笹舟 8


 伊作を送り終えた尊奈門は雑渡の屋敷に帰ってきた。雑渡の食事の支度をしなくてはならない。雑渡が回復の兆しを見せたのはこの上なく喜ばしいのだが、なぜか尊奈門の足取りは重かった。
 土間に入るとすでに高坂が鍋の番をしていた。
「ちゃんと送ってきたか」
「はい」
「まさかとは思うが、いじわるしてないだろうな」
「しませんよ。バカバカしい」
 憤慨しながら尊奈門は鍋を覗き込んだ。片栗のように白い液体が見える。
「重湯だ」
 奇怪なものでも見るようにしていた尊奈門に鍋をかき混ぜるように指示すると、高坂は土間の隅で腰をかがめた。高坂が仲間と家族の次くらいに大切にしているともっぱらの噂の漬け物樽がそこにはある。
 高坂が樽に手を突っ込んだ。立派な大根漬けが顔を出す。
 そんな光景をなんとはなしに見ていると、
「何だ。辛気臭い顔して」
 高坂に笑われてしまった。
「これでよかったのかな、と思いまして」
「よかった、とは」
 高坂は大根漬けを見たこともないくらいに細かく刻んで鍋に散らした。つくづく器用な人なのだ。
「組頭の心情なんて知らずに私は善法寺伊作を頼り、また二人を近づけてしまいました」
「確かに」
「確かにって――」
 続きを言おうとした尊奈門の口に、高坂は大根漬けを放り込んだ。
「どうだ。美味いだろ。塩の配分を変えたし、何より漬け物石が上等だからな」
「もぐもぐ。そんなことは、もぐもぐ。どうでもいいですって、もぐもぐ。わたしが言いたいのは、もぐもぐ――」
「食いながらしゃべるな」
 にべもなくそう言われ、仕方なく尊奈門は黙ってもぐもぐした。それを見て、高坂は愉快そうに笑った。
「組頭は自分の身体のことを負い目に感じている。それは今も、そしてこれからも変わらないだろう。だから最善の方法を探して自分が傷ついたり相手を傷つけたりした。そんな二の足を踏んでいた二人の背中を蹴り飛ばして近づけたんだから、私たちは多分マシなことをしたんだよ」
「……そうでしょうか」
 雑渡は自分のことを伊作の重荷だと嘆いていた。今なおそう思っているのならどんな明日も辛く苦しいだけだ。
 俯いた尊奈門の肩を高坂が叩いた。
「いいか。尊奈門。きっと必要な重さっていうのもあるはずなんだ」
「はあ」
 何の講義が始まったのかと、尊奈門は首をねじまげた。
「私は身軽な方が好きですけど。速く走れるし、高く飛べるし」
 高坂は笑った。
「そりゃ私だって身軽な方がいいと思うさ。でもそれは忍務のときだけで十分だろ。私が言いたいのは……たとえば、これだ」
 高坂は漬け物樽の上の石を指差した。先ごろ高坂が、誰に見せても恥ずかしくないくらいに立派だ、と褒めたてていた漬け物石だ。でも、一体誰に見せるというのだろうか。
「この漬け物石は漬け物を作るために必要不可欠な重りだ」
「必要な……」
「これがないとまず漬け物そのものが出来ない。それに大きすぎても小さすぎてもだめだ。組頭は自分のことを重荷だと言っていたがそれは違うと思う。きっと組頭と善法寺くんはお互いにお互いを支える重りになるはずだ」
「そうそう。簡単に転覆しないようにね」
 雑渡が居間からひょいと顔を覗かせた。
「寝てなくちゃ駄目ですよ」
 慌てる尊奈門に対して、高坂は冷静だった。
「転覆……ですか。たしかに舟には重りが必要ですね。舟に乗る予定でも?」
 そう訊いた高坂に、雑渡はただただ笑うだけだった。


 善法寺伊作が再びタソガレドキを訪れたのは、それから数日後のことだった。
 掃除をしない雑渡にかわって屋敷を掃除していた尊奈門が伊作の姿を見つけたのだ。
「組頭はいくさの後処理で留守にしているんだ」
 そう告げると伊作は、
「実は尊奈門さんたちにお願いがあって来ました」
 と言う。
 伊作のそのお願いを尊奈門は快諾した。伊作はとびきりの笑顔を見せた。
 やわらかい風が吹き、尊奈門の袖を膨らませた。もう春が近いのだと思った。


 桜のつぼみが色づき、医務室の庭に来る小鳥も徐々に増えてきた。
「卒業の儀ってやつも、随分とあっけないもんだったな」
 医務室の縁側で胡坐をかきながら留三郎がぼやいた。
 伊作はほんの少し、肩をすくめてみせた。
「簡単に済んでよかったじゃない」
 今日は伊作たちの卒業の日だった。六年間を過ごした学びやの余韻に浸っていたいところではあるが、そうもいかない。ここを出て行くための荷造り、後輩たちへの最後の別れや引継ぎなどでしばらくは学園に留まり、忙しい日が続くのだ。
「しっかしお前もさ、人が良すぎるぜ」
 留三郎は伊作に嫌味を飛ばした。冬の初めに留三郎は就職を決めている。
「人が悪いよりいいじゃないか」
 伊作のきり返しに、留三郎は盛大なため息をついた。留三郎は伊作が決めた道に肝が煮えて仕方が無いのだ。雑渡と別れてからひと月近くが経過していた。
「あの人のせいでお前は振り回されっぱなしだ」
「そんな言い方しないの」
「お前、自分がバカだったとは思わないのか」
「留三郎は僕がバカだと思うのかい」
「思えないから悔しいんだよ」
 伊作は笑った。留三郎が親友で本当によかったと思ったのだ。
「先生方にも言ったけど、くれぐれも雑渡さんを責めないでよ。僕が自分で決めたことなんだから」
 学園を無断で抜け出し、しかもあろうことかタソガレドキから帰って来たという伊作を誰も責める者はいなかった。そればかりか、医務室助勤のお役目を返上したいと言い出した伊作には、最早誰も驚かなかった。まるでそうなることを予想していたかのような節があった。
「本当に行くんだな」
 不安げに訊いた留三郎に、伊作はうなずいた。
「自分で歩けるって分かったから。だから躊躇ったりしないよ。夢を自分で掴みに行く」
「そうか」
「留三郎も、お城でこき使われても根を上げるなよ」
 留三郎をはじめ、他の六年生も早々に就職を決めている。
「伊作も、しっかりやれよ」
 留三郎が伊作の肩を叩いた。
「うん。君に負けないように頑張るよ。忍術はまずいけど、医術の方なら勉強の余地があるからさ」
「どんな病気も怪我も治せる薬、か?」
 留三郎が静かに笑った。
 伊作は途端に恥ずかしくなった。
「もう。その話は忘れてよ」
「忘れない」
 留三郎は真っ直ぐに伊作の目を見た。色の濃い、澄んだ眼だった。
「伊作がやろうとしたことだから、きっと忘れられないと思う。伊作が目標に向かって一所懸命頑張っているんだと思えるから俺も同じように頑張れる。何があっても自分を見失わずにいられる」
「……留」
「お前も、お前の夢を忘れるなんて言うなよ」
 伊作はちょっとだけはにかんだ。
「うん。大事にしまっとく」
 留三郎の目がやさしい色になる。
「どんなときだって求められるのは人だ。本当に必要なのは薬じゃない。お前なんだよ、伊作。これから巡りあう多くの人たちにとって必要なのはお前の存在だ。人が人を繋いだり救ったりするんだ」
 伊作はうなずいた。
「そうだね。ああ。早く新野先生に追いつきたいよ」
「追いついてると思うよ。だって、伊作が雑渡さんを救ったんだから、さ」
 留三郎は伊作から視線をはずし、空を仰いだ。つられて伊作も視線を上へ向けた。霞んだような空に泡みたいな雲が浮かんでいる。
「雑渡さんは、どうしてるかな」
 留三郎がぽつりとこぼした。
「きっと、すっかり回復してると思うよ。仕事をサボって部下に怒られてるんじゃないのかな」
「ちがいないな」
 留三郎が去った後、伊作は一人、庭を見つめていた。春先の庭に目ぼしい植物は見当たらず閑散としている。
 おそらく、ここを卒業してしまえば留三郎と会う機会もあまりないのだろう。他の仲間ともそうだ。皆それぞれに新しい場所で新しい仲間と生きていく。卒業とはそういうことなのだ。留三郎は留三郎の、伊作は伊作の生き方をしなくてはならない。縁があれば、それぞれの生き方が重なる瞬間も来るのだろう。
 伊作は洟をすすり上げた。ふいに別れという言葉が身に沁みた。仲間と過ごしたかけがえのない日々が、鮮明な色と匂いで身体の中を突き上がる。けれど、身を引き裂かれるような悲しみはなかった。いろいろなことを思い出す度に背中をばしっと叩かれた気がした。鼓舞されているような気がした。前を向いて歩いていけるように……。やりたいことに向かって迷わず進むことができるように……。
 君は本当はどうなりなたいの、という雑渡の言葉が頭に浮かんだ。
 本当はね……。
 今ならはっきりと応えられる自分がいた。


 つづく

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