笹舟 9


「伊作せんぱいの不運がうつりましたね。スリルです」
 伏木蔵ににべもなく言われ、雑渡はうな垂れた。もう体の具合はすっかりいい。
「うそでしょ。伏木蔵。伊作くんが出て行ったなんて」
 暖かい日なたを求めて、伏木蔵は医務室の縁側に座った。雑渡から貰ったみやげの水あめをほお張る。
「ほんとですよ。昨日、卒業の儀が終わってすぐに行っちゃいました」
「どこに」
「言うと思ってるんですか。コドモだからって忍たまですよ。ナメてもらっちゃ困ります」
 雑渡はぐっと言葉に詰まった。
「そこを何とか」
「駄目です。言っちゃいけない決まりなんです」
 雑渡は伊作を迎えに来たのだ。いくさの後処理に負われ、自分の伊作に対する決心も固まり、尊奈門に「大切な用事があるから今日は絶対外出禁止っ!」と言われたのも無視し、いざ、と思い迎えに来たらこのざまだ。本当に伊作の不運がうつったのかもしれない。  雑渡は情けない顔になった。
「だって、伊作くんは春から医務室助勤だって聞いてたから。てっきり忍術学園に残るものだと……。いつの間に就職決まったの」
「こなもんさんが伊作せんぱいを放っておいた間に、じゃないですか」
「……ふ、伏木蔵。もしかして怒ってる?」
 伏木蔵は水あめのついた棒を雑渡に向かって指した。
「もしかしなくても、怒ってます」
「スリルだね……」
「スリルでしょ」
 伏木蔵は肩をすくめて笑った。
 雑渡はため息を漏らした。伏木蔵が怒るのも無理はない。自分でも自分の身勝手さに虫唾が走るのだ。
 それでも。
 都合のいいヤツだと罵られても伊作を迎えに行きたかった。散々に思い知ったのだ。自分にとって伊作という存在がどれほど大きいのか。
 しかし、伊作が雑渡のいない世界を選んだというのなら、それはそれで仕方ない気がする。最初に伊作を突き放したのは雑渡なのだ。伊作の歩む道を邪魔する理由はない。ふいに、また一人になったのだと思った。いや、違う。伊作のいない世界に一人残されてしまったのだ。
 雑渡のいない世界で夢を叶えるのだろうか。
 雑渡のいない世界で大人になっていくのだろうか。
 新しい仲間と……きっといつかは新しい家族も出来る。
 そんな伊作を自分はどんな顔をして見つめるのだろう。
 もう、考えただけで気が滅入る。
 あきらめなくてはいけないのだ。なんとも滑稽ではないか。雑渡は伊作に自分のことはあきらめろと言った。そうしたら今度は、雑渡が伊作をあきらめなくてはならなくなった。
 言葉は自分に返ってくる。
 罰が当たったのだと思った。
「わたしはバカだ。本当は伊作くんに合わせる面なんかないのに、伊作くんがやさしいからのこのこ迎えに来てしまった……」
 伏木蔵は目の端だけで笑った。
「こなもんさん、相当落ち込んでますね」
「そりゃ落ち込むよ。立ち直れるかなあ……」
 風が吹き、どこからか甘い匂いがただよってきた。遅咲きの梅だろうか。雑渡は深く息を吸い込んだ。胸の中が甘い匂いで一杯になる。
 春はすぐそこなのになあ……。わたしの春は永遠に来ないのかなあ……。
「伊作せんぱいは泣いてましたよ」
 伏木蔵は雑渡を見ないで続けた。
「こなもんさんの身体を想って。自分とこなもんさんとの将来を思って。体調を崩すぎりぎりのところまで自分を追い詰めて、こなもんさんのために薬を作ってました」
「うん。そのおかげで、今わたしはここにいる……」
 雑渡は自分の手を握った。ほのかに温かい。伊作が必死に守ってくれた温もりだ。この身体は伊作から分け与えられたあらゆるもので動いている。
「伊作せんぱいの気持ちに応える覚悟がありますか」
 伏木蔵は子どもとは思えないような鋭い視線を雑渡に向けた。どれだけ伏木蔵が本気なのかが伝わってくる。
 雑渡は居住まいを正した。
「わたしは伊作くんがいないと生きてはいけない」
「子どもに何てことを言うんですか。恥ずかしいですね」
「――あのね。君が言わせたんだろ。いい性格してるよ」
 伏木蔵が小さく笑った。棒についた水あめはすっかり舐めてしまったらしい。
「伊作せんぱいは幸せの国に行きました」
 突然そんな抽象的なことを言われ、雑渡は目を丸くした。
「何?」
「伊作せんぱいの行き先を直接教えてはあげられないから、暗示しているんです。こなもんさんになら分かるでしょ。夢みたいに幸せになれる場所」
 ……夢みたいに幸せになれる場所。
 確かに、その言葉には覚えがある。しかしそれは雑渡の口から言った言葉であり、雑渡の理想とする場所であり……。考えるとますます分からなくなる。雑渡は首をひねった。
 伊作にとっての夢みたいに幸せになれる場所はどこなのだろう。伊作の理想が……夢が叶う場所……。伊作は忍者になりたいと言っていた。医者にもなりたいと言っていた。そうだ。それでタソガレドキの山奥に使っていない家がいくつかあるからそこを――。
 雑渡は息を呑んだ。まさか、という思いがあった。動悸が激しくなる。
「……伊作くんはそこへ行くと言ったのか? タソガレドキに……」
 伏木蔵はもったいぶるようにして笑った。
「せんぱいがどこに行ったのかは教えてあげられません。でも、そこは黄昏時に見る夕日がとびきり美しい場所なんだそうですよ」
 それだけ情報をもらって分からないほど鈍感じゃない。
「ありがとう。ありがとう、伏木蔵。どうしてわたしに教えてくれたの」
「こなもんさんは、悪い人じゃありませんから」
「それだけで」
「こなもんさんは、ちゃんと伊作せんぱいのことを忘れずに迎えに来てくれましたから。もうそれだけで、僕もみんなもこなもんさんの味方ですから」
「伏木蔵……」
「さしずめ……」
 伏木蔵は企みのある顔で妖しく笑い、水あめのついていた棒を雑渡の鼻先へ突きつけた。
「次の賄賂も期待してます」
「……さすが伊作くんの後輩。勝てる気がしない」
 伏木蔵に追い立てられるようにして、雑渡は学園を後にした。


 胸が高鳴る。
 まさか。まさか。まさか。
 隠れ里を抜け、山に入る。そこは今は使われていない簡素な造りの家が点々としている場所だ。そのうちの一軒で人が動いているのが見えた。
 桶の水で雑巾を絞った少年が外柱を丁寧に磨いている。桜色の小袖を襷掛けにし、小豆色の袴も捲り上げている。日焼けしたふわふわのくせ毛が揺れている。それを見つけたとき雑渡は胸が塞がった。まぎれもない、伊作だった。
「伊作くん……」
 雑渡は力が抜けて、その場にへたり込んだ。
「あ、もう、組頭ってば。よーやく帰ってきましたね」
 板を抱えた尊奈門が雑渡を目ざとく見つけて言った。
「どこでさぼってたんですか。早く家の修繕を手伝ってください」
「家って、誰の」
 思わず訊いた雑渡に、尊奈門は目を丸くした。
「誰のって、あれ。組頭知らなかったんですか」
「知らない。聞いてない」
「遅れてますね」
 じろりと睨むと、尊奈門はちょっと肩をすくめた。
「善法寺くんに頼まれて組頭には内緒にしてたんですよ。みんなで驚かせようって。それでいざ組頭に報告に行ったら、どこかに行ってしまってるんですもの」
 どうやら、尊奈門が言った「大切な用事があるから今日は外出禁止!」は伊作のことだったらしい。
「忍術学園に行ってたの。伊作くんを迎えに……」
 語尾を濁らせた雑渡に尊奈門は破顔した。
「入れ違いでしたね。気が合うんだか合わないんだか」
「まったく」
 気の抜けたような雑渡に、尊奈門は少し真面目になった。
「よく見てください。あれが善法寺くんの組頭に対する応えです」
「尊奈門。無駄口たたいている暇があったら手を動かせ。あの家が雨漏りしたらお前の責任だぞ」
 石のたくさん入った網を両腕に持った高坂が尊奈門に激を飛ばした。
「高坂さんこそっ! 庭石なんでどれでもいいですから早くこっちを手伝って下さい」
「庭石をなめるな」
「だから、なめてませんって! 優先順位って言葉知ってます?」
 わやわや言い争いながら二人は家の方に向かって歩いて行った。
 その時、伊作が雑渡に気づいた。雑巾を振り回して笑っている。
 雑渡はゆっくりと立ち上がり、一歩一歩、確かめるようにして伊作に近づいた。その度に、目がじわじわと熱くなる。
 二度と人を好きにならないと決めた。一人で生きていくと決めていた。ずっと幸せになりたいと思っていた。あの日、伊作と出会った。伊作を忘れられなかった。ただ、伊作を幸せにしたいと思った。どうすれば、どこへ行けばそんな夢が叶うのか見当もつかなかった。
 けれど。
 雑渡と伊作が笹舟に乗ってたどり着いた場所は、なんの変哲もないタソガレドキの山奥の一軒家だった。
 それが正解なのか不正解なのか。正しいのかそうじゃないのか分からなかった。だからこそ、それを確かめるために十年後の伊作、二十年後の伊作と共に歩いていきたいと思う。
 伊作が飛び切りの笑顔で駆け寄ってくる。雑渡の視界が涙で滲んだ。


 終わり

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