十五年目 4
伊作は近年稀に見る落ち込み方をしていた。日もどっぷり暮れた長屋の自室でため息ばかりついている。
「元気出せよ。お前らしいじゃん」
同室の留三郎は必死に励ました。
「こんな、らしさ、は要らないよ」
「大したことないって。ちょっと怒られただけだろ」
伊作は首を激しく横にふった。
「ちょっとどころか。大噴火って感じだった……」
伊作は先刻まで、夏休みの課題について説教を食らっていたのである。
伊作に与えられた課題は本来四年生がやる予定であった、タソガレドキ軍の旗をとることだった。一度は課題を成功させたものの、合戦場で怪我の手当て用の包帯としてそのタソガレドキ軍の旗を裂いてしまったために今一度、合戦場に赴いたのだ。
「下の学年がやることもまともにできなくてどうするって思いしか怒鳴られたよ」
六年間ずっとこんな調子だ。
確かに、与えられた課題をどんな理由があったにせよ、やり遂げられなかったことにはいささか問題がある。忍びとはどんな手段を使っても目的を達する者なのだ。一生懸命やったけど出来ませんでした、ではお話にならない。乱暴な言い方ではあるが、もとより過程などはどうでもよく、結果が全てなのだ。結果を出すまでは励まなくてはならない。
「一度失敗しても、二度目で結果を出せたんだからいいじゃないか」
「一度で出来なかったから怒られたんだよ」
「まあまあ。怒ったっていっても、先生は納得してくれたんだろ」
「うん。でも……忍たま、だから許されたんだよね……これが本職の……それこそ城の命運を担うような忍務だったら……」
考えただけでも恐ろしい。
「安心しろ。伊作みたいなドンくさいやつが城の危機に関わるような忍務に関わることなんてないから」
「ひっどーい」
「これでも慰めてんだぞ」
落ち込む伊作に、留三郎は苦笑いになった。
「分かってるよ。ありがとう」
伊作は神妙な面持ちで礼を言った。
認めたくはないが、伊作は他の同級生と比べると少し体力的に不安が残る生徒だ。加えて、生まれながらの不運も背負っている。
忍術学園の入学時に必要なのは金だけである。しかし、そこを卒業するには忍者として生きていくためにあらゆる力を身につけなけらばならない。そうでなければ卒業など到底かなわないのだ。生徒たちは進級のたびにふるいにかけられる。一年生のときはあんなに大勢いた仲間も六年生になってみれば両手で数えられるくらいに減っていることもある。学年が上がるにつれ生徒達は学園の厳しさを痛感することになるのだ。
忍術学園において頼りない伊作が六年生まで残ることができたのは、一にも二にも、留三郎をはじめ、親切な同輩たちのおかげである。失敗して落ち込むたび、仲間に励まされた。天性の不運性により物事が上手くいかないとき、自分ばかりか他人まで巻き込んでしまったとき、それでも仲間は伊作を見放さなかった。伊作に関われば絶対に損をするのに、それでも誰一人として伊作から遠ざかっていく者はいなかった。
だから伊作も頑張れた。
人の無償のやさしさにどうにかして応えたいと思った。
その決意が本当に自己満足で意味のないものだったとしても、伊作の存在なんて意味のないものだと思われていても。
「そういえば」
留三郎が呟いた。
「タソガレドキの足軽から具足を貰ってたよな」
「うん。大事にしまってあるよ」
夏休みの課題のため二度目に合戦場を訪れたとき、伊作はタソガレドキ兵の手当てをしたのだ。その男、最初は包帯を分けてくれと伊作に声をかけてきたのだが、足に歩けないほどの痛みがあったらしく、その場に崩れてしまったのだ。古傷の悪化と新しい傷とで大層具合の酷いタソガレドキ兵だった。全身を包帯で巻かれ、顔は僅かに右の目だけが覗く。
しかし、そんな容姿にも傷の具合にも特に頓着することなく伊作はいつも通りに手当てをしたまでだ。礼など求めてはいない。けれど、そのタソガレドキ兵が御貸具足をくれると言ったのだ。断るのも悪い気がして受け取ったのだが、しかし。ただの手当ての報酬にしては豪勢すぎる。
それに具足を失くしては、戦えないではないか。いや、怪我を負った身体では当面の間は足軽として使いモノにはならないだろうが、それでもこれから先があるだろうに具足をはずしてしまうだなんて。
どういうつもりなのだろう。
それに具足は本来身を守るためのものであるが、合戦場で命を落とすかもしれない足軽たちの死装束でもあるのだ。なぜ大切なものを手放したのだろう。
果たしてあの男はどういう思いから具足など与えたのだろうか。お前みたいに甘っちょろい奴は容易く死ぬと、嫌味を込めたのだろうか。
深読みせずにはいられない。
「しっかしさ……」
留三郎が盛大なため息を漏らした。
「伊作もよくやるよ。タソガレドキ兵の手当てなんてさ」
「だって、目の前にいたんだもん。体か勝手に動いちゃって」
「その保健委員精神には恐れ入るけどさ。本当に危険だったら逃げないと駄目だぞ」
留三郎は強い口調になった。伊作を心配しているのだ。
「うん。分かってるよ」
「いいや。お前は分かってない。まったく肝が据わっているんだか、なんなんだか」
留三郎はやれやれ、という感じで肩をすくめた。
「やりたいことをやっているだけさ」
誰にどう思われようとも、ただ目の前の人の手当てができれば伊作はそれだけでいいのだ。今までだってずっとそうしてきたし、これからも変わらない。やりたいことは分かっていて、それにかける情熱は誰にも負けない自信がある。
けれど、伊作だって迷いがないわけではないのだ。
ふとした瞬間、間違ったことをしているのだろうかと、自分を見失いそうになるときもある。
それこそ、あのタソガレドキ兵には伊作が意味のない存在に映ったかもしれない。それでも、なぜか、気になってしまう。あのタソガレドキ兵は無事だろうか、と。
タソガレドキ城内の忍軍控えの館では、尊奈門がしきりに刀を抜いたり戻りたりしていた。
「何だ尊奈門。朝っぱらからうるさいぞ。落ち着け」
「今からの出陣に備えて士気を高めているのです」
抜き身の刀を上段から振り下ろし、続けてそれをなぎ払うように横に滑らす。連子窓から細く差し込んだ初秋の陽が、その刀身をきらりと光らせた。
尊奈門はかなり張り切っているらしい。それもそのはず。今の今まで怪我の静養のため戦線から外れていたのだ。負けん気だけは強い尊奈門だから、きっと合戦場に残してきた仲間を意識しているのだろう。
「あのねえ。オーマガトキには忍びがいないに等しいんだし、加えてタソガレドキは優勢。刀を使う機会なんてないと思うよ」
そうじゃなくても普段から忍者の仕事としては主に情報収集や工作に重点を置くため、敵前で刃を交えることは少ない。
「そんなこと分からないじゃないですか。人生っていうのは、いつ何があるか分からないものですよ」
「何でわたしがお前に人生語られなきゃならないのさ」
「とにかく、私は怪我して動けなかった分、身体がなまっていますから。いざってときに太刀筋が鈍ると嫌なので、こうして刀をふるっているのです」
「お前、元気な時でも陣左に勝てないじゃん」
雑渡は息をついた。
「そ、それを言わないでくださいよ。あんまりです。言葉の暴力です。ああ、悔しい悔しい。今度こそ高坂さんには絶対負けません」
尊奈門は癪を立てた。悔し紛れに刀をぶんぶん振り回しはじめる。どうも尊奈門は感情に左右されると力んでしまい、無駄の多い動きになってしまうらしい。このいくさが終わったらみっちりしごかねば、と思いながら雑渡は尊奈門を眺めていた。
身体の調子を取り戻した雑渡たち帰還組みは本隊と合流することになった。
タソガレドキ、オーマガトキと戦。一ヶ月以上も続く長い戦だ。とはいえ、タネも仕掛けもある戦である。裏で糸どころか、ぶっとい荒縄を引いているようないくさだ。勝敗はすでに決している。というよりかは、余程の信じられない素晴らしい奇跡でも起こらない限り、タソガレドキ有利なのは一目瞭然だった。夏の時点でタソガレドキはオーマガトキを押さえているわけだから、今ダラダラと続けている合戦など大掛かりな芝居にすぎない。タソガレドキはオーマガトキと繋がり、制札欲しさに献上された品々の一部をオーマガトキに渡すことで見解の一致を見せている。
しかし、これらの裏事情を知っているのはタソガレドキ城主以外では一部の上層の人間と忍者隊の雑渡と山本だけだ。敵味方問わず、武将以下、足軽、忍びにいたるまで、皆本気でいくさをしている。させられている。確かに、隣国の勢力を削いで従わせるために必要な布石かもしれないが、それでもその裏では膨大な人間が踊らされているのだ。
雑渡は実態を知りながらそれを口外することは許されない立場だ。もはや自分など居ても居なくてもどっちでもいいとさえ思えてくる。だって、役に立たないのだから。すべてを知っていたとしても誰を助けることも何を変えることも出来ない。けれど、自分に何かを成す力があると思うこと自体、ただの傲慢だと分かっている。
成す力、か。
雑渡は静かに目を閉じた。眼の裏にあの夏のことがよみがえる。雲一つない青空。強い日差し。珠の汗。当たり前に身の回りにあるものを初めて意識した。生きているんだと思えた。
そして、生かされたのだと思った。
あの年端もいかない少年、善法寺伊作に、雑渡は生かされたのだ。
声をかけたのは雑渡の方からだった。少年のしていたことはまさに奇行で、平時であれば正体を探りはすれども、進んで世話になろうなどとは思いもしないだろう。しかしあのときは有事だった。雑渡も果てるわけにはいかなかった。忍務の途中での死は決して許されない。敵の罠とも受け取れたが、雑渡は自分の目で見たものを信じようと思った。雑渡の視線の先でけが人を手当てする少年はやさしく笑っていた。
あの合戦で伊作は多くの人を助けた。伊作は手当てした相手の名前も育ちも知らない。何も知らない。今日その場で出会った者ばかりだ。それでも誰かの力になり、勇気になり、たくさんの明日を守った。
すべてを知っていても誰も助けられないし何も変えられない雑渡とはまったく違う。羨ましいと思う以上に圧倒されてしまう。武器を用いない、誰も傷つけることのないその剛力さに震撼させられる。何度もあの夏が雑渡を焚き付ける。心が逸る。触れてみたくなる。もっと知りたくなる。
仲間や敵対する者を把握しようとするのは当たり前だが、何も関係ないあの子どものことを率直に知りたいと思う。伊作のことを侮り、軽視しているわけではないし、ただの興味本位でもない。魅かれるのだ。難しいことなど何もない。本能で魅かれているだけだ。青空も陽の光も汗も。雑渡を生かす全てのものを与えてくれた伊作に感謝や尊敬の念を通り越して、何かもっと特別な魅かれ方をしている。
自分は誰かに何かを与たことがあっただろか。
雑渡は自問した。
感謝されたいわけでも尊敬されたいわけでもない。
けれど。
伊作のように何かを与えたことがあるだろうか。周りの状況に振り回されて目を瞑ったことの方が多くないだろうか。心を殺し、そのまま心を腐らせてはいないだろうか。
自問が自問のまま終わらない。
だからこそ、今の自分の組頭という肩書きが薄っぺらいものに思えてくるのだ。
「茶番、だよな……」
雑渡のぼやきを、尊奈門は聞き逃さなかった。
「何が茶番ですか。私はいつだってタソガレドキのために本気も本気ですよ。そりゃ組頭からみたらわたしの忍術なんてまだまだ茶番かもしれませけど――」
「茶番どころか、ママゴトだな」
皮肉な口調が尊奈門を遮った。振り返る尊奈門を高坂の冷徹な眼が睨んだ。そのまま尊奈門の脇をすり抜けると雑渡の前に膝をついた。
「遅くなり申し訳ございません」
高坂はさっき後輩に向けた冷たい視線など忘れたかのようにしおらしくなる。遅くなったとは言っても、高坂が出かけたのは昨日の朝だ。そのたった一両日の間にタソガレドキ本陣に顔を出し、中継地点を繋ぎ、必要な情報を探るというすべてのことを一人でやってのけたのだ。雑渡はもちろん高坂であれば問題なくこなせると思って行かせたのだし、高坂も難なくやり遂げた。剣術もさることながら、情報収集能力も最高のものを備えているのが、いかにも雑渡の側近らしい。
「おや、おかえり陣左。どうだった」
雑渡は悶々とした悩みを頭から剥がした。心配性の高坂を煩わせたくはない。
「はい。組頭のお考え通りにオーマガトキ領の村々からは続々と――」
雑渡は高坂の報告に黙って耳を傾ける。粗方を聞き終えると顎を引いた。
「そうか」
「それからもう一点」
高坂は早口になって付け加えた。
「これは私が直接に見たわけではないのですが、下からの繋ぎによると、園田村の人間が忍術学園に協力を仰いだとか……」
にわかに、雑渡の顔色が変わった。ほんの一瞬ではあったが、誰が見ても明白なほど確かに変化した。
「なるほど」
それだけ言うと、しばし雑渡は押し黙った。
忍術学園。六年は組。保健委員長。善法寺伊作、か。
筋書き通りに進むかと思われた茶番劇の結末が音を立てて変わっていくのが見えた。
分かってはいたけれど、忍術学園……大川平次渦正とはとんだ食わせ者である。
雑渡の唇がめくれ上がる。
この絶好にして一隅の機会を逃すなど本当のうつけだ。このお膳立てに乗じないわけはない。
「誰の何がママゴトですって」
尊奈門は憤慨しているのか、何やら唸っている。その怒りの矛先は高坂に向かっているようだ。
「おい。まだ報告が終わっていない。報告の途中に口を挟む奴があるか。いくらガキだからってそれくらい分かるだろ。弁えろよ」
「い、今。ガキって言いましたね」
「おう。言ったぜ。ガキにガキって言って不都合か? 悔しかったら大人しくしてな」
「きー」
尊奈門は歯軋りした。
「もう絶対、高坂さんよりも活躍してやる! 今回のオーマガトキとのいくさ、忍者最優秀賞に輝くのは私です」
タソガレドキ忍者隊ではそれぞれの忍者の活躍に対して報奨が与えられることになっていた。場合によっては金一封が出ることもある。しかし、尊奈門をはじめ他の者達も、金に目が眩んで賞を取りにいくわけではなく、ただ単に負けず嫌いなだけなのだ。そうして競い合うことでタソガレドキ忍者の質は日々向上している。
「それは無理かもしれないぞ」
今度は雑渡が遮った。
「なぜです。確かに実力は高坂さんには劣りますが私だって頑張れば」
「そうじゃなくて……。うん、まあいいさ。この度の出陣、わたしの都合でお前達を振り回すかもしれない。それでもついてきてくれるか」
その言葉に尊奈門は目を見開いた。
「組頭……それって、どういうことですか?」
尊奈門は首をひねった。
高坂は小さく息をついた。その表情は雑渡がこれから起こすであろう何かを分かっている風であった。
善法寺伊作の所属団体である忍術学園はオーマガトキ領の村に加勢することになる。タソガレドキとは敵同士になる構図だ。
雑渡と善法寺伊作は事実上、対立することになるのだ。雑渡は恩がある人間を傷つけることになる。それは雑渡の主義に反するのだ。
高坂は雑渡の内心を的確に捉えていた。一方の尊奈門は事情が呑めずに目をうろうろさせている。
「お前達の力は必要だ。しかし、お前達の望むような仕事はさせてやれないかもしれない。元々、殿から正式な出陣要請はきていないんだ。ただ、出来るだけ協力し尽力しろと言われているだけだ」
夏のいくさでタソガレドキ忍者隊はそれ相応の功績を挙げ、自軍の勝利に大きく貢献している。しかしながら、被害も甚大だった。雑渡自身も負傷している。それに加え、タソガレドキの勝利は確定してる。城主はそのことを考慮し、この度のいくさは控えてもいいと言ったのだ。
「強者が弱者を組み伏せるのは物事の道理だ。強くなければ負ける。負けたら終わりだ。国も民もなくなる。だからどんな手を使ってでもタソガレドキに勝機をもたらさなければならない。それがわたしたちタソガレドキ忍者の業だ。けれどな……」
雑渡は目を伏せた。
「お前達もうすうすは気づいているんだろう。もう、とっくの昔にウチとオーマガトキとの勝負はついているんだ。今の状態はおかしいんだよ……。恥ずかしながら、今のわたしたちにはタソガレドキとオーマガトキの間にある無意味な謀を止める手立てはない。でも、その謀を飛び蹴り食らわす勢いで阻止しようとしている第三者がいるんだ。自軍を不利にするつもりはない。けれど、打開策があればいくさは早く終わる。無益な騙し合いも終わる。傷つく人も少なくて済む」
そう言いながら、雑渡は自分の二の腕辺りをさすった。伊作の手がとても温かかったことを思い出していた。
「また、彼に会えるかもしれませんね」
高坂は雑渡の耳元で囁いた。
「え?」
雑渡は顔を上げた。高坂は何でもない、という風に首を振った。
「面白いことでしたら、大歓迎です」
高坂は張り切った声を上げた。
「一応協力しろと命が下ったのならば我々も行かなければ。第一、園田村はタソガレドキとことを構えるつもり満々なんですから……なあ、尊奈門もそう思うだろ」
「え、あー、はい」
高坂に問いただされ、尊奈門は状況が呑めていない顔で大きく頷いた。
「このように尊奈門も納得しております」
「納得っていうか、陣左が無理やり頷かせたんだけどね」
「問題ありません」
「陣左的には、ね」
「すべてにおいて問題ありません。あなた様はタソガレドキ忍者隊の頂点。どうぞ、思い切りご自身の良心に従ってください。我々は組頭についていくだけです。私たちは組頭の最高の剣でありたいと思っているのですから」
「……陣左」
「そうそう。組頭に振り回されるのはいつものこと過ぎて、慣れちゃってますから。今更、屁でもありませんよ」
力強く言う尊奈門の頭を、高坂がはたく。
「お前、屁とか言うなよ。組頭の命令は屁以下か」
「……いや、もう屁のくだりはいいから」
雑渡は苦笑いを浮かべた。
「ホント。高坂さんって真面目なんだから」
尊奈門が腹を抱えて笑った。高坂がものすごい形相で尊奈門にせまっていく。
逃げ惑う尊奈門の悲鳴を遠くに聞きながら、雑渡は床に照りかえる光を見ていた。
その淡い光を見ながら、あの保健委員長が悲しんでいなければいいと思った。
つづく 20120427