十五年目 9
が、目を閉じても寝られるはずがなかった。
いつもとはまったく違う寝床。
タソガレドキ忍者である雑渡と高坂と一つ屋根の下にいる現状。
同室の留三郎はいないし、部屋も薬臭くないから落ち着かないことこの上ない。
忍者たるもの、いついかなる状況に置かれても眠れなければならない、とお叱りを受けるかもしれない。
しかし、伊作は寝返りすら打てない興奮と緊張で、とても眠れそうになかった。
高坂との会話が尻尾切れになったことも気になっていた。
一体、自分にどんなすごさが、どんな強さがあるというのか。まったく想像もつかない。
「眠れないのか?」
高坂は小声で伊作を気遣った。
伊作は黙って頷いた。
すると、高坂は思いもつかない行動にでた。
「組頭、伊作くんと話をしてあげてください。私は外に出て少し涼んでおりますので」
「ええ?」
なぜ雑渡なのだ、と伊作は驚きと戸惑いで飛び起きた。
「分かった」
雑渡は気安く請け負った。
「確かに、この状況で寝ろって言われても伊作くんには無理だよね。こんな怖そうでむさ苦しい男二人に囲まれてちゃね」
「高坂さんもここで話をしましょうよ。僕はさっき、高坂さんと話していたことが気になって……」
三人で寝るのも気まずいが、雑渡と二人きりにされてはどうしていいのか分からなくなってしまう。
「いや、私は君が眠れるようになるまで外に出ているよ。これでも私はタソガレドキ忍者隊の中では、けっこうデキる方でね」
なお引き止める伊作に構わず、高坂は出て行ってしまった。
「何が、デキる方でね、だ」
見えなくなった部下の背中に雑渡は呟いた。
「高坂さん、大丈夫ですかね。外は寒いのに……」
本格的な冬は遠いが、それでも今の時期夜は冷える。
「鍛えているから大丈夫でしょ」
雑渡は伊作の方へ向き直った。
「……そういえば、さっき陣左と話していたことだけどさ。伊作くんは自分が忍者に向いていないって思うんだ?」
「思いますよ、だって……」
伊作は俯いた。わざわざ人から言われなくても分かりきっていた。
「雑渡さんにすごいって言われて、高坂さんにもすごいって言われて、みんなからも……。でも全くそんなことはなくて。さっき、高坂さんから色々聞きました。雑渡さんの火傷のこととか……」
「そう」
「僕は何も出来てないって思いました。僕のどこがすごいって言うんです」
伊作は握ったこぶしを膝の上で震わせた。やるせない自分に対する怒りの掃き場所がなかった。
雑渡の手が伊作のこぶしを包むように乗せられた。
「この頼りなげな手がわたしを救ったんだね。わたしだけじゃない。今まで、伊作くんに出会ったたくさんの人がこの小さな手に救われてきたんだね」
手にぐっと力を込められて伊作の胸は高まった。不安を取り除くようにして大きな手が伊作の震える手をさする。
雑渡は救われたんだとしきりに繰り返しているが、本当に救われているのは伊作の方だった。
「忍者に向いていないことの何が悪いの?」
雑渡は柔らかく言った。
「え、だって」
「忍者に向いてないからって、忍者になれないわけじゃないんだよ」
「それは……」
伊作は口ごもったが、雑渡の言うことは最もだと思った。
「雑渡さんは、僕が忍者に向いていないって言いましたよね」
「言ったね。でも、君はいい忍者になると思うよ。わたしも陣左もそう思っている」
雑渡はよく分からないことを言った。
「中途半端な忍者になるってことですか」
首を傾げる伊作に、雑渡は「違う」と言った。
「伊作くんはさ、どういう人が忍者に向いていると思う?」
伊作は戸惑った。改めて訊かれるとよく分からない。
雑渡や高坂や尊奈門はまさに憧れの忍者だし、留三郎や他の同輩たちも忍者にぴったりだと思う。
「走るのが速いとか、体力あるとか、知識があって、人に順応できて、変装も得意で、冷静な気持ちを保てる人の方がいいですよね」
「まあそんなところかな。じゃあ、どういう人が忍者になるんだと思う?」
「へ?」
忍者に向く人と、忍者になることができる人。
似ているようでまったく異なった見方だ。理想と現実。才能と実力。
忍びの心得は授業で耳が痛くなるほど叩き込まれたが、どういう人が忍者になるかなんて考えたこともなかった。
「えっと……だ、誰でもなれる……?」
伊作はほとんど自分の希望みたいなことを口に出した。忍者に向かないと言われ続けていた伊作だからこそ、そうであってほしいと思ったのだ。理想を現実に変え、自分の力で生き抜いてみたい。
「そうだね。誰でも忍者になれるよ。伊作くんもわたしも元はただの人だもの。でもさ、忍者の条件って何だと思う?」
「……条件?」
「ただの人間だって、修行すれば走ることも跳ぶことも腕力も剣術も変装も、何だってできるようになるさ。才能なんて無くても努力と根性で補えるしね。だからもっと他の大事なこと。忍者が忍者であるための条件」
忍者であるための条件。自分の力で現実を生き抜くための条件。
伊作は一つだけ思い当たることがあった。でもそれを言葉にしたら、自ら忍者になることなどできないと証明するようなものだった。
認めてしまえば楽になるのだろうか。
「……それは、心を殺すこと、ですね」
伊作は大きく息をついた。今、自分で言葉にしたことは普段から伊作ができてないことだった。いつもそこを非難される。
「心に刃を突き立てること。それが忍びですよね」
自分で言っていて恥ずかしくなる。忍務中でも何でも、自分の良心に任せて動く伊作はまさにその正反対。心に刃を突き立てることができていない。
「わたしはね、それは違うと思うよ」
雑渡は伊作の言葉を否定した。伊作は目を見開いた。
「何で、ですか。だって授業で……」
「叩き込まれた?」
「……はい」
雑渡はふっと小さく笑った。
「確かに今、伊作くんが言ったことも忍者の条件だよ。いかなる場合でも心を惑わされることなく行動する。とても大事な条件だ。でもそれは絶対条件じゃない」
「絶対、条件」
「忍びとしてそれ以上に大事なのは、心に刃を突き立てることじゃない。心に刃を持つことだ」
「刃を持つ……?」
「そう。鋭い刃だ。刃は強い武器だよね。相手を倒したり誰かを守ったりできる。強くて頼りになるのが刃だ。わたしも持ってる。陣左も持ってる。もちろん、伊作くん、君も持っているんだよ」
「持っていません」
「持っているよ」
雑渡は何かを確かめるようにして自身の肩に手を当てた。
「君は覚えているかな。ここに、伊作くんの手があったんだ。とても安心した。わたしの身体に迷わず触れたのは君が初めてだったし、誰かに触れられるだけで安心するのも初めてだった。人をこんな気持ちにさせるのはすごいと思った。だから君のことが知りたいと思った。君の心に触れてみたいと、ずっとそう思っていた」
「僕の心、触れたんですか」
「うん。すごくいい刃があった。わたしの義理堅さとも陣左の忠誠とも違う刃……。誰も手が出せないくらいに綺麗で強靭だった。伊作くんは持ってないっていうけれど、わたしには見えた。それは君のやさしさだ」
「……やさしさ?」
「そうだよ。やさしさ。君のやさしさには迷いがない。すごくいい刃だ。とても強い心だ。わたしや陣左は名前を知っている特定の誰かのために動く――例えば、城主とか上司とか家族や仲間ね。でも君は違う。君は名前も知らない家族でも仲間でも誰でもない誰かのために動いている。見ず知らずの恩も義理もない誰かのために尽くしている。人間が一番 強くなれるのはそういう時さ。わたしには真似ができないね。もちろん、わたしの周りでこんなことをしているのは君だけだ。伊作くんただ一人なんだよ。だから素直にすごいと思った。君が目指すものへの向き不向きは自分で決めればいいさ。だから、君は自分を許していいんだ。わたしが今ここで息をしているのは、伊作くんの強い心に助けられたからなんだ」
雑渡は力を込めて伊作の肩を叩いた。
その拍子に伊作の目から零れたものが膝の辺りに丸いシミを作った。
雑渡のしなやかな指が伊作の涙を拭う。その感触が体中に満ちていくのが分かった。
身体の奥底が熱くなって力がどんどん湧いてくる感じがした。今まで色々と誤魔化してきたけれど、初めて自分を許すことができたような気がした。
気弱で不運で足手まといな自分がずっと嫌で信じられなくて許せなかった。
でも、今、雑渡は伊作の刃が見えたと言った。強い心。やさしさが見えたのだと、そう言った。ちゃんと伊作の芯の部分を見ようとしてくれたのだ。こんなに嬉しいことはない。
雑渡が見ていてくれた自分を信じてみたい。そう思った。
伊作は顔を上げた。
雑渡や高坂のように、唯一その人のためには走れないかもしれない。主も持たず一生を誰かに捧げる人生もないかもしれない。誰とも違う忍びの道を行くのかもしれない。
それでも。
この世の中のたくさんの誰かが伊作と出会ったことで笑ってくれるのなら、今のままの自分を失くさずにいようと思った。
伊作は雑渡の手を握り返した。大きくて、温かくて、マメやタコが沢山できていて、伊作のことを大事にしてくれる手だ。
「やさしいのは雑渡さんの方です……」
伊作が呟くと隣で微かに笑う気配がした。
つづく 20120524