十五年目 13
「かつて私は組頭の稚児だった……」
そう告げると、目の前の少年は驚きに目を丸くさせた。
無理もない。まさか、そういう話だとは思わなかったのだろう。
高坂の記憶に残る一番古い雑渡は、筒袖短袴に垂髪をなびかせた背の高い少年の姿だった。おそらく、今の伊作と同じくらいの年頃だ。
ただ、少年とはいってもすでに元服を済ませ、タソガレドキ忍者隊でも立派な功を上げていたと記憶している。
その当時から、雑渡は同年の忍者たちとは明らかに一線を画していた。抜きん出ていたといってもいい。
入隊時こそ忍者としての実戦経験が少ないために周囲をひやりとさせることもあったが、持ち前の冷静な判断力と鍛えられた体術、そして天性の忍者としての感覚を携えて働きを重ね、今ではタソガレドキ忍者隊の忍び組頭として一目置かれる存在となっている。
雑渡が忍務の合間に里へ帰って来たときなど、高坂は雑渡にまつわりついていた。今では考えられないが、遊んでくれとせがんでいたのだ。
この人を一人にできない。
幼心にそう感じたのを高坂は今でもはっきり覚えている。
高坂が三つ位の時だったか……忍務中の事故で雑渡は父親を失っていた。母親も早くに他界し、他に兄弟もいなかった雑渡は十代半ばにして天涯孤独となったのだ。
戦乱の世。
格段、珍しいことでもない。
そのような身の上の者は少なくはないのだろうが、親を失うなど、幼い高坂には計り知れぬことだった。想像もつかない。
しかし、それは大きな悲しみであるとともに、生きている限りは仕方のないことであり、立ち止まってはいられないことなのだと、雑渡の姿を見て思った。
雑渡は一度も泣いたり俯いたりしなかった。
雑渡の父親は部下であった山本陣内を庇って命を落とした。その責任を感じてか、山本は雑渡を支えて尽くしている。もしかしたら、雑渡の父親であろうとしていたのかもしれ ない。
雑渡も山本を頼りにしている様子があった。
しかし、高坂の目に映る雑渡はいつまでたっても、どこまでいっても寂しそうだった。泣くことこそないけれど、その瞳の奥はいつも揺れていたように思う。
高坂も雑渡の何かになりたかった。
父親にはなれない。母親にもなれない。
だったら何になれるのか。
分からないけれど、それでも、高坂は雑渡と一緒にいようとしていた。年端もいかない高坂には雑渡と一緒にいて、一緒に遊んで、一緒に笑うことしかできなかった。
一緒にいると雑渡昆奈門という人物の大きさがまざまざと感じられた。
雑渡は遊びの中で高坂に忍術を教え、また忍務のことについても話してくれた。忍びは影の者と謳われているが、それは非常に輝かしい世界に感じられた。
高坂の目に雑渡は眩しい存在として映った。いつしか、大きくなったら雑渡のような忍びになりたいと思うようになっていた。
そんな高坂がもうすぐ十三になる頃だった。年が明ければ高坂も晴れて忍者隊の仲間入りを果たす。やっと忍びとしての一歩を踏み出せるのだ。そんな風に心を弾ませていた。
あれは確か、雑渡が忍務から帰ってきていると聞き、会いに行こうと家の門を出ようとしたときだった。
話があると父親に言われ、高坂はしぶしぶ屋敷の中へ戻った。早く雑渡から色々な話を聞きたかった。
「お前は殿の稚児になるのだ」
脇息にもたれながら父親は口を開いた。有無を言わせないその言葉に高坂は頭が真っ白になった。一体、何を言っているのかと思った。
「ち、稚児でございますか」
「いかにも」
「しかし、父上さま。何ゆえ私なのです。私は忍びという立場で殿を支える身。稚児などとはお門違いかと」
高坂家が武術の名門と知らぬ殿ではないだろう。
「殿はお前の顔立ちの美しさを買われたのだ」
「私は一度も拝謁たまわったことなど……」
「殿は噂でお聞きになられたのだ。それならば是非、わが稚児にしたいと」
「そんな、噂で……」
呆然とする高坂に父親は一瞬だけ、済まない、という視線を向けた。
ああ、と高坂は思った。
父上さま、どうかそんな顔をしないでください。
高坂は頭を下げて「はい」とだけ言った。拒めば父の首が、家族の首が、いや、それだけではない。この忍びの隠れ里に住まうすべての者の首が危うい。
逆らうことなど許されないことだと、幼いながらに瞬時に理解した。
それから、どこをどう歩いたのかも分からないが気が付くと雑渡の屋敷の前にいた。日暮れの迫った庭はいつもに増して雑然として見えた。
あんなに会いたかったのに、どうしてか高坂は門扉の前で動けずにいた。
どこかへ逃げ出してしまいたかった。
けれど、そんなことは到底できない。
苦痛の思いに顔を歪めたとき、影が差した。
「いつもならすぐに遊びにくるのに、来ないものだから調子が狂ったぞ。こんなところで何をしている?」
門から出てきたのは雑渡だった。早く入れを言わんばかりに高坂のために門を手で押さえている。
俯いたまま高坂が動かずにいると、雑渡はかがんでその顔をのぞきこんだ。
「どうした? 何かあったか?」
「……こんな顔など捨ててしまいたいです」
高坂は身を震わせ、唇を噛んだ。この顔立ちのせいで忍びとしての道が断たれるとは理不尽だと怒りに狂った。ただ悔しくて、雑渡の胸のあたりを何度も叩いた。
雑渡は辺りが暗くなってきたこともあり、高坂に帰るように言った。しかし、高坂は頑として聞かなかった。
仕方がないと思ったのか、「今日は泊まっていけ」と雑渡はため息混じりに言った。
その旨を高坂の家に伝えて雑渡が戻ってくる頃には、辺りはどっぷりと暮れていた。高坂は黙ったまま座敷の隅にいた。
「そんなところにいちゃ寒いだろう。こっちに来て火に当たれ」
高坂は首を横に振った。
「何だ、父上さまに叱られたか?」
高坂はまた首を横に振った。木偶の人形になったような気がした。何も考えたくない。
「まあいいや。明日は何をしようか。お前の好きなことでいいぞ」
雑渡がわざと明るい声を出しているのが分かった。雑渡にまで心配をかけている自分が情けなかった。
「遊べません」
高坂はやっとそれだけを言った。
「どうして?」
雑渡は穏やかな口調だった。
「いろいろと勉強しなければならないことができました」
「これ以上勉強してどうしようっていうんだ。お前はよくできる子じゃないか」
確かに、雑渡の言うとおり高坂は同年代の子どもの中では優秀だった。学問も武術もかなりの質を持っている。
しかし、これから高坂の学ぶべきことは、そんな一般の教養からも忍術からもかけ離れたものだった。
殿の稚児になるのだ。
今までとはまったく違う教養を身につけなければ到底務まらない。
「私にとってはとても困難な勉強になるでしょう。しかし、やらねばならないのです」
「なんだい? そんなおっかない顔をして。わたしで分かる勉強なら教えてあげるけど……」
稚児になるのだと言ったら、この男はどんな反応を示すだろうか。
そんな考えが高坂の頭に浮かんだ。
軽蔑されるだろうか。同情されるだろうか。感嘆されるだろうか。
それでも、そのことを告げなくても今までとは同じ関係ではいられないことははっきりと分かっていた。
「昆奈門さまは私の顔をどう思いますか?」
高坂の思わぬ質問に、雑渡は目を丸くさせた。
「わたしはお前の顔は……男にしては綺麗だと思うよ。でも、どうしてだい? お前は顔の造形のことを言われるのを一番嫌がっていたのに」
高坂は、物心ついたときから自分のおなごのような顔立ちを好きになれなかった。
「顔が綺麗なら抱きたいと思いますか? 私を……」
雑渡の目が瞬いた。次いで、何かに気づいたように蒼白な顔つきになる。大股で高坂の方へ迫ってくると肩を掴んだ。
「……先の忍務報告の時、殿から聞いた。新しい稚児を迎えると……。まさか、お前…… 」
高坂は顔を歪めた。いずれ明らかになってしまうのだろうが、雑渡にだけは知られたくなかった。
「本当なのか。お前なのか……」
雑渡は痛みに耐えるように口を引き結んだ。まるで、思い切り頬を張られたとでもいうように顔をしかめている。
高坂はもう、いろんなことがどうでもよくなった。肩を震わせて笑う。
「バカみたいだ……。殿はこの顔のことを噂でしかご存知ない。それなのに、私を稚児に召抱えたいとおっしゃられた。私を忍びではなく稚児にしたいと……閨の供にしたいと……。今まで私がやってきたことは何だったのです。こんなことなら稚児の作法でも勉強しておくんでした」
「もういいよ……すまなかった」
雑渡は詫びた。何を詫びることがあるのか高坂には理解しかねた。悪いのは高坂だ。運命を受け容れきれない高坂自身だ。高坂の胸は痛んだ。けれど、それ以上に痛みに耐えるような顔をこの男は見せている。
痛いのはどっちだ。
高坂が痛ければ、雑渡も痛むのか……。
「きっと、名誉なことなのです。武将の子息からしてみれば喉から手が出るほど羨むべきことなのでしょう。出世への一番の近道なのですから……」
「けど、お前は侍じゃない」
「ええ。その通りです。私は忍び……。忍びになりたかった者です。この身一つの振り方で多くの者の運命を左右することになるでしょう。私は皆のことが好きです。里を焼かれることになるくらいなら、私の夢一つ潰れることくらいなんということはない。なんの痛みにもならない。この貧相な身であがなえるものがあるのなら……それは私の限りない喜びとなるでしょう」
最後は泣き笑いのようになってしまった。
雑渡は高坂を抱きしめた。高坂の小さな身体は雑渡の中にすっぽりと包まれてしまった。
「もういい」
雑渡はそれだけを言うと高坂をずっと抱きしめていた。脈打つ音が耳に響く。
安心した高坂の目から滴が零れた。
夢が潰れたら痛い。
里が焼かれ、父や母や皆が焼かれたらもっと痛い。
この世に雑渡がいなくなるのは、もっともっと痛い。
だから、高坂の身一つ傷めればいいのだ。
それなのに。
稚児になどなりたくはなかった。
「もう、どうにもなりません。どうにも……」
雑渡に助けを請いたかった。けれどそれは無理な相談だ。
高坂の頼りない肩にはたくさんの命が掛かっている。その複雑な事情が分からない雑渡ではないだろう。
雑渡の傍で、同じ隊には入れなくとも同じ忍びとしてその道を究めたかった。
しかし、その些細な夢さえも今の高坂には遠く感じられた。
夢が壊れてしまったのなら、せめて……。
「私に手ほどきをしてくださいませんか?」
高坂は雑渡の腕の中で身を小さくして言った。
「え……?」
雑渡は理解できないという風に目を瞬かせた。
「私に稚児の手ほどきを……。私をおなごと見てくださって構いません。だから、ぜひ……」
雑渡の歳で女人の肌を知らぬわけがないと高坂は算段した。
無理を言っているとは思うが高坂にはそういう経験がない。だったら、よく見知った大人である雑渡に作法を乞うしか手立てがないと思ったのだ。
帯を解こうとした高坂の手を雑渡が掴んだ。
「本気なのか?」
雑渡の目は鋭かった。高坂が今までに見たこともないような、鋭利で粗悪で獲物を狩るけものの眼だった。
その眼に気を取られた一瞬の隙に、高坂は手首をつかまれ床に押し倒された。薄暗い中 、雑渡の双眸だけがやけに光って見えた。
高坂は恐ろしい中にも甘美なときめきを覚えた。こんな感情は生まれて初めてだった。
「手加減できないぞ……」
雑渡の低い声に、高坂は唾を飲み込んだ。
「はい……」
高坂は雑渡の目を見つめていた。全身が強張っていた。誰かに身体を開くことなど初めてなのだ。
恐ろしくはない。恐ろしくはないはずなのに、なぜか身体が震えた。終いには両の目から涙が零れる始末だった。
「本当のことを言え」
「え?」
雑渡のやさしい物言いに、高坂は弾かれたように顔を上げた。雑渡の眼は穏やかだった 。
「自分の身体を安売りするな。お前はとても綺麗だ。顔も身体も心も。わたしなんかが手をつけちゃいけない」
「昆奈門さま……」
「お前は……いつか心の底から誰かを好きになる。もっと自分を大事に慈しみなさい」
「でも、私は殿の稚児となる身なのです。慈しめと言われても……」
雑渡は力を抜き高坂を解放した。脇の下に手を入れて高坂を起こす。
「お前がわたしに言うことはそういうことじゃないだろう。もっとわたしに言わなくちゃいけない大事なことがあるだろう」
「大事なこと……」
「わたしの前で強がってくれるな。そんなにわたしは信用がないか? お前の望みを言え。本当はお前はどうなりたいんだ。どうしたいんだ」
「私? 私は忍びに……」
高坂の口から出てきたのは諦めかけた夢だった。
「私は昆奈門さまを助けられるように強くて立派な忍びになりたいのです」
高坂は自分の願望をはっきりと語った。両親にも明言したことはなかった。
「よく言った」
雑渡は褒めるように高坂の頭を撫でた。
高坂は曖昧に笑った。たとえもう叶わなくなってしまった夢だとしても言うことは自由だと思った。それに、雑渡にだけは知っておいて欲しいと思ったのだ。
夢を叶えることはできなかった。けれど、雑渡の傍にいられたからこそ夢を見ることができたのだから。
「ちょっと家を空ける。留守居を頼むぞ」
そう言うと、どこへ行くとも告げずに雑渡は屋敷を飛び出してしまった。わざわざ忍び装束に着替えて。
仕事でも思い出したのかと思い高坂は留守番にいそしんだ。雑渡に自分の本心を語ったことで、いくぶんが落ち着きを取り戻していた。
それに稚児といってもその寿命はある。忍びとして働くのはそれからでも遅くはない。
そんなことを考えながら眠りについた。
翌朝、高坂が目にしたのは変わり果てた顔の雑渡だった。
「ど、どう、どうしたのですか……?」
思わず声が上ずる。
雑渡の頬は赤く腫れあがり、線で掻いたように血の筋がいくつも滲んでいた。
雑渡は何も言わなかった。ただ何を訊いてもへらへらと笑うだけだった。
高坂は理由を聞くのは諦めて、雑渡の頬を冷やすことに専念していた。
「いい年して喧嘩でもなさったのですか?」
「そんなようなもんさ」
雑渡の頬の腫れが幾分か引いたのを確認して、高坂は一度家に戻ることにした。丸一日も家を空けたのでは何を言われるか分からない。
家に帰ると開口一番、父親に呼び止められた。
お叱りを受けるかと思いきや、父親は黙って一通の書面を高坂の鼻先で広げた。
「どうやら、お前は稚児の任を解かれたらしい」
「ええ?」
あまりにも急な展開に、高坂は驚かずにはいられなかった。
書面の字を目で追うが、なぜ任を解かれたかという理由は書いていない。
喜びよりも、なぜ、という疑問の方が気味悪く渦巻いた。
「雑渡殿に感謝せねば」
高坂の父はぼそりと言った。高坂は耳を疑った。雑渡の頬に滲んだ赤い筋が頭をよぎる。まさか、と思った。
「まさか、昆奈門さまが私をお助けくださったのですか……?」
高坂の勢いに圧されたのか、父親は深く頷いた。
あの怪我は高坂のために負ったものだったのだ。
高坂は愕然とした。
雑渡が二十余年をかけて積み上げてきた様々なものを、高坂に手を差し伸べたために一瞬で失ってしまったかもしれないのだ。
雑渡の慈悲深さにどう報いればいいのだろう。
分からない。
けれど、今、高坂が行くべき場所は分かった。
つづく 20120627