呼ばふ 2


 木々の隙間から、桃色に染まったさざなみのような鰯雲が見える。
 雑渡は少なからず驚いた。いつの間にか日が傾いていたのだ。
 雑渡が立ち尽くしている森は、昼間と同じそれとは思えないほど寂しい色に包まれていた。吹く風もどことなく冷たく、煽られた木や草が乾いた音をたてては黒々と揺れていた 。
 当たり前のことだが、伊作の姿はもうない。
 随分前にここで別れたのだ。唐突だった。色々なことが唐突だった。
 伊作は雑渡のはぐらかすような軽口を、軽口にさせなかった。
 今まで散々付き合ってきて、こんなことは初めてだった。
 頼られて甘えられて、時々叱られて。しかし、そのどんな時でも、伊作は笑顔だった。
 伊作は笑うと十五という年齢よりも少し幼く見えた。日に焼けたふわふわの髪、よく動く表情、大きな身振り手振り、それに見事なまでの不運っぷり。争いごとが嫌いで、世話好きで、医術に長け、そして誰にでもやさしい。もちろん曲者である雑渡にもだ。
 こんなにも分け隔てなく自分を開くことの出来る人間を、雑渡は知らなかった。
普通は見た目で人を警戒し、遠ざけ、選りすぐって差をつける。そういう意味で、人間ほど同属を殺す生き物はいない。
 でも伊作は違った。ずば抜けて規格外だった。
 伊作は人の本質を見抜き、その人の一番欲しがっている言葉をすぐに見つけてしまう。苦しむ人と同じように苦しみ、喜ぶ人と同じように喜ぶ。決して人を必要以上に傷つけず、どの人にも大きくてやさしいこころで接しようとする。
 傍にいると安心できて、こころから信頼できた。いつもギスギス緊張していた雑渡の神経も、伊作の近くにいるときは、だらしないほどに緩んだ。思い切り息を吸い、思い切り笑えた。強張っていた手足がぐっと伸びていく感じが心地よかった。
 伊作は今までに雑渡が築いてきた人間観に一片も当てはまらない人間だった。
 雑渡は伊作のすべてが好ましかった。
 だから、雑渡が伊作に言った言葉に嘘はない。目が離せないと言ったことも本当だ。それは伊作が心配だからということもあるけれど、やはり伊作のことが好きだからだという理由に尽きる。
 目を離したくない。
 一番近くで見ていたい。
 ところが、だ。
 その言葉に対する伊作の受け答えが雑渡の予想と違っていた。
 伊作は「目を離さなくてもいい」と言ったのだ。
 一瞬、何を言われたのか分からず、頭の中が真っ白になった。
 あんなにも熱っぽい言葉が返ってくるとは思わなかった。
 そのときのことを思い出すと、年甲斐も無く胸のあたりが熱くなる。
 普段の伊作とはまったく違う声だった。甘えるのでもねだるのでもない。消えそうにか細く、けれど静かに熱くたぎるような声音。よく熟れた果実を咥えさせられたような感覚 だった。
 欲心を抱いた。むさぼるように抱きしめたいと思った。
その細い腕や薄い胸を壊れんばかりに羽交い絞めにしたら、彼はどんな声を上げるだろうか。
 けれども、雑渡の中に存在したなけなしの理性がそうはさせなかった。
 伊作の声は、そんな雑渡の情欲のためにあるのではない。
 雑渡と居るとき、伊作から生まれる声は雑渡を呼ぶためにあるのだ。
 それだけでいい。
 伊作がタソガレドキ城の忍び組頭という肩書きを持つ雑渡に対して親しくしてくれるのは、つまるところ、雑渡を信頼しているからなのだ。その信頼を裏切るわけにはいかない。
 だから雑渡は戸惑うしかなかったのだ。
 好きな気持ちと、好きを超えてはいけない気持ちが雑渡の中で激しくぶつかり合う。
 それでも、雑渡にとって伊作はこころを打ち解けあえるかけがえのない大切な存在だった。大切だからこそ、一線引いてしまう。それは距離を作るということに他ならない。
 伊作は傷ついたかもしれない。
 黙って去っていく伊作の背中を見ていたら、雑渡は突き飛ばされたような心持ちになった。
 伊作があまりにも可哀そうだった。
 雑渡の自分本位な行為がもたらした結果とはいえ、どうすればいいのか今は分からなかった。
 分からないけれど、いつまでもここでこうしているわけにはいかない。もう間もなく辺りは夜の闇に包まれるだろう。
 山を下りながら、雑渡は後ろ首を掻いた。どうも居心地が悪い。後をつけられているとはっきり分かったからだ。一気に現実に引き戻される。
 伊作と一線引かねばならない理由はここにもあった。伊作と過ごす時間は夢みたいで忘れそうになるのだが、雑渡は伊作よりも遥かに厳しい世界に身を置いているのだ。
 狙って狙われて、怨んで怨まれて。奪って奪われて。穏やかじゃない言葉が並ぶ一生を送る。
 もし、伊作を巻き込みでもしたらどうする。
 どうにも出来ないと分かっているから怖い。
 伊作を自分に近づけるのが、怖いのだ。
身体もこころも、安心できる距離で見守りたい。
 ふいに、夜気が襟首から入ってくる。寒いな、と思った。伊作に名前を呼んで欲しくて堪らなくなる。
 追っ手を振り切るようにして、雑渡は木々の間を駆け下りた。


 つづく 
20101023


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