ戻ってくるはずだ。
もしも……。
もしも伊作が雑渡の傍にいたら、ここまで酷い状態にはさせなかった。
詮無いこととは思いつつ、そう思うと悔しくてたまらなかった。目から盛り上がりそうになる涙をぐっとこらえた。
雑渡の着ているものを剥ぎ取り、巻かれている包帯も全部はずした。薬を塗り包帯を巻く。これでとりあえずしのげたはずだ。
伊作は短く息をついた。力の抜けた人間というのは存外に重い。合戦場での手当てで慣れてはいるものの、伊作の息は多少なりとも上がってしまった。それでも昔に比べれば体力がついた気がする。それはもしかしたら、伊作の背が手足が、大きくなったこと関係あるのかもしれなかった。少しずつ成長していく自分が誰かの命を支える力になるのなら、こんなにも喜ばしいことはない。
しかし、喜んでばかりもいられない。
雑渡が目を開ける気配は一向にない。
伊作はかたわらに置いてある薬湯の入った土瓶に人差し指を突っ込んだ。中身が冷めたことを確認して湯のみに移す。伊作は雑渡の頭を支えながら、それを雑渡の薄く開いた口に流し込んだ。しかし、意識のない人間のことである。予想はしていたが案の定、雑渡の口の端から薬湯が流れ、胸に巻かれた包帯に薄いシミを作った。
「お願い。雑渡さん。飲んで……」
そう訴えながら何度試してみても結果は同じだった。目の前の患者に対して普段なら決してうろたえることなどないのだが、伊作はそうならずにはいられなかった。
雑渡のいのち。雑渡の身体の中に穏やかに流れる血。しなやかな肉。当たり前にあるはずだと思っていたものが弱々しくなり、やがて衰え干乾びていく様がありありと浮かんだ。伊作の目の前で静かに絶えていくその様が……。
このままでは、本当に伊作の居ないところへ行ってしまう。
縁起でもない言葉が頭をかすめそうになって、慌ててそれを打ち消した。それでも、耐え難い別れというものが胸に実感として迫ってくる。
「雑渡さんは僕を悲しませてばかりです。悪いと思っているなら早く起きてください……起きて、それで……笑ってください。何にもいらないから……お願い……」
たまらず、浅く上下する雑渡の胸に顔をうずめた。そうした時、
「……重いんだけど……」
弱々しくかすれた声が聞こえて伊作は飛び起きた。
「雑渡さん」
伊作の歓喜した呼びかけに、雑渡は眼球だけを動かした。
「……何で伊作くんがここにいるの……。あれ、ここどこ……。わたしどうしたの……」
伊作は胸が一杯になった。意識が戻ったのでひとまずは安心できる。
「ここは雑渡さんのお屋敷でしょう。雑渡さんは倒れたんですよ。尊奈門さんと高坂さんはあたなのために一所懸命がんばったんですよ。だから雑渡さんもがんばらないと」
雑渡はぼんやりと伊作を見ていた。意識が朦朧としているのか焦点が定まっていない。
「伊作くんは何で……」
「僕は、あなたに散々な思いをさせられて、恨みつらみを言うためにここまで押しかけて来たんですよ。地獄の底までだって押しかけて行きますからね。覚悟してくださいよ」
伊作が冗談めかして言うと、雑渡は小さく笑った。
「さあ、薬を飲みましょう」
伊作は湯のみを手にとった。それを見て、雑渡は目を伏せた。
「……飲ませてよ……」
「ええ。だからさっきからこうして――」
伊作は雑渡の頭を支え、湯のみを雑渡の口にあてがった。しかし、雑渡は少しだけ首を横に振った。
「……そうすると飲めないから……」
雑渡は伊作の口元をじっと見つめている。伊作は雑渡の言いたいことが分かって真っ赤になった。
「な、何言ってるんですか。もう飲めるでしょ」
「……わたし病人だよ……。病人は甘やかすもんでしょう……」
伊作は雑渡の言いなりになるのが悔しいと思いつつも折れるしかなかった。とにかく薬を飲んでもらえなくてはどうにもならない。
「ここまでさせて治らなかったら、本当に地獄の底までついて行きますからね」
「……すごい。じゃあ……ずっと一緒だ……」
「え」
伊作は、冗談とも本気ともつかない雑渡の視線に動転した。
「何を言って――」
「……君と……ずっと一緒にいられるね……」
雑渡は、伊作が聞きたかったことをさらりと言った。しかし、意識が混濁した人間の言うことだ。きっと雑渡はすぐに忘れてしまうだろう。それでも。伊作はその言葉だけでもう生きていけると思った。
伊作は薬湯を口に含んだ。雑渡の頭を支え自分の口を雑渡の乾いた唇に押し当てた。徐々に口を開き中身を移す。口の端から筋になって薬湯が零れた。雑渡の喉に手を当て、飲み下していることを確認する。唇を離すと、雑渡のとろんとした目がこちらを見ていた。
「……まずい……」
「当たり前です。薬なんですから」
「……もう一杯……」
「……もう僕は飲ませてあげませんよ」
雑渡は唇をとがらせて無言で抗議した。伊作は笑った。
「一杯でもよく効く薬ですから。あとは寝て体温が上がるのを待ちましょう」
布団の傍を離れようとした伊作の肩を雑渡が掴んだ。そのまま上衣を横へ剥がす。
「何やってるんですか」
「……わたし……寒い……」
「僕の方こそ、そんな風に脱がされたら寒いですよ」
伊作が肩まではだけた襟元を直そうとすると、雑渡に止められた。
「何です。大人しく寝てください」
「……一緒にぬくぬくしよ……」
「何言って――」
確かに、体温を上げるために人肌で温めあうというのは有効な行為ではあるが。
が、しかし。
……今それをやれ、と。
固まる伊作に構わず、雑渡はどんどん伊作を覆うものを剥いでいく。
伊作は観念した。雑渡を抱き布団を被る。
「甘やかしてあげますよ。寝て起きたら雑渡さんは忘れてるんだろうけど」
「……忘れないよ……」
「忘れてますよ」
そんなことを言い合う内に、雑渡から規則正しい呼吸が聞こえてきた。体温も元に戻ってきている。どうやら伊作の懐炉としての役割も終わったらしい。しかし、伊作はどうしてだか離れることが出来なかった。
手で体の形を確かめる。耳を当てれば脈の音がする。ただここに居てくれることがこんなにも嬉しいだなんて。
ほっとすると、伊作にも眠気が襲ってきた。外はもうすっかり朝だった。
つづく