十五年目 11


 翌日の昼過ぎには、伊作は忍術学園の門を無事にくぐっていた。
 その見慣れた懐かしい景色にほっとする。
「いや、無事に着いてよかった」
 雑渡は満足げに言った。
「ええ。本当に。善法寺くんと一緒ですからね。どんな不運が待ち受けているのかと心躍らせたものですが……。大した混乱もなく無事に到着してしまいました」
 高坂は不服そうに言った。
 タソガレドキの忍務に巻き込まれてしまったこと自体が不運であるのだが、伊作は言うまいと口を堅く引き結んだ。
 イノシシの如く三人に突進してきて入門表に署名を求める小松田を軽くあしらうと、雑渡は姿を消した。
 何でも、伊作をタソガレドキに拘束した弁明を学園長にするらしい。
 伊作がタソガレドキの世話になったことを知るのは学園でもごく一部の関係者だけだった。
 だから、わざわざ謝るなんて大げさだと伊作は言ったのだが、雑渡はきちんと説明はしておくものだ、と言って譲らなかった。
 伊作としては、せっかく学園に堂々といるのだから、お茶をしたり話をしたいところなのだが。
 しかし、雑渡と高坂が二人がかりで伊作を送り届けたのには、もう一つ理由があった。
 雑渡は伊作を保護する旨を手紙にしたためた。それを忍術学園に届けたのが諸泉尊奈門である。しかし、待てど暮らせど尊奈門がタソガレドキに帰ってくる気配はなかった。
「尊奈門さん、学園内にいるといいんですが……」
 伊作は不安な心持ちになった。
 もしも、尊奈門の身に何かあったとすれば申し訳ない。尊奈門は伊作の無事を知らせるために、忍術学園まで走ったのだ。
「多分、大丈夫だ」
 高坂は言いきった。
「心当たりでもあるんですか?」
「ああ。私の見当など外れていることを祈るが……。土井先生はどちらに?」
「土井先生ですか?」
「ああ。退出届けに尊奈門の署名がなかったから、この学園内にいるとしたら土井先生のところか若しくは……」
「若しくは?」
「医務室だ」
 伊作は首を傾げつつも高坂を案内した。


 離れの庵は人払いがされていた。時折、風が吹くと鬱蒼と茂る竹薮が音を立てて揺れる 。
 その静かな庵の縁側に、枝を伐る小気味良い音が響く。
 この庵の主であり、この学園の主でもある大川平次渦正が自慢の松の盆栽を手入れしている音だった。枝振りの見事な黒松である。
「おお、昆奈門。来たか」
 大川の視線は良い具合にくびれた松から動かない。一つ飛び出た枝を伐ろうか伐るまいか思案している風だった。盆栽とは、常に管理者の感覚が問われるものである。
「……その枝は残しておいた方がよいのでは……?」
 玉砂利が敷き詰められた庭に立った雑渡は、そんな提案をしてみた。
「うむ。やはり、おぬしもそう思うか」
 大川は満足げに言うと、鉢の傍に鋏を置いた。小さな身体を雑渡の方へ向ける。
「さすが、じゃじゃ馬坊主を操る男よ」
 大川の言うじゃじゃ馬坊主とは、タソガレドキ城主の黄昏甚兵衛のことであろう。
「ご冗談を」
「いやいや。盆栽の手入れといくさの采配は紙一重」
 そうだろうか、と思いつつも雑渡は何も言わなかった。この老獪の機嫌を損ねては、それこそ雑渡でさえも防ぎきれない暗雲がタソガレドキに垂れ込める。
「タソガレドキ、オーマガトキ、そして園田村のいくさ。実に見事な采配じゃった。無駄な犠牲を出さず、まんまと城主を丸め込んだその手際には思わず手を叩いたものじゃ」
「あなたにお仕置きされたのでは、さすがの殿も立ち直るのに時間がかかりそうでしたので。早いうちにこちらで手を打たせていただきました。正確には、あなたの謀に便乗した のですか……」
 雑渡はちらりと大川の方を窺った。若い頃は天才忍者と呼ばれ、今もなお現役の忍びであるという。その体躯は雑渡よりもはるかに小さいが、しかし、貫禄と風格は人並みはずれたものがある。淡い笑みを浮かべたまま、一切の感情を読ませなかった。
 やはり食えぬ。
「そんなところへ突っ立っていないで、ここへでも座ったらどうじゃ」
 大川に勧められ、雑渡は縁側に腰を下ろした。しかし、程よい間合いを保つことは忘れない。盆栽を手入れする鋏が、いつ雑渡を襲う武器になるとも限らない。
 まあ元より、この古老との間に争うようなことはないのだから、そんなに警戒することもないかもしれないが。
「此度のこと、大変失礼つかまつりました」
 雑渡は本来の目的を果たそうと、勝手な判断で伊作をタソガレドキに引き止めたあらましを説明し頭を下げた。
「無事に送り届けてくれたようじゃな。いや、結構」
「私の独断で善法寺くんを拘束しておりました。この件に、国としてのタソガレドキは一切関わりございません。私が個人的にそうしたまでです。責任はすべてこの雑渡昆奈門にございます」
「いやいや。面倒を掛けた。して、どうじゃった、善法寺伊作は」
 嫌味の一つでも言われると思っていた雑渡であるが、大川の突拍子もない問いにどう応えてよいか分からなくなった。
「……質問の真意を理解しかねますが」
「ちと、変わった生徒であろう?」
「まあ、そうですね」
 雑渡は正直に応えた。
「おぬしも、伊作は忍びに向かぬと思うか?」
 大川は試すように訊いた。
「なぜそのようなことを私に?」
 雑渡は逆に訊き返した。
「まったく異なった立場の者の意見が聞きたいと思ってのう。ワシや忍術学園の関係者ではどうしても贔屓目が出てしまう。それに、おぬしと伊作は出会ってから時間が経っておる。少しは互いのことも理解しているんじゃろう? そういう者の見解が欲しいのじゃ 」
 伊作は雑渡のことを大川に話したのだろうか。
 いや。きっと誰にも口外していないはずだ。
 まったく、侮れないじいさんだ。
「確かに、善法寺くんは変わっていますね。あれでは忍びに向いていないと評価を受けても致し方ありません」
「そうか……」
「……しかし」
「しかし?」
「良い忍びになると思います」
「世辞か?」
「あなたの前で世辞を言うなど、舌を失うに等しい愚行。これは本心です。私は彼と彼の心に触れて、良い忍びになると……そう判断致しました。他城にやるのが惜しいくらいには彼を高く評価しております」
 雑渡は正直に告げた。
 大川はしばらく黙っていたが、やがて一つ頷いた。
「ふふふ。言うようになったのう。あの若造がのう」
 大川はいかにも愉快だという風に肩を揺すって笑った。
「あの頃とは随分、姿形が変わりましたけどね」
 雑渡は二十年以上も前に大川と出会っている。
 当時に比べれば、雑渡の身体は随分と傷が増えてしまった。
「おぬしは変わっておらん。包帯は目立つが、しかし、人を見るまなざしはちっとも変わらん。だから、伊作はおぬしに魅かれたのかものう……」
 急に伊作の名前を出されて雑渡は戸惑った。一体、この老人はどこまで知っているのだろう。知らん振りをしてすべてを読まれている。見透かされている。そんな気がした 。
「一体、どこからどこまでがあなたのお膳立てなのですか?」
 この操られているような居心地の悪さ。
 雑渡と伊作の出会いは元より、気持ちを交わすようになったことさえもこの老獪の仕業なのではないか。
「うん? おかしなことを言う。昆奈門よ、出会いとはなぁ……縁じゃ」
「はぁ……縁でございますか」
「いかにも。ワシとおぬしが二十年以上にもわたって顔をつき合わせておるのも縁というわけじゃ」
「……腐れ縁ですか……」
「相変わらず手厳しいのう。まあ安心せい。ワシはなにもしておらぬ。園田村に協力したまでじゃ。そこから先に続く物語があったとすれば、それらはワシの一切手の届かぬところで起こっていることじゃ。誰かを思い、想う気持ちなど……本当の意味では操れや しまいよ」
「……出過ぎたことを申しました」
 雑渡は呟いた。
 このどうしようもなく魅かれる気持ち。このとめどない情動を誰かのせいにしなければどうにかなってしまいそうだった。この歳になって色に足を絡め取られるなど実に滑 稽ではないか。
 けれど、もう伊作から目を逸らすことなど到底できないことだと雑渡自身分かっていた。
「何か問題でもあるかのう?」
「いえ」
 首を振る雑渡に、大川は相変わらず笑みを浮かべていた。
「雑渡昆奈門と共に過ごし、伊作は自分の落ち度に気が付いた。しかし、自分の良いところにも気が付いた。自分の中に可能性を見出すことができたんじゃ――おぬしという、光に出会って……」
「光……?」
 思わぬ言葉に雑渡は眉根を寄せた。
「おぬしは伊作にとって憧れの人物。光り輝く存在じゃ。光は光を灯す」
 大川の双眸はやさしく細められた。
「ワシにとって、すべての子どもは光。ワシはここで光を育てておるのじゃ」
「……私を光と言うのなら、私もあなたにとってしたら、まだまだ子どもということですか」
「そういうことじゃ」
「もう三十六なのですがね」
「横座りが治らぬ内は大きな子どもじゃ。まったく、会う度に注意しておるが一向に治らぬ。それでは組頭の威厳もあったものではなかろうに」
 大川はきっちり足を揃え、おなごのように座る雑渡を横目に見た。
「個性を変える気などさらさらございません」
「忍者隊の頭が屁理屈をこねるとは……。そんなことではタソガレドキも心配じゃ。せっかく折りを見て伊作にタソガレドキ城への就業を勧めてやろうかと思うておったのにのう」
 大川は悪童のようなまなざしを向けてきた。
「結構でございます。これ以上問題児が増えたら堪らないですから」
「世話を焼くのは得意であろう?」
「忍術学園の関係者をわが城へ寄越し、内情でも探られたら面倒だと言っているのです」
「なんじゃ。強がりおって」
「タソガレドキはいくさの多い城。私が言うのもなんですが世間の評判も悪い。そんな危険な場所にあなたは可愛い生徒を送り出すというのですか。いささか薄情ではございませんか?」
「……薄情か。そうかもしれぬ。ワシはそうやって、今までいくつもの光を失ってきた」
 束の間、大川の横顔が翳った。皺が深くなる。
 この温かな学び舎から巣立つということは、つまり、そういうことなのだろう。
「あなたは誰もが認める時代の先駆者。数え切れない功績を残し、この混沌とした世に数え切れない光を生み出してきた。過ぎた日を悔いるなど……」
「おや、慰めてくれるのか? この薄情者を」
「私のせいで老けられては困りますから」
 大川は大口を開けて笑った。どうやら、元気すぎて老いる心配などないようだ。
 しかし、この古老の顔や手に刻まれた皺の数だけ、忍びとして学園を巣立ち世に渡った者がいるのだ。一体、どんな気持ちで見送ったのだろう。
 忍術学園の生徒は忍者の卵。あたためて愛情を注ぎ、殻を破る日までを大事に育てられる。
 伊作もいつかは孵る。ここを巣立ちどこかへ行くのだ。自分の道のために。
 でも、それがタソガレドキである必要はない。タソガレドキであってはならない。
 飛ぶための空は、世界は、どこまでも広いはずだ。
 伊作の目指す夢の形は、もっとずっと輝くものであってほしい。
「老よ」
「なんじゃ、昆奈門」
「善法寺伊作は、忍者には不向きだが、決して愚かではない……」
 それなりの賢明な判断ができるだろう。
 行く道をタソガレドキに定めるほど愚かではないはずだ。
「青いのう」
 からかう大川を背に、雑渡は再び庭の玉砂利を踏んだ。
「その鋏が飛んでこない内に、私は退散いたします」
 大川の鋏を掴もうと伸ばされた手が止まった。
 背後でにやりと笑う気配がした。
 殺気が地を這う。
 雑渡は跳んだ。
「食えぬのう」
 今しがた、雑渡が立っていた場所には鋏が突き刺さっていた。鋏の刃に陽の光が弾け、その鋭利さを際立たせる。
「お互いに」
 言葉短く別れを告げると、雑渡は姿を消した。

 つづく
20120627



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