十五年目 10


 伊作が眠ったことを確認した雑渡は高坂を呼び戻した。
「まったく、妙な気遣いしてくれちゃってさ」
 高坂がわざと二人きりになれる状況を作ったことを雑渡は見抜いていた。
「せっかく三人で寝ようとしたのに、意味がないじゃないか」
「でも、ちゃんとこうして外で待っておりましたよ。何か問題が起こってはいけませんから」
 高坂はちょっと笑った。雑渡は口を尖らせた。
「……じゃあ、陣左は何か問題が起こったときには、土足で踏み込んでくるつもりだったんだな」
「もちろんです。私の役目は組頭をお守りすること。預かっている大事な生徒さんに手を付けたとあっては、方々に申し訳が立ちません。何より組頭の信用に関わりますからね。 組頭をお守りするということは、そういうことでもあるのです」
「偉そうに! わたしが問題を起こしかねない状況を作った張本人がよく言うよ」
「私はいつだって、組頭の理性を疑いません。ですから、二人きりになられても心配ないかと……話は出来ましたか?」
「ああ」
 伊作はぐっすりと眠っていた。その安心しきった寝顔から、良い話が出来たのだな、と高坂は想像した。そのあどけない寝顔に思わず笑いが漏れてしまう。
 伊作の無害な寝顔を見ながら高坂も床に着いた。
 その夜、気疲れしたせいなのか、珍しく高坂は夢を見た。
 夢の中の高坂は今よりも幾分若く、雑渡は体中に包帯を巻き、床に臥せっていた。
 ああ、と思った。
 九年前、雑渡が部下を庇って大火傷を負ったときの様子が、夢の中でまざまざと浮き彫りになっていた。
 十五の高坂は雑渡の顔を見ることすら許されず消沈していた。それまでは十三のときからずっと雑渡の傍に仕えていたというのに……。
 雑渡の身の回りのことはすべて、薬師と尊奈門が取り仕切っていた。すでに忍者隊に所属している高坂が忍務を放り出すことは許されなかった。それに加え、無駄な人の出入りで雑渡の傷が悪化するのを防ぐために部屋に入ることは禁じられた。
 それでも、高坂が取り乱すことはなかった。
 冷静だったからではない。
 信じられなかったからだ。
 雑渡の身に惨事が降り注ぐなど、信じ難かった。
 上の者たちは、雑渡はもう長くはない、と口々に言い合った。
 涙すら出なかった。
 情のない物言いをする周囲の人間と張り合うこともしなかった。
 ただ緊張していた。
 いるべき人のいない毎日に身体も心も張り詰めていた。
 高坂は淡々と仕事をこなした。今まで以上に忍務に邁進した。雑渡が帰ってくる場所を守りたかった。かつて、雑渡が高坂に対して居場所を与えてくれたように……。
「あまり無理をするなよ」
 山本陣内は言った。当時、小頭であった雑渡の穴を埋めていたのは、この山本陣内であった。
「お前が倒れたとあっちゃあ、私が小頭に叱られてしまう」
「昆奈門さまは、お叱りになる力もないでしょう……」
 今も床に伏せたまま、水を飲むのもやっとだと聞いている。いつか、また、叱ってもらえる日が来るのだろうか。そんなことを考えると余計に辛くなった。
「そんなことはないぞ。先日、殿が見えられて労いの言葉を掛けてくださったらしい。 その時、小頭はきちんと受け答えができたと聞いている。なにも心配することはないさ。きっとすぐによくなる」
 山本は励ますようにして高坂の肩を抱いた。
 雑渡と山本、そしてタソガレドキ城主である黄昏甚兵衛は昔馴染みなのだ。
「……殿は、昆奈門さまを待ってくださるのですね」
 一部の者は、雑渡昆奈門は捨てるべきだと提言していた。仕事ができないばかりか薬代もかさむ。それで運良く助かったとしても使い物にならなければ意味がない、と。
 確かに。
 忍びとは駒のようなもの。
 動かない駒は駒ではない。
「大丈夫だ。殿は誰も見捨てない。誰が何を言おうとも、私たちは信じて待てばいいんだ 」
 山本は高坂の肩を抱く手に力を込めた。
「だから、お前も滅多なことは考えるなよ」
「……滅多なこと?」
 高坂の視線が山本のそれと絡む。
「なんだか、お前が息を止めてしまいそうで怖いんだ」
 そうだったのか、と思った。
 高坂は自分の気持ちに気づいた。
 消えてしまいたかったのだ。
 もうずっと前から。
 でも、できなかった。
「死んで……しまいたいですよ……」
「高坂!」
 山本の叱責が飛んだ。
「でも……できないのです」
 声にならない声で叫んだ。
「約束を破ったままでは死ねない。私は昆奈門さまをお守りすると約束したのに、約束を破りました。あの方を裏切ったままではどこにも行けないのです」
「じゃあ、行くな」
 身を縮ませて震える高坂を山本はしっかりと抱きしめた。
「どこにも行かなくていい。ここで生きろ」
「でも……」
「お前まであの方を見捨てるな!」
 山本の声が飛ぶ。思い切り頬を張られた気がした。いや、ぶたれるよりも痛い。
「背負ったままここで生きろ。後悔してもいい。でも後悔で人は救えないことだけは覚えておけ。私もそうやって生きてきた」
 山本の抱きしめる手に力が籠もった。高坂は弾かれたように顔を上げた。
 かつて、山本を命懸けで守ったのが雑渡の父親だった。それ以来、山本は全身全霊で雑渡を影から支えている。
 山本は逃げるな、事実から目を背けるな、と言うように高坂の背中をぽんと叩いた。
「ちょっと付き合わないか?」
 山本にそう言われ、高坂は黙って頷いた。
 連れてこられたのは里の外れにある薬師の屋敷だった。
「ここは……」
 紛れもない、雑渡が身を置いている屋敷である。
「どうして……」
 高坂の言葉は尻すぼみになった。足が竦んで動かなかった。
「早く上がれ」
 山本に急かされて、覚束ない足取りで座敷に上がった。
 部屋は襖で仕切られ、この向こう側に雑渡がいると思われた。
「参りました」
 襖の脇で山本が畏まった声を掛ける。
「ご苦労」
 小さな声だった。かすれていて聞き取りにくい。けれど、間違えるはずもない。雑渡の声だった。高坂がずっと待ち望んでいた雑渡の声だった。
 それなのに。
 高坂は声を掛けることができなかった。
 本当はずっと怖かったのだ。
 ここへ来ることが。
 真に会いたいと思ったのなら、高坂が本気を出せば顔を見るくらい造作も無いことだった。
 でも、できなかった。
 高坂は約束を破った。
 雑渡を守れなかった。
 それなのに、会いに行けるはずもなかった。どんな顔で会えというのか。
 高坂が固まったままでいると、山本は立ち上がった。
「先に帰る」
「え?」
「手短に話したいことを話しなさい。今日あったことでも、何でもいい。とにかく話しなさい。小頭にお前の声を聞かせてあげなさい。それが小頭にとって、一番の薬だ」
 山本は父親のように高坂の頭をひと撫ですると、本当に出て行ってしまった。
 しばらくすると、襖に雑渡の寄りかかる気配がした。
「陣左」
「……はい。ここにおります」
 襖の向こうで静かに笑う気配がした。
「お前にも苦労をかけてすまない」
「そんな……もったいないお言葉を……」
 また笑う気配がした。
 生きているのだと思った。
 無事でも無傷でもない。
 でも雑渡は生きている。
 生きようとしている。
「でも、よかったよ。陣左の声が聞けて。お前がずっと会いに来てくれないから、嫌われてしまったのだと思ったよ」
「まさか、そんな。そんなことはありえません。嫌われたと思っていたのは――」
 そう。嫌われたと思っていたのは高坂の方だった。
「お守りできなくて、ごめんなさい。ごめんなさい……」
 自分は無力で、誰も救えない。
 でも、この人に嫌われたくなかった。
「何を言っている。お前はちゃんと守ってくれている。わたしの居場所を……。早く復帰できるように頑張るからさ。気長に待っていてよ」
「昆奈門さま」
 今、高坂がしなければいけないことは後悔に身を縮めることじゃない。
 明日のために、いつか来る日のために、雑渡の居場所を守ることだ。
 山本は後悔では人は救えないと言った。
 ではどうしたら誰かを救うことができるのか。そんな難しいことは高坂には分からなかった。
 でも、だからこそ雑渡の傍にいよう。そう思った。高坂が傍にいて、それだけで喜びとしてくれる人がいるかもしれない。
 だから生きるのだ。
 雑渡は生きている。だから高坂も生きなければならない。もっと、もっと強くなって。
 強く。
 明日を目指せるように。
 襖に隙間ができ、そこに指がかかった。包帯だらけの真っ白な指。
「駄目です」
 開きかけた襖を高坂は慌てて押さえた。
「陣左の顔が見たいな」
「駄目です。お体に障ります」
「なんだい。尊奈門と同じことを言って」
 雑渡は拗ねたように息をついた。
「生憎、私はとても酷い顔をしていまして、あなた様に合わせる顔がございません。ですから、どうか、どうか……」
「……泣いているのかい?」
 問われても、高坂は声を出せなかった。声を出せば、ただの嗚咽になってしまう。そんな気がしたからだ。
 雑渡が臥せって以来、高坂は初めて泣いた。零れた滴が口に入り、しょっぱかった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。今だけですから。明日からはちゃんとしますから。だから……」
 高坂は小さな子どものように泣いた。
 暗闇からすっと出てきた白い指が、高坂の頭をそっと撫でた。
 頭巾の上から伝わる、生きた指の感触。生きようとする雑渡の意志。
 高坂は言葉もなく、ただ歯を喰いしばった。
 今度は守る。必ず守る。この人を。この人の明日を。
 この人は私が未来へ連れて行く。


 木の弾ける音で高坂は目が覚めた。目じりから一筋、滴が零れる。
「……夢、か」
 高坂はぼんやりとした頭を一振りした。
 小さく燃える火の向こうに雑渡が見えた。
「まだ、朝には早いぞ」
 どうやら雑渡はずっと起きていたらしい。火を絶やさぬように小枝をくべていた。
「申し訳ありません。私としたことが……」
「色々あって疲れているんだし、夜は眠るものさ。何を謝る」
「組頭に火の番をさせるなど、とんだ失態です」
 ふと伊作の方に目を向けると、すやすやと正しい呼吸で眠りこけていた。この状況で眠れるとはそうとう肝が太いらしい。時折、肉付きのよい頬がもごもごと動くのが分かった。呆れるよりも笑ってしまう。
「怖い夢でも見たのかい?」
 不意に雑渡が問うた。
「昔の夢を見ました……」
 高坂は気後れしつつも素直に応えた。
「そっか」
 雑渡は浅く頷いた。
「わたしは格好よかったかい?」
「今も昔も変わらず、あなた様は格好よくていらっしゃいます」
 高坂は雑渡と目が合うと笑った。
 目の端で伊作が寝返りを打ったのが見えた。伊作が火傷をしないように高坂はその身体をそっと支えた。このくらいの年頃に特有の線が細く角ばった感触が伝わってくる。どんなに大人顔負けの技術を持っていようとも、やはりまだ十五歳なのだと思い知った。
「もう一人弟ができた気分じゃないかい?」
 雑渡は微笑ましそうに眺めている。
「そうですね。でも、手の掛かる弟分なんて尊奈門だけで十分間に合っています」
 憎まれ口を叩きつつも、高坂は伊作を支える手をどけなかった。
 もしも。
 もしも、伊作がいなければタソガレドキは甚大な被害を受けていた。何よりも、雑渡の身体に取り返しのつかない事態が起きたかもしれない。
 高坂は息をついた。
 伊作ばかりに助けられ、自分は何もできなかった。そのことを考えると、今でも罪悪が身体の中に取り付いてうねりだす。
 後悔とは幾度も繰り返すものなのか。永遠にこの身を追い詰めるものなのか。
 力が及ばなかったことに唇を噛み締める。
 よく考えてみれば、この度のことも昔のことも、伊作のような力があれば高坂にも雑渡を救うことができたのではないか。
 もっと違う力が、もっと違う強さがあれば。そう考えずにはいられなかった。
 雑渡の傍に高坂でなく、伊作がいたら。
「……でも。それでも私は、私にしかなれない……」
 思いは自然と声になっていた。高坂の言葉に、雑渡は目を丸くさせた。
「どうしたのさ。陣左らしくもない」
「いえ、別に……」
 口元を押さえながら、高坂は思わず零れた弱気な発言に自分自身で驚いていた。
「申し訳ありません」
「何を謝る」
「自分と他人を比べるなど、愚かなことです」
「そうかい? でも、わたしだって自分と誰かを比較してしまうことはあるよ。比べて競わないと向上しないものも沢山あるからね。そんなに自分に厳しくならなくてもいいじゃないか」
 雑渡は顎を掻きながら、気遣うような視線を寄越した。
 高坂は首を横に振った。
「いえ。違うのです。私のは競うようなものではなく、きっと……」
 高坂は自分の隠した気持ちに気づいてしまい、少し笑った。
「……敵わないと、思ってしまいましたから」
「……」
「彼のような強さがあれば……私も別の形であなたをお守りすることができたかもしれません」
 殊勝にそんなことを言いながら、高坂は伊作への意識をはっきりと感じていた。
 善法寺伊作は高坂にないものをたくさん持っている。
 自分は決して、やさしい人間ではない。よく分かっている。
 高坂は忍者だ。それを理由にするわけではないが、医の方面には疎い。もちろん、忍び としてある程度の薬草毒草や応急処置は会得している。しかし、医者の持つような知識を高坂は有していない。伊作という少年がよほど特別なのだ。だから高坂が包自分の持つ知識を伊作と比べて恥じ入ることはないと思う。高坂は高坂なりに雑渡に仕え、また手当てをしてきた。
 けれど、なぜか今はそのことがとても辛く思えてしまう。
 医者になりたいわけじゃないから今からその道を究めてもどうかと思うし、高坂が伊作のようになれるかといえば随分あやしい。
 そもそも伊作のようになりたいわけじゃない。ではなぜ高坂は伊作を意識してしまったのだろう。
 考えれば考えるほど、抜け出せない暗い深みに嵌ってしまう。
 張り合っているのだろうか。善法寺伊作という少年と。
 自分はやさしさなど持ち合わせてはいないと。
 自分にやさしさなど不要だと。
 そんなものよりも必要なものは強さだと。
 高坂は強くありたいと思っていた。いや、思っている。いつでもそう思っている。
 しかし、全てを守ることはできない。だから、せめて、たった一人を守ることができる強さが欲しいと。
 忍びとしてはタソガレドキのために尽くすのが道理だろう。けれど、高坂陣内左衛門としてだったら、一個人としてだったら別だ。
 迷わず雑渡を選ぶ。
 雑渡を選ばないという道は躊躇いなく捨てる。
 そして、どんな手段を使っても雑渡を守る。
 心は当の昔に決まっている。
 けれども。
 高坂は苦い思いに駆られた。
 心だけは立派に決め込んでいるが、体がついていかない。
 そのせいで数え切れないほど後悔をした。今も、そしてこれから先も、きっと同じように後悔する。
 雑渡の癒えぬ傷。その身体には蛇が絡みついたような痕が幾重にもある。
 その傷跡に対峙するたび、高坂は過去の不甲斐ない自分と向き合わなくてはならなかった。
 傲慢だと思われてもいい。自分の力が及ばなかったために雑渡を守ることが出来なかったのだと悔やまなければ雑渡の傍にはいられなかった。
 そんな高坂に比べて、伊作はどうか。
 伊作はあっさりと雑渡を守って見せた。刀も拳も使わず、血も流さずこの人を守って見せた。それはもしかしたら、どんな力よりも強い力なのかもしれない。
「愚かな」
 雑渡は一蹴した。
「本当に愚かだぞ、陣左」
「はい」
「陣左の、高坂陣内左衛門という一人の人間の力がなければ守れぬものも救えぬものもあっただろう。お前はわたしと共に歩んできた今日までを否定するのか」
 雑渡の声には怒気が含まれていた。この男が怒りを表に出すのは珍しいことだった。
「申し訳ありませんでした」
 高坂は頭を伏せた。
 不安、悲しみ、後悔、羨望。
 言葉にできない様々な感情の合間を潜り抜けて、雑渡のやさしさが高坂の身体の一番奥まったところへ小さな光を灯す。
 嬉しかった。雑渡が自分を分かっていてくれたことが嬉しかった。
「泣くな」
「泣いてなどおりません」
 事実、高坂の目には涙など浮かんでもいない。もう、簡単に弱さを見せられない歳になってしまった。
「ここは、なんかそんな雰囲気だろう。泣いてもいいんだぞ」
「結構です」
「遠慮をするな」
 雑渡は声を立てて笑った。
 つられて、高坂も曖昧に笑った。本当は少しだけ泣きそうだった。

 つづく
20120627



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