呼ばふ 3


 伊作は、本日何度目になるか分からないため息をついた。
 医務室の奥で薬草を並べていた伏木蔵がそれを聞きとがめる。
「ため息厳禁ですよ」
「……不可抗力だよ」
 伊作は力なく言った。傾きかけた陽は褪せたように頼りなく赤い。
「どうしちゃったんですか、伊作せんぱい。死んだ魚みたいな目をして」
 生臭いのはご免だ。
「悲壮な顔と言ってくれ」
「じゃあ……そんな悲壮な顔且つ、死んだ魚みたいな目をしてどうしたんですか」
「おいおい」
「それに、あのあとすぐに帰るとか言い出しちゃうし……僕の居ないところで雑渡さんと喧嘩でもしたんですか」
 伏木蔵の正鵠を射る鋭さに、伊作の心臓は跳ね上がった。と同時にずしりと沈む。
 伏木蔵の言う「あのあと」の「あの」とは、今日の薬草摘みのことである。その薬草摘みに出向いた森で、伊作は雑渡と気まずい雰囲気になってしまったのだ。居たたまれなくなった伊作は、その後すぐに雑渡と別れた。
 一言もまともに口もきけないまま伏木蔵の手を取り、逃げるようにしてその場から去った。
 帰り道、気が動転して何度も足がもつれた。
 気持ちを求めた伊作に対して、雑渡が伊作に寄越した表情が頭から離れない。
 困らせるつもりも、不快にさせるつもりも、好きな気持ちを伝えるつもりもなかったのに。
「べつに喧嘩じゃないけど……」
 けど、何だ。
 自問すれば、身体の奥底から湧き上がってくるものがある。
 伊作には、けど、の後に続く言葉が何なのか分かっていた。
 確かに雑渡と言い争ったわけではない。むしろ、何も言い合わなかった。無言でお互いに距離を作ってしまった。
 否。違う。お互いに、じゃない。
 伊作が一方的に、雑渡との関係を崩したのだ。たった一言で崩壊させてしまった。
 好きだと直接的な言葉を告げたわけではない。けれど、雑渡の気持ちを向けさせるような、求めるような一言を発してしまったのだ。あまりにも性急で乱暴だった。 そう思う。
 考えてもどうにもならないことだと分かっていても、何度も考えてしまう。
 答えは出ない。
「早く仲直りした方がいいですよ。時間が経つと諦めがついちゃいますから」
「諦めか……。その方がいっそ楽かもね」
「楽をしてはいけません」
 伏木蔵にぴしゃりと言われ、伊作は首をすくめた。
 確かに、諦めた方が得策なときもある。見切りをつけるという判断も必要だ。
 けれど。
 伊作は雑渡を諦めることなど出来ないと思った。
 雑渡は色々な声音で伊作を呼ぶ。
 明るく、時に暗く。
 やさしく、時に厳しく。
 甘くとろけそうな声で呼ばれることもあった。
 伊作はそのすべてが嬉しかった。
 名前を呼ばれるたびに雑渡の中に自分が居るのだと感じた。そしてこの世に確かに自分が存在しているのだと実感が持てたのだ。どこか曖昧な存在だった伊作でも、雑渡に名前を呼ばれることではっきりとした輪郭を手に入れることが出来た。
 名前を呼ばれるたびに身体の形や感覚が明確になって、そしてついに自分の感情まで分かってしまった。
 雑渡に対する特別な気持ちだ。
 他の例えば、同室の留三郎や後輩の伏木蔵に対して抱く好きな気持ちとはまったく別の好意だ。なんて言えばいいんだろうか。名前を呼ばれるだけで嬉しくて、一緒にいると胸が熱くなって、うまくしゃべれなくなる。ちょっとだけ目が潤んで、ときどき頭がぼうっとする。触れたいと思うのに指先は震えるだけで空虚を彷徨う。
 伊作の中にある気持ち全部をぶつけてやりたいような、そういう好き、なのだ。
 だからこそ、雑渡からもそういう類いの好きを与えられたらいいな、と思っていたのだ。自分とまったく同じ気持ちを相手にも求めるなんてそんなのは乱暴だと分かってはいるけれど、いかんせん、色恋は人を盲目にさせる。
 伊作も自分のことばかりで、雑渡の気持ちなど考えていなかったのだ。読み違いも勘違いもいいところだった。伊作一人が舞い上がっていた。そう認めざるを得ない。
「うじうじ君な伊作せんぱいに、いいこと教えてあげます」
 伏木蔵は得意げだ。
「うじうじは余計だよ。で、何だい」
「仲直りの秘訣は、ごめんねって言うことです。そうしたら言われた相手も、うんいーよって許してくれますから」
 なんという驚くべき単純な回路。幼児じゃないんだから。
 そんなことで簡単にわだかまりが解消したら、世の中は太平一色で仲良しこよしだよ。 「参考までにこころの内に留めとくよ」
 伏木蔵の素晴らしい提案に苦笑いしつつも、伊作はその単純さが大人の世界でも通用したらどんなにいいかと思わずにはいられなかった。
 謝って許されて、元に戻る。
 でもそれは、伊作と雑渡の間には、おそらく成立しない類いのものだ。
 気持ちに、情に形はない。
 けれど、だからと言って久遠という言葉が当てはまるかといえば決してそうじゃない。
 よく、形のあるものはいつか壊れると言うけれど、形のないものだっていつかは壊れることもあるのだ。むしろ形のないものの方が、繊細でか弱く移ろいやすい故に壊れ易い。  そして、一度壊れてしまったものが元に戻ることは難しい。
 とても、難しい。
 その壊れた何かが複雑であればあるほど、壊れた瞬間に霧散し跡形もなく消えてしまうのだろう。
 残るのは残像と未練だけだ。
 いつまでも往生際悪く、陽炎を追い続けているようなものだ。
 それは、とても滑稽で哀れなことだ。
 伊作は、雑渡のことを引きずっているのだ。
 出来ることならもう一度、雑渡に名前を呼んで欲しい。
 無残に砕け散った思い出の断片。
 それを這いつくばってかき集めることでしか不安を拭うことができなかった。自分の名を呼ぶ甘い響きを耳の奥に何度も甦らせる。
 思い出の中に閉じ籠もった伊作は幸せで、でもどこか寂しかった。
 だからこそ、伝えるべき言葉を伝えたいと思った。
 喧嘩ではないけれど、伊作から謝るのが筋だろう。
 もう、顔も合わせたくないと言われても嫌われてしまったとしても、ちゃんと謝りたい。ふて腐れて諦めるよりも、どんなに苦しくても得るものが何もなくても伝えたい。
 そう。伏木蔵の言う通りだ。楽をしてはいけないのだ。


 とは言うものの。
 伊作は空を仰いだ。ぼやけた空に厚く広い雲が流れていく。真昼の太陽が雲の切れ間から覗き、暑くも寒くもない陽気が大きなあくびを誘う。
 眠たくなるのはきっと、ずっと雑渡について考えているせいもあると思う。
 考えていて眠れなくなり、眠れなくなるからまた考える。絵に描いたような悪循環だった。
 雑渡と気まずい別れ方をして依頼、伊作は雑渡と会っていない。雑渡が忍術学園を訪れることもなく、連絡を取る手段もなく、ただ黙々と時間だけが経っていた。
 腕の傷はすっかり治っている。最初から傷なんてなかったかのようにつるりとしていた。
 このまま、何事も……最初から何事も無かったかのように終わってしまうのだろうか。
 でもこんなに不安なのは、多分伊作だけだ。むしろ、雑渡は清々しているかもしれない。纏わり付く邪魔で迷惑な子どもと会わずに済むのだから。義理もいい所で切り上げるべきだと思ったのかもしれない。
 うつらうつらになりながらも、伊作は道行く人を眺めていた。
 街道沿いの茶店である。この店の団子が本当に美味く、忍術学園の生徒たちにも大人気なのだ。焼いた団子が串に四個ずつ連なり、そこへ琥珀色の甘辛いタレがかかっている。いたって簡素だ。けれど、それがもう何とも言えない、虜になる美味さなのだ。香ばしさが口いっぱいに広がって、まさにほっぺが落ちそうになる。伊作もこの茶店を気に入っており、近くを通る度に、ついでと称して立ち寄っていた。
 けれども、現在伊作がこの店に居るのは近くまで来たついでではない。この店で待ち合わせをしているのだ。
 何だかもう、待ち合わせじゃなくて、待ちぼうけになりつつあるけどね。
 団子も食べ終え、茶のおかわりを受け取りながら、伊作は辺りを見回した。
 留三郎の姿は見えない。
 正反対の場所で所用があった伊作と留三郎は、ちょうど間にあるこの茶店で待ち合わせることにしたのだ。互いに昼時には片付く用事だと確認し合ったはずなのだが。
 留三郎に雑渡さんのこととか相談しようと思ってたのに。それにしても遅い。おかしいなあ。
 伊作は顎をひねった。
 団子は飛び上がるほど美味しかったから満足だ。嫌なこともちょっとだけ忘れることができた。が、さすがの伊作も痺れが切れてきた。
 もしかしたら、待ち合わせ場所を間違えているんじゃないかとか、留三郎に何かあったんじゃないかとか、先に帰っちゃったんじゃないかとか、様々な不安が交錯する。
 留三郎がここを通ったのなら、伊作は絶対に気づくはずである。周囲を山に囲まれているため長閑だし、道行く人も閑散としている。故に人が通ればかなり目立つのだ。だから見逃してはいないと思う。
 今、伊作の他には行商途中らしい男が二人、茶をすすっているばかりであった。男たちと伊作とでは、背中を向け合ってそれぞれ腰掛けているので顔は窺えない。けれど、比較的若い男であることは声で分かった。時折、彼らの間で交わされる小声の会話が聞こえていたからだ。
 男たちは会話に白熱していて、伊作に聞かれてしまっているとは露知らずという感じだ。
「迂回した方がよかったんじゃないか」
「いや、こちらの道で正しいはずだ。仮に俺らが間違っていたとしても、他の奴らがどうにかするだろ」
「確証はない。それに、他の奴らにおいしいところを持ってかれるのは鼻持ちならねえ」
 どうやらこれから行く道筋について揉めているらしい。時は金なり。商いは時間との勝負というくらいだし、もしも道に不自由しているのなら伊作でも多少力になれるかもしれない。そういう思考に至ってしまうところが、世話好きのおせっかいと言われてしまう所以だろう。
 それでも、やっぱり。
 目の前に困っている人がいるのに放ってはおけない。これは性分だ。
 男たちに話し掛けようとして伊作が立ち上がったとき、街道を歩いて来る農夫と目が合った。男の一つの目玉と、伊作の二つの目玉が重なる。伊作は小さく声を上げた。
 至近距離に雑渡が居た。


 つづく 
20101025


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