笹舟 7


 もう心配ないと伝えると、尊奈門も高坂も安堵した表情で膝から崩れた。伊作を信じてちゃんと睡眠をとってくれたのだろう。二人の顔色は良好だった。
 雑渡が目覚めたのはその日の夕方だった。
「バカ伊作くん。せっかく遠ざけてあげたのに。人生を棒に振るのか」
 起き抜けに伊作の姿を見つけた雑渡はそんな悪態をついた。
「それだけしゃべれるのなら、大丈夫ですね」
 伊作が軽くいなすと、雑渡は半身を起こして伊作を睨んだ。
「君は春には忍術学園の医務室を預かるんだろう。何日も留守にして。わたしが君の人生の責任に取れるわけじゃないぞ」
「もとより、そんなことは期待していません」
「わたしだけが君の人生じゃないだろ」
「そうですね。でも、雑渡さんが今の僕のすべてです。雑渡さんが死にかけてるのに放っておけと? そんなこと出来るわけないですよ。それに……やっぱり大事な人と訳も分からないまま離別するなんて、そんなの僕はいやです」
「伊作くん」
「ちゃんと理由が知りたいんです。雑渡さんが僕を遠ざける理由を。あなたは僕に未練がある。そうでしょう」
「理由を知れば君は納得するのかい」
 伊作はうつむき、膝頭のあたりをつかんだ。
「はい。それがきちんとした理由であるなら、僕はもう二度とあなたに近づかない。元通り、何の関係もないタソガレドキの忍び組頭と、忍術学園の生徒に戻ります」
「…わたしは怒っているよ」
「そうでしょうね。今回の僕の行動はあまりにも軽率です。でも、分かっているんです。分かっていてもここへ来ることを止められなかったんです。覚悟は出来ているんです。怒られてもいい。なじられてもいい。ぶたれてもいい。この先一緒にいられなくてもいい。僕を喜ばせるどんな言葉もいらない。ただ雑渡さんに会いたかった。だって、会わなきゃ話も出来ないじゃないですか。僕はあなたと話がしたかったんです」
「わたしが怒っているのはわたし自身に対してだよ」
「え」
「君を傷つけると分かっていて傷つけた」
 雑渡の手が弱々しく伸ばされ、伊作の頬をなでた。雑渡の片方しかない目がこころなしか潤んでいる。そのときになって初めて、伊作は身体に疲れを覚えた。
 雑渡が生きている。
 伊作の緊張は一気に弾けた。
 伊作は頬に触れた手を取り、ただうなずいた。伊作と一緒にいられないという本当の理由が知りたいと思った。タソガレドキに来たら伊作が早死にするだとか、伊作に万が一のことが起こったときの覚悟がないだとか……雑渡が伊作に語ったことがタテマエであることには当の昔に気づいていた。
「僕を傷つけたと思っている雑渡さんが、本当は一番傷ついたんですね」
 雑渡は観念したように小さく笑った。
「君は……、本当に底抜けにやさしいね。出会ったころのままだ」
「そうですか。雑渡さんの火傷はあの頃に比べると随分よくなりましたよね」
 雑渡はうなずいた。
「伊作くんは十分知っていると思うけど、わたしの身体はぼろぼろだよ」
 雑渡は腕を広げて見せた。顔はもちろんのこと、腕も袷から見える胸も包帯で覆われている。
「こんな身体になって……。忍者としてただでさえいつ終わるか分からない人生を送っているのに、さらに火傷を負ったことで自分の残り時間が短いと悟らざるを得なくて。何も持てないと思った。何も守れないと思った。もうスッカラカンで……。だから。人を遠ざけてた。人を踏み込ませなかった。二度と人を好きにならないと決めた。誰とも添い遂げず、ただタソガレドキの行く末を見守りながらわたしは終わるのだと。そんな風に思わなければ、到底生きてはいられなかった」
 伊作は言葉に窮した。何も言えなかった。ただ喉のあたりで詰まった言葉が熱くなるのを感じていた。
 目を真っ赤にした伊作に、雑渡は感慨深そうな目を向けた。
「でも、君と出会った。あの日、確かにわたしは君と出会ったんだ。君を知ってわたしは……」
 伊作はわんわん泣きながら雑渡にしがみついた。雑渡がかわいそうで仕方がなかった。雑渡がどんな悪事を働いたというのだ。なぜ雑渡がこんなに辛い思いをしなければならない。怒りにも似た悲しみがどっと溢れた。
「ごめんなさい雑渡さん。もういいんです。もう何も言わないで」
 伊作は悲鳴のような声を上げた。
「君を好きになってよかった」
 雑渡の声はおだやかだった。それが伊作にとってせめてもの救いだった。ふわりと、雑渡の手が伊作の背にまわされた。
「君と出会って、君を好きになって……。初めて誰かをちゃんと好きになりたいと思った。父とも母とも故郷の仲間とも違う、たった一人の誰かと泣いたり笑ったり喧嘩したりしたいと思った。本当は一人でだって生きていけるけれど、でも、その人がいなくては苦しくて、到底生きてはいられないと思えるような、そんな自分になりたかった。わたしは、わたしは……。本当は寂しかった。君と一緒にどこまでも歩きたかった。だから、わたしを生かしてくれてありがとう」
 伊作は何か言いたかったけれど、言葉のかわりに涙ばかりが溢れた。
 雑渡の手がやさしく伊作の背をなでた。
「さっき、伊作くんがこうしてくれたね」
「覚えてたんですか……」
「忘れるもんか。忘れないよ、絶対に。君がわたしのためにしてくれたすべてのことを忘れない。夏に出会った時から今までずっと。忘れない。忘れたくないのに。それなのに……わたしは老い先短いんだよ。だから――」
「だから何ですか」
 伊作は顔を上げた。
「もう本当に勝手な人ですね。勝手に纏わりついて勝手にいなくなって。挙句の果てにあきらめろですって。ふざけるなって感じですよ」
 雑渡が苦笑した。
「伊作くんは病気とか怪我とかすぐに分かっちゃうだろ。お世辞抜きで本当に優秀だから。ずっと一緒にいたらわたしが長くないことなんてすぐに見抜いてしまうと思ったんだ」
「知ってましたよ」
 伊作が上目遣いに睨むと、雑渡は息を止めた。
「本当に」
 伊作はうなずいた。時々ではあったが、雑渡の身体に触れる機会は少なくなかったのだ。嫌でも分かってしまう。
 伊作がタソガレドキに来たとしても二人の未来は短い。雑渡は自分の命数がそれほど長くはないことを知っていた。そのことで伊作が悲しまないように遠ざけたのだ。
「あなたの傍にいてあなたがどうにかなってしまったら、僕が泣くと思いましたか」
「泣かないの」
「泣きますよ。そうじゃなくても、もうずっとあなたのことを考えて泣いてました」
「ごめん」
 伊作は首を横に振った。
「明日がどんな日になるのか分からなくても……それでも僕はあなたと生きてみたかった。あなたに突き放された後も、あなたのことが気がかりでしょうがなかった。生きてさえいればもう一度出逢えると、話しができるとずっと信じていました」
「そうなんだ」
 雑渡が驚いたようにして笑った。伊作の目の端に残る涙の筋を雑渡の手がそっとぬぐった。
「僕が二十歳になったとき、あなたは四十一歳ですね」
「そうだね」
「僕が三十歳になったとき、あなたは五十一歳です」
「そうなるのか……」
 雑渡は途方もないことでも考えるように宙を見つめた。
「怖いですか」
「……分からない」
「僕はね、楽しみなんです」
 伊作は目を細めた。
「どんな二人になっているか想像するだけでワクワクします」
「それは君が若い証拠だよ。わたし、君が立派になるころにはあの世にいるかもよ」
「またそんなこと言って。憎まれっ子世に何とかって言うじゃないですか。心配しなくても雑渡さんは長生きしますって」
「……伊作くんって、時々ひどいよね」
「そんなひどい僕を、あなたはまた突き放しますか」
「え」
「僕の幸いを願って、またあなたは一人になるのですか」
「……本当に、わたしはどうしたらよかったんだ。何が正しい? どうしたら……」
 雑渡は心細げに伊作を見つめた。
 伊作は真っ直ぐに雑渡の目を見た。そして、言った。
「僕は……たとえここであなたに突き放されても、心ではずっとあなたを想います。誰と出会っても家族が出来てもどんな仕事をしても死ぬまでずっと……ずっとあなたを想います。何度生まれ変わっても必ずあなたを見つけます。そうして何度でもあなたと出逢って何度でもあなたを想いたい」
 雑渡がそっと伊作の手を握った。
「ありがとう。そんなうれしいことを言ってもらったのは生まれて初めてだ。わたしはまだ君のことを好きでいてもいいのかな」
「当たり前ですよ。さっき僕が一世一代の告白をしたばかりじゃないですか」
 雑渡は目一杯の笑みを浮かべた。
「うん。確かに」
 そのとき、二人の腹が同時に鳴った。ろくに物を食べていなかったのだ。二人で顔を見合わせて笑った。
「今のわたしがこんなことを言える立場じゃないけれど、伊作くん。君、この先どうするんだい」
 伊作はちょっと情けない顔になった。
「そうですねえ、とりあえずは学園を抜け出したことを怒られなくてはいけませんね」
「そうじゃなくて」
 雑渡は笑いを引っ込め、かなり真剣になって言った。
「将来のことさ。医務室で手伝いをしながら忍者になるために頑張るのかい? どこか他の城へ就職する手立てを探すのかい?」
 雑渡と一緒にいられないと分かっていた伊作は、城の試験を受けることで頭が一杯だった。けれど、よくよく考えてみれば伊作自身は特に城就きの忍者になりたいわけではなかったように思われる。忍びの仕事ができればどこで何をしていてもよかった。けれど、本当のところ、伊作には雑渡と一緒に居られない自分の将来など想像できずにいた。
「君は本当はどうなりたいの?」
 伊作、言葉に詰まった。
 本当は。
 本当は……。
 伊作は、雑渡と一緒に居たかった。家族とも仲間とも友人とも、また恋人とも違う立場になるのだろうが、それでも雑渡の一番近くに居たいと、そう思っていた。それだけでいいのだ。どんな贅沢もいらない。しかし、それは無理な相談だった。伊作が他の城の忍者となれば敵同士となるため、お互いに会うことすら困難になる。下手をすればそれは裏切りとも取られかねない。
 雑渡と一緒に居たい。そんな小さな望みも許されないのが今の伊作の立場だ。そのことは雑渡もよくよく分かっているはずだ。だからこそ、二人は親密な関係に区切りをつけざるを得なかったのだから。伊作には到底、本当のことなんて言えなかった。
「僕はやっぱり忍者になりたいです。なりたくて六年間も勉強してきたんですから」
「そう」
「大きな城でなくても、ううん。小さな城でも、城就き忍者でなくてもいいんです。何でもいい。ほら、前にも言ったでしょう。薬草を採取したり薬を作ったり、医療に尽くす傍ら忍者の仕事をしてもいいなと思ってます」
 伊作は本心を語らなかった。けれど、医療に携わっていくことも伊作にとっては譲れないことだった。
「じゃあ、タソガレドキの山奥に使っていない家がいくつかあるから、そこに住んじゃいなよ。それで君に忍者と医者の両方の仕事をお願いしちゃおうかな」
 雑渡が夢みたいなことを口にした。それでもどうしてか、今の伊作にはそれが手の届かないほど遠い夢だとは感じられなかった。
「それが本当になったら嬉しいです。でも、あなたは僕をタソガレドキに引き込むつもりはないのでしょう。ああ、でも、そうなったら、僕のやりたいことがいっぺんに出来ますね」
「そうだね」
「僕、もっと勉強しますね。いつか将来雑渡さんに出会ったとき恥ずかしくない生き方をしていたいですから。そのためには、ちゃんと学園を卒業しなくちゃ。だから、帰りますね」
 立ち上がった伊作の手を雑渡が引いた。
「わたしは君からたくさんのものをもらった。夢ももらった。やさしさももらった。だから、わたしもそれに見合うことをするから。それだけはちゃんと本当だから」
 伊作の手の甲に雑渡のくちびるが寄せられた。
「縁があったらまた会おう」
 部屋を後にした伊作を尊奈門が途中まで送ってくれた。伊作は雑渡が育ってきたタソガレドキの風景を目に焼き付けていた。雑渡の屋敷もある隠れ里は緑も水も人も豊かだった。城郭は立派でその周辺には市がたくさん立っていた。
 ふいに、伊作の中に湧き上がるものがあった。自分の意思でここまで来た。雑渡に会って話して、自分の道がはっきりと見えた気がした。
「夢みたいに幸せになれる場所、か……」
「何か言ったかい?」
 尊奈門が首を傾げた。伊作は笑った。
 別れ際、尊奈門の肩越しに見えた薄暗い落ちかけの夕日がとても美しいと思った。伊作の手の甲はいつまでも痺れていた。



 つづく

←6 top 8→