十五年目 5
雑渡が告げたとおり、タソガレドキ忍軍は園田村とのいくさには関与してこなかった。
伊作は園田村でそのタソガレドキ忍者隊の忍び組頭である雑渡に会った。伊作自ら望ん でそうなったわけではない。
雑渡の方から伊作を訪ねて来たのだ。園田村のお堂で保健委員として作業をしている時 、突然に曲者が舞い込んできたと思ったら、その人物は「ひさしぶり」などと言ったのだ 。保健委員として、敵味方関係なく接してきた伊作ではあるが、はたして曲者の知り合い などいただろうかと首をひねって考えた。
曲者がタソガレドキ軍の忍びだと分かって伊作の中ですべてが繋がった。なんと、雑渡 は伊作が夏に潜り込んだ合戦場で手当てをしてやった人物だったのだ。
伊作はそのことを知った時、雑渡に再び会えた嬉しさよりも驚きの方がはるかに勝って いた。まさか、雑渡がこんなにも早く回復するとは思ってもみなかったのだ。
伊作が夏の合戦場で雑渡を見立てた時、雑渡の身体はかなり酷い状態だった。しかもそ の際に伊作が雑渡に施すことのできた手当ても、最低限の本当に応急のものでしかなかっ た。到底、相手を本復させるという代物ではなかったのだ。それなのに雑渡は脅威の治癒 力でも持っているのか、それとも、怪我が治りきっていないのに活動しているのか分から ないが、あの時、伊作の目の前に現れたのだ。
雑渡は随分と義理堅い性格らしい。夏に治療してくれた伊作への礼として、タソガレド キと園田村の戦に介入しないと宣言した。
話半分に聞いていた伊作であるが、あの雑渡という男は伊作との約束を守ってくれたこ とになる。にわかには信じがたいが、しかし事実は事実だ。
そして、雑渡が伊作のことを記憶していたことも信じられなかった。確かに、二言三言 、言葉は交わしたが、それだけだ。互いにじっくり顔を見たわけでも身の上を語り合った わけでもない。その時は、雑渡は伊作の名前を知っていたかもしれないが、伊作は何も知 らずにいたのだ。つまり印象に残るほどではないはずなのだ。
それなのにどうしてか伊作も雑渡を忘れられずにいた。
今頃、どうしているだろうか。
怪我は化膿していないだろうか。新しい怪我をこさえていないだろうか。今、何をして いるのだろうか……。
ふとした瞬間に取り留めのないことを考えてしまう。
考えてもどうにもならないことを……。
秋の夜の澄んだ空気を吸い込む。医務室から空に浮かんだ月を眺めていると、その月が 翳った。
ちがう。急に伊作と月の間に男の顔が割り込んできたのだ。伊作は驚いて仰け反った。
雑渡だった。
「こんばんわ。曲者だよ」
雑渡は言った。月の光を背に受けているのでどんな顔をしているのかは分からない。
しかし、雑渡の表情に頓着できるだけの気持ちの余裕が伊作にはなかった。
どうしてこの人がここに。
驚きと疑問が混ぜこぜになり、伊作はしばらく動けずにいた。
「おーい。聞こえてる?」
雑渡の手が硬直した伊作の眼前で振られた。伊作は我にかえった。
「そこを動かないでください」
そう言い残すと、雑渡をそこに突っ立たせたまま、伊作は駆け足で医務室を出て、駆け 足で戻ってきた。その手には二つの湯呑み茶碗が乗った盆を持っている。食堂まで行って もらってきたのだ。
「よかった。まだいてくれたんですね」
伊作は笑みを浮かべた。忘れられずにいた相手がこうして伊作を訊ねてきたのだ。どん な理由で来たにせよ、もてなしもせずに帰すなど失礼だと思ったのだ。
「君がここを動くなと言うから動かずにいただけだ」
「そうでした。済みません。お客様を立たせたままで……」
伊作は自分の非礼を詫びた。
「いや別に。わたしはお客様じゃなくてただの曲者だからね」
伊作は少しだけ笑った。おかしかったのだ。雑渡は自分のことをただの曲者と称したが 、曲者にただも特別もあるわけがない。この男、意外と洒落っ気がある。それとも伊作が 舐められているだけなのだろうか。
「仮にあなたが曲者だったとしても、僕を訪ねてきた曲者でしょう。だったら僕のお客様 で間違いありませんから。えーっと、まあお茶でもどうぞ」
伊作は医務室の戸を開け、雑渡に入るよう促した。室内から仄かな明かりが漏れる。伊 作が作業をするために灯心に火がついたままになっている。
雑渡は肩をすくめながら招待を受けた。伊作も続いて入ると静かに戸を閉めた。
「ホント、忍者に向いてない」
そう言いながら、雑渡は遠慮もなく床に座った。
「え?」
伊作は雑渡の前に湯呑み茶碗を置いた。
「え? じゃなくて。まぁ、この室内に入る時、わたしに背後を取らせなかったのは的確 な判断だと思ったけどさ。でも、曲者であるわたしと鉢合わせてさ、君は「そこを動くな 」って言ったよね」
「はい」
「普通は応援を呼んできてわたしを捕縛しにかかるんじゃないの? どこの世界に曲者に 茶を振舞うやつがいるのさ」
呆れるというよりかは可笑しそうに雑渡は言った。
「……あなたの目の前にいるじゃありませんか」
伊作は俯いた。恥ずかしかったのだ。確かに雑渡の言うとおりだ。大してよく知りもし ない人物で敵……とまでは言わないが、未知であることだけは確かだ。雑渡は自ら敵だら けの忍術学園に侵入してきたわけだが、それも雑渡の手に掛かれば見易い敵だろう。いく ら伊作が自分の陣地である学園の医務室にいて、いつでも助けが呼べる状況であったとし ても、そんなことはこの男にとって何の問題にもならないのだ。今の伊作の生命は雑渡の 手に掛かっているといっても過言ではない。忍者が云々言う前に危機管理能力の問題だっ た。侵入者を追い出すどころか招きいれ、今は湯呑みを挟んで向かい合っている。ついで に言うと、雑渡の後から医務室に入ったのは、雑渡に戸を閉めさせるのを悪いなと思った からに過ぎない。
「まあ、招待に乗るわたしもわたしだから、人のことは言えないのだがね」
雑渡は伊作を庇うように言うと覆面を取った。口元があらわになる。顔の形がよく分か る。
夏の合戦場で一度は雑渡の素顔を見たとはいえ、落ち着いた場所で改めて差し向かうと 、伊作の中に落ち着かない気持ちが生まれた。
その顔の半分は包帯で隠されているとはいえ、その起伏と露になっている部分を見れば 、雑渡の造形が整っていることくらいは容易に分かる。
「……よろしいのですか?」
「うん?」
伊作の問いに、雑渡は首を傾げた。
「いや、頭巾。素顔が丸見えですよ」
「いいのさ。大事な部分は隠れているから」
雑渡は股の辺りに手をやった。
「確かに……って、そこじゃなくてっ! そこも大事ですけど……」
伊作は完全に雑渡の調子に乗せられていた。けれども、決して嫌ではない。まるで、年の離れた旧友に久しぶりに再会した心持ちだった。
積もる思い出話など一つもないくせに、話したいことが山ほどあるような気がしてならなかった。
不思議と伊作の心は浮き立っていた。楽しく、愉快な気持ちだった。身体も心も軽くなる。
「あなたって意外と――」
「雑渡昆奈門だ」
伊作の言葉を遮り、雑渡は改めて名乗った。
「えっと、雑渡さんって意外と、お茶目なんですね」
伊作は可笑しくなって笑った。
「曲者を招き入れて茶を振舞う君には負けるよ」
「あははは……」
今度は伊作は苦笑いになった。
「でも、まあ、忍びたる者、洒落っ気の一つや二つはないとね」
「じゃあ、その点、僕は合格ですね」
「君のは洒落じゃなくて、本気でやっているから怖いのさ。まったく笑えないよ」
それは、曲者を招き入れ、茶を振舞った行為を言っているのか。
それとも、合戦場で誰彼構わず手当てをした行為を言っているのか。
どちらにしても笑えなければ洒落ではない。
「……不合格ってことですね」
「合否はともかくとして。伊作くんが本気でやってくれたから、わたしたちは助かったんだけどね」
降参をするように、雑渡は両の手の平を見せた。
「合戦場のことですか?」
伊作が膝を乗り出すと、雑渡は静かに頷いた。
先ほど落ち込んでいたことなどすっかり忘れたように、伊作は晴れやかな顔になった。
伊作は、雑渡の傷の具合や、雑渡の部下たちの様子を夢中になって質問した。雑渡は、それら一つ一つに丁寧に応えていたが、不意に伊作の額を指差した。
「君こそ、頭のコブと足の痣は治ったのかい」
伊作は園田村で立ち去る雑渡を追おうとして綾部の掘った蛸壺に嵌り怪我をしていた。
「君は人のことばかりだ」
「……そうですよね。失礼ですよね。仮にも雑渡さんは忍びなのに。あれこれ探りを入れるようなまねをしてしまって……。不快にさせたのなら謝ります」
伊作の声はしぼんでしまった。雑渡の言い分はもっともだと思った。
自分の面倒も満足に見れないのに、いつも他人のことばかりに気を掛けている。合戦場では誰彼構わず手当てをし、足元不注意で蛸壺に嵌った挙句、曲者を易々と招き入れ茶を 振舞っている。こんなことでは、呆れられても当然だ。
改めて自分の性格を思い知り、伊作は肩を落とした。
「隙がありすぎ」
雑渡の低い声と同時に伊作の視界が揺らいだ。不意に肩を押され、背中から床に倒れる。反射で身を起こそうとするが、伊作を床に押さえつけるように雑渡が覆いかぶさってきた。雑渡の膝が茶碗に当たり、中身が零れ床に広がる。
突然のことに伊作はぽかんとし、目を瞬かせた。
「……あの火傷しませんでした?」
間抜けなことを訊いているなと思いつつ、伊作は茶碗を倒した雑渡の膝を気遣った。
「またそれか。ちょっとは自分のことを心配したらどうだ」
力で制圧されている今の状況を省みない伊作に、雑渡は低い声で応えた。薄っすらとした怒気を感じた。いよいよ、伊作が癪に障ったのかもしれない。
伊作は泣いて騒ぐことも暴れることも助けを呼ぶこともしなかった。何もしなかった。身じろぎ一つしなかった。ただ雑渡の目をまっすぐに見つめていた。
不思議と恐怖は抱かなかった。どちらかといえば、高揚さえ感じていた。
雑渡の人生にとっては取るに足らない存在であるはずの伊作が、雑渡の平静であるべき 心を苛立たせ怒らせ揺さぶっている。雑渡が無数の感情を持て余し、それでも確実に伊作 と向かい合ってくれている証拠だった。子どもだからと軽んじていないのだ。そのことが 、ただただ、この男から目が離せなくさせた。息をすることすら惜しい。
「……君は人を疑うということをしないのか? 君はわたしがここへ来た目的を問い詰める様子もないが……」
「教えてくださるのですか?」
「うん?」
「雑渡さんがここへ来た目的を、教えてくださるのですか? 聞いたところで無駄だと思 い、あえて何も言いませんでした。それに、雑渡さんの目的が分かったところで何も変わりません。僕はあなたにお茶を振舞ってあなたと差し向かって話をするでしょうね」
雑渡は手刀を作り伊作の首の側面に当てた。冷やりとした感触が首の一点に止まる。
「わたしがよこしまな気持ちを抱いて君の元を訪れたのだと言ったらどうする?」
雑渡の眼光が細くなる。
「あなたは……雑渡さんはどうしたいのですか?」
伊作は怖じけることなく問いに問いで返した。駆け引きをするつもりなど毛頭ない。ただ純粋にこの男が何をしたいのか、伊作に対して何を求めているのかが知りたかった。
「雑渡さんは僕をどうしたいのですか? そのよこしまな気持ちで僕をどうしたいのですか? あなたなら手刀で人の命を絶つことも容易いことでしょう」
「それはそうだね。でも君を殺めることより辱めることの方がおもしろそうだ」
「は?」
「君を無理やり抱くと言ったんだ」
雑渡は淡々と宣言した。
伊作は再び口をあんぐりと開けて呆然とするしかなかった。
「……冗談を……」
「はぐらかされると、なんだか煽られるね」
「そんなつもりは……」
「あの時、わたしなんか助けなければよかったのにねえ。そうすれば君がこんな目に遭うことはなかったんだ」
「何を」
「今、君に降りかかっている厄災は君自身の落ち度だ。そうだろう。そう思わないかい。わたしのことなんて見捨てればよかったのに……」
一瞬、ほんの一瞬だ。雑渡が泣いたように見えた。実際、泣いてなどいない。この男は本物の忍びだ。決して人前で泣いたりはしないだろう。けれど、なぜか、伊作には雑渡が 悲しみをぶつけてきたように思えてならなかった。
「どんな目に遭ったって、雑渡さんを見捨てることに比べればどんな苦にもなりません」
「酷い目に遭ってもかい?」
「……ええ」
「命を懸けてやるようなことじゃないだろう」
「それでも……。僕が一番に怖れているのは後悔することです。雑渡さんには生きて欲しかった。でも、そう思うことが間違っているというのなら、きっと、僕は雑渡さんが言う ところの酷い目に遭っても仕方がないのでしょう。だから、大人しくあなたに組み敷かれ てもいい……」
「……」
「雑渡さんの言いたいことは分かります。僕の助けた誰かが巡り巡って僕を傷つけることになるかもしれない。僕を傷つけなくても他の誰かを傷つけるかもしれない。そういうことでしょう?」
「……ああ」
雑渡は短く応えた。もうそこに悲しみの色は見えなかった。
「僕の肌に触れてもいいです。雑渡さんのしたいようにすればいい。黙って雑渡さんの言いなりになりましょう」
伊作は少しも怯まなかった。虚勢を張っているわけではない。本当にそれでいいと思ったのだ。よこしまな気持ちで辱められようとも、片手で首を絞められて息絶えようとも構 わないと思った。雑渡の目を見たときにそう感じたのだ。
「でも、雑渡さんが助かったことが間違いだなんて絶対に言わせません。誰にも。元気な雑渡さんに逢えて、僕は……嬉しかった……」
「救いようのないお人好しだ……」
雑渡の手が伊作の首から襟にすべる。撫でられるような感触に息が詰まった。
「本当に……。君みたいな人は初めてだ」
大きく息をつきながら、雑渡は伊作の乱れた襟を直した。押さえつけていた肩からも手を放し、伊作を自由にした。
伊作は静かに上体を起こした。何もなかったかのように頬にかかった後れ毛を撫で付け耳にかける。
「悪かった」
「いえ……。雑渡さんが僕に対して苛苛する気持ちも分かりますから。僕の方こそ生意気を言ってすみませんでした」
「それでも君は自分を捨てないのかい?」
「え?」
「自分のしていることを肯定するのかい?」
倒れた湯呑み茶碗を戻すと、雑渡は持ち合わせの手拭いで床を拭いた。
「ときどき迷います。でも、結局は同じ答えに行き当たります。昨日も明日も関係なくて、僕にとってはその時、目の前で起こっていることがすべてですから。今、腕の中に倒れ た人がいたとして、昨日のこととか明日のこととか手に取れないことを考えている暇はな いですよ。だから僕は誰かを助けたことに後悔の念など微塵も持ちようがないのです…… 」
灯心を浸した油が乾いた音を立てた。ほんの一瞬、影が揺らいだ。
しばらくの間、二人は無言だった。息をするのさえ躊躇われるような静けさがあった。
「……元気だよ」
重苦しい空気を破ったのは雑渡の方だった。
「元気?」
伊作は首を傾げた。
「さっき、わたしやわたしの部下の調子について訊ねただろう?」
「あ、ああ。そうでした」
伊作は思い出したように頷いた。
「君の処置が適切だったから、わたしの体は順調に回復している。あのとき、わたしと同じく君に手当てを受けた者どもも、すっかり良くなっている。うるさいくらいにね」
伊作はほっと胸をなでおろした。
「それは何よりです。でも、油断していると傷が開いたりこじれたりしますから大事にしてくださいね」
雑渡、じっと伊作を見つめている。伊作、またまずいことを言ってしまったのかと俯く。
「なぜだ」
「え?」
伊作は勢いよく顔を上げた。
咎められると思ったのだが、しかし、聞こえてきた雑渡の声は驚くほど穏やかだった。角がない。
「再び君に問いたい。なぜわたしを助けた」
雑渡は静かに言った。それは園田村で伊作に問い質したのとまったく同じ内容だった。
「なぜと言われましても……」
「タソガレドキ、オーマガトキ……。君はどちらに肩入れするというわけでもなく、倒れている者を手当たりしだいに助けていた。なぜだ……」
雑渡はひとりごとのように繰り返した。
伊作は少し困った顔を雑渡に向けた。
「なぜあんなことをしている」
「あんな、こと?」
「矢や礫が飛び交う場所で……。刀も槍も持たない君みたいな存在が、なぜあんなことを 」
確かに、合戦場で医療に従事する者はいなくもない。しかし、彼らの多くはどこかの城のお抱えであり、その働きによって報酬を得、さらには後方に控えているものである。
「別に……僕はいくさをしに合戦場に行くわけではないので、武器は要らないんです」
「合戦場っていうのは、多くの場合いくさをしに行くところなんだけどな」
「……あ、確かに」
「どうやら君には当て嵌まらないみたいだね。合戦場のど真ん中に飛び込んで「さあ、傷の具合を見ましょう」なんて言うくらいだものね。しかも今のところどこの城にも属さず 、誰の味方でも敵でもない。金を稼ぐわけでもない。見返りなんか求めず髪を振り乱し、 ただ分け隔てなく目の前の苦しいともがく人々に真っ直ぐに向かい合う」
雑渡は淡々とした口調で伊作についてを語った。面と向かって評価を下されると、なんとはなく居たたまれなくなる。
「なぜわたしを助けた」
雑渡は戸惑うばかりの伊作に、もう何度も問うたであろうことを再び口にした。
「雑渡さんは、助けられたくなかったですか?」
伊作の質問を返した。
「そういうことを訊いているのではないのだが……」
応えに窮している雑渡に、伊作は笑った。
「園田村でもお話しましたけど、ああいうことをしているのは、僕が保健委員だからという理由に尽きますね」
「保健委員だからやらないといけない?」
「強制されているつもりはないです。僕がやりたくてやっていることでして……」
「……」
「納得できませんか」
眉根を寄せた伊作に、雑渡は浅い息をついた。その様子からは怒っているわけではなく、どちらかといえば困っているらしいのが見て取れた。
「君の仕事を非難するつもりはないが……。少しおせっかいが過ぎるんじゃないか。けが人が云々言う前に、君の方がけが人になってしまう」
雑渡の表情は真剣だった。伊作に真っ直ぐモノを言う。
雑渡は伊作の合戦場での行為を「仕事」と評した。伊作が遊び半分の軽い気持ちでやっているわけではないことを分かってくれているのだ。そう思うと、伊作の頬は少しだけ緩 んだ。
「あの、もしかして、心配してくださっているんですか」
伊作の率直な問いに、雑渡は動きを止めた。頭を一振りする。
「いや、まさか。ただ、わたしの方こそ余計なお世話かもしれないけれど、無防備な保健委員長くんに釘をさしてやらないと、と思ってね」
「はぁ……釘ですか……」
伊作は雑渡の言ったことを反復した。そうして、ずっと思っていたことを口にした。
「あの、僕も質問していいですか」
「何? いっとくけどスリーサイズは最高機密だからね」
「それは一番どうでもいいことですね」
「どうでもよくはないさ」
「いえ。ムカデの足が本当に百本あるのか確かめるのと同じくらいどうでもいい気がします」
「そうかい? みんな知りたがるんだけどなぁ。あ、じゃあ君のスリーサイズは?」
「知りませんよ。というか、仮に知っていたとしてもお答えしません。ああ。好きな治療法とか、得意な毒薬の調合法とか、人体で一番美しい臓器とか、上手な爪の剥がし方なら お答えできますよ」
「最初の以外はあんまり知りたくないね。特に一番最後のヤツなんて、ただの拷問だし」
雑渡は渋面を浮かべた。始めて見る雑渡のひょうきんな顔に、伊作は少し笑った。高名なタソガレドキの忍び組頭といえども、やはり人間らしさはあるらしい。普段は表皮の下に隠しているであろうその部分を晒してくれたことが、伊作の中に雑渡に対する親しみの情を抱かせた。
「……どうして理由を知りたがるんですか」
伊作が雑渡を助けたことなんて過去のことだ。ほんの、たった一回だけのこと。四六時中いくさをしているようなタソガレドキお抱えの忍者であれば、毎日、目が回るほど忙し いのだろう。伊作のしたことなんて日々の雑事に紛れて忘れ去られてしまうようなものだ。それなのに。そんなことをいつまでも覚えていて、なおかつ、そういう行為に及んだ理由が知りたいのだと、この男は言う。
雑渡が伊作ごときに拘っているのが不可解でならなかった。
「あの、僕は雑渡さんに何かまずいことでもしたんでしょうか」
「君は何かまずいことをしたって思うの」
「思いません」
伊作はきっぱりと言った。言い切った。嘘はない。本心だ。
誰かを助けられずに後悔したことはあれど、誰かを助けて後悔したことはない。それに、そんな後悔の仕方は嫌だ。
「じゃあ大丈夫さ。自分の行為を肯定できるのはいいことだよ」
雑渡は肩をすくめてみせた。
「今まで、こんなにも執拗に理由を訊ねてきた人はいません。怒られたり、からかわれたり、呆れられたりしたことはあっても……。どうしてそんなに僕が誰かを助ける理由を知りたがるのですか」
「どうしてって、君のことが知りたいからだよ」
雑渡はさらりと言った。
伊作は、いよいよ雑渡の心中が分からなくなった。
「なんですか、それは」
「言ったままだよ」
「分かりません」
「君、運も悪けりゃ頭も悪いね」
「なっ」
あんまりな物言いに、伊作は口をパクパクさせた。ほぼ初対面といっていい相手に、ここまでコケにされるとは予想もしていなかった。
「そうやって考えてることがすぐ顔に出ちゃうあたりも、忍者に向いてないよね」
「余計なお世話なんですけどっ! 大体、僕が何してたって雑渡さんに関係ないでしょう。僕はただ、みんなに元気でいて欲しいだけなんです。誰かが元気になって笑ってくれた らそれでいいんです。敵も味方もないです。誰にも誰かがいて……家族とか友だちとか大 切な人がいて、怪我してる誰かが元気になれば周りの誰かも元気になるでしょう。隣の誰かが笑うとその隣の誰かも笑うでしょう。僕はそういう方が好きだから。それだけです」
「……なるほど。医は仁術か……」
「何ですか?」
雑渡が小さな声でしゃべるので、伊作には聞き取ることができなかった。伊作が何度聞き返しても雑渡はそれに応えることはなかったので、伊作は雑渡の怒りに触れてしまった のだと思った。
「待って。怒らないでください」
「怒ってないけど」
「それならよかった。でも信じてください。雑渡さんを助けて、雑渡さんをどうこうしようとか、そういう気はないんです。ただ、あそこに雑渡さんがいたから、だからお助けしたんです。それだけです。僕はあんな奇妙なことをしているから、声を掛けられるなんて初めてでした。雑渡さんに頼ってもらえて嬉しかったです」
一瞬、雑渡は驚きとも何ともつかない顔つきになった。何か言おうと開いた口を硬く引き結ぶ。
雑渡は立ち上がると、口元を頭巾で隠した。途端に、顔の狭い面積だけが伊作と対峙することになる。これが雑渡の本来の姿であるはずなのだが、今の今までこの男と和んでいたせいか、少しだけ身構えてしまう。
表情が読めない。
読ませないのが忍びというものだと、この男は言うかもしれない。
覆面をしてしまえば、雑渡の表情を読み取るのには、そこから唯一覗いている右目だけが頼りだ。左目は全身同様、包帯に覆われている。おそらく、その左目は光を捉えていないはずだ。初めて雑渡と出会った合戦場で、伊作はその包帯の下にあるものを見ている。 目だけでなく、体中が酷い傷を持っていた。今思い出しても同情の念がこみ上げてくるが 、何も知らない、知ってはいけない伊作がむやみに情を移すなど失礼な話である。
何よりも、まだ敵か味方か判別ができない。
今のところ、積極的に忍術学園に危害を加えるつもりはないらしいが、それもいつどうなるか分からない。必要以上に警戒するのは得策ではないが、気を許しすぎるのもいけない。
雑渡の右目に見つめられると、値踏みをされているように思えて伊作は緊張した。物言わぬその目は、弱い者という認識で伊作を捉えているのかもしれない。
弱い者。浅はかな者。世間知らず。偽善者。
ふいに、この男にどう思われているのかが気になった。
「ああ、そうそう。余計なお世話ついでに」
雑渡は袷に手を入れると布包みを取り出した。それを指の先でつまみ、伊作の鼻先へ突きつける。雑渡の声に怒気がないことに、伊作はいくらか安心した。
「……これは?」
伊作はほぼ強制的にその包みを受け取ることになった。握ってみると布包みの中に硬い感触がある。
「……貝ガラ?」
「タソガレドキで一番の薬師が調合した膏薬だ。打ち身によく効く。使い方は……って、それこそ君にとっちゃ余計なお世話だよね。保健委員長くん」
伊作に背を向けると、雑渡は庭に下りた。どうやら帰りは天井からでなく、正規の道順で出て行くらしい。とはいっても、おそらく、こっそりと抜け出すのだが。
「どうして、僕に……」
伊作は雑渡の背中に問う。すると、雑渡が振り返った。
「頭と足の打ち身……まだ治ってないでしょ。済まなかった」
予想外の返答に、一瞬、伊作はたじろいだ。雑渡の言葉は、最早、心配していないとは誤魔化しのきかないものだった。
まさか、多くの忍びから怖れられているらしい雑渡が、伊作のことを気にかけるなどとは思いもしなかった。まして、ほんのコドモの伊作に罪悪感を覚えるなど……。
勝手な想像で作り上げた得体の知れない雑渡という曖昧な存在が、瞬時にして消え去る。と同時に、どれが本当の雑渡の姿なのか分からなくなる。
「じゃあね。縁があったらまた会おう、不運委員長くん」
「今度会うときはちゃんと名前で呼んでださいね。伊作って!」
言い終わらないうちに、雑渡の姿は闇に紛れていた。もう、伊作が感じられる範囲にはどこにも気配はない。あるのは伊作の手の中にある硬い感触だけだ。罪滅ぼしの品というよりかは、雑渡のやさしさだと思えてならない。わざわざ、これを届けに伊作のもとへやってきたのだ。鼓動が大きくなる。
「自分の名前は呼ばせるくせに……僕の名前は一度も呼んでくれないのだから。つれない人……」
伊作は静かに笑った。相変わらず空には月が浮かんでいる。
「しかも不運委員長じゃなくて、保健委員長なのに……今度会えたら訂正しなくちゃ……今度……」
誰にともなく呟くと、月の輝きが増したように見えた。
つづく20120505