十五年目 6
強い風が雲を散らす。
夜空に煌々と浮かんだ月が、いくつも山を越える雑渡の背を付いてくる。いくら腕の立つ忍びといえども、今夜は闇に溶けられそうもない。
雑渡はふっと、ため息のような笑いを零した。
らしくない。
そう思ったからだ。
薬を渡す、その一つのことだけに時間を割いた。わざわざ薬師に薬を調合させ、幾つも山を越えて、会いに行った。彼に。
誰かを心配し、同時に、誰かを深く知りたいと思う感情に雑渡はいささか戸惑った。自分の中にそういう気持ちが生まれるとは思わなかったのだ。
伊作の手が忘れられなかった。合戦場で触れた、あの温かな手が。
そして今宵、またあの手に触れた。無理やり伊作を押し倒す形で触れたのだが、その思わぬ腕の細さに、よこしまという言葉が本当になりそうで、雑渡は自分を抑えることに必死だった。
そういう情動にも雑渡は戸惑い、苛立った。こんなことは生まれて初めてだった。三十六年自分と付き合ってきたが、まだまだ分からないことがたくさんある。
生きるとは、生き続けるとは、そういうことなのかもしれない。
そして、今、雑渡が生きているのは伊作のおかげでもあるのだ。
聞こえぬ耳に、見えぬ目に、身体を縛る傷跡に、伊作のやさしさが触れた。幻の音を聞き、無限の光を見て、どこまでも自由な四肢を手に入れられたような気がした。
与えられてばかりだ、と思った。
自分は伊作に何をしてやれるかと思った。
だから会いに行ったのだ。
せめて、小さなことでも、何かしないと気がすまなくて、薬を届けに行った。
「お節介でお人好しなのは、わたしの方か……」
雑渡は一人笑った。
伊作は雑渡を拒まなかった。目を伏せることも、悲鳴をあげることもしなかった。
最初に会った時も、そして今宵も。
伊作は雑渡を見捨てなかった。ただ、そこに存在する雑渡昆奈門を受け容れていた。
胸がせつなく痛んだ。
どんな顔をしたらいいのか分からなくなった。その名前すら呼べなかった。だから顔を隠し逃げるように去った。
強く風が吹く。
木々の枝をざわつかせ、木の葉が舞い散る。
今度会うときは。
最後に伊作はそう言った。
今度会うときは、名前で呼べ、と。
雑渡がどんなに嬉しい気持ちになったか、きっと伊作は知らないだろう。
「伊作くん、か……」
身体が妙に熱っぽい。どこまでも走れそうだった。
温かな色をした月が、雑渡を追いかけるように照っていた。
とてもじゃないが、こんな日に仕事をする気にはならない。
虫の音が大きく聞こえる薄暗い居間で高坂は本を閉じた。炭櫃(すびつ・囲炉裏)の灰を火箸でかき混ぜる。燃える小枝が一度だけ小さな音を立て、蛍のように火の粉が舞った。
仕事をする気にならないから本を読んでいたわけではない。かといって、本を読んでいたから仕事をしなかったわけでもない。
連子窓を見上げれば、そこには煌々とした月がある。なんとも明るい夜だった。
つまり仕事というのは忍者の仕事のことである。
本当に急を要する忍務であれば、月を理由に仕事を先送りになどしない。しかし、今は特別に急ぐ忍務もない。休養も大事な仕事であることに違いないというわけで、高坂は読書にふけっていたわけである。
夜はとうの昔に深まり、朝を待つ方が早いくらいだ。
仕事でもないのにこんな刻限まで起きていたって、高坂を咎める者は誰もいない。まあ、高坂も二十四だ。夜更かしをどうこう言ってもらえる年齢なんてとっくの昔に越えている。
年齢のことを除いても高坂は独り者であるし、今は家族とも離れて住まいしている。そうでなくても、高坂は十三の時に勘当というか破門されているのだ。以来、高坂の屋敷には行っていない。
高坂の実家はタソガレドキが城を築く前からその地にあった戦術を生業とする一族であった。はるか昔から森の奥深くに棲み、その土地を知り尽くしていた。風を読み、誰にもおもねらず、厳しい自然の中で生きてきた。
日々は移り、タソガレドキに下った今は、主に忍者隊の面々に武術を指南する立場となっている。タソガレドキきっての武術の名門と謳われているのが高坂家なのだ。
しかし、高坂は、もうそこに帰ることは出来ない。
家は高坂の弟が継ぐことになっている。今は月輪隊に所属している忍びであるが、時がくれば父の跡継ぎとして力を発揮するであろう。申し分なく優秀な弟だ。あいつになら任せられる。
後悔はない。
それは強がりでもやせ我慢でもなく、高坂の本心であった。
自ら望んだ道である。
嫡子であることの責任、代々受け継がれてきた技を継承する栄誉、武術の名門高坂の当主という地位、たくさんの忍者を育て上げるであろう名声。
何もいらない。どれ一つとして高坂は欲しくなかった。それらを手に入れることは本当に素晴らしいことなのだろうけれど、それでも、たとえ、高坂という名を捨ててでも、高坂にとって欲しいものはたった一つだったのだ。
大切な人を守る力。
それだけだった。
それだけが欲しかった。
あの時……。
あの時、強く思った。あの方の傍にお仕えするのだと心に決めた。そのためだったら何でもすると決心した。だから高坂の家を捨てた。
すべてを失っても、生涯、雑渡昆奈門の傍で生きるのだと……。
行くべき道を選び、血のつながりを断った。
以来、家の門扉はすき間もなく閉ざされている。
雑渡は高坂を拾った。高坂は家ではなく、帰りたいと思える場所を手に入れた。
高坂が自分で帰る場所なのだと思えたら、そこが高坂の帰る場所なのだ。
十三の時、そのことを雑渡に教えられた。当時、高坂にはその言葉は随分と沁みた。新しい家族に出会った気がした。
今、高坂が読書に耽っている場所は、城から程よい距離にいくつか設けられたタソガレドキ忍者の長屋である。有事の際にはすぐさま城に駆けつけ指示を仰ぐ。間口が三間ほどの大きくもない長屋に何人かずつが寝泊りする。高坂はもっぱらここをねぐらにしていた。高坂だけではなく、大抵のタソガレドキ忍者はそうしているのだが。
高坂の場合、雑渡や小頭の山本、後輩の尊奈門などと一緒になることが多いのだが今日は誰もいない。小頭の山本は一度、里の家に帰ると言っていたし、おそらく、尊奈門は忍者の闇市にでも出向いているのだろう。先日、その闇市で見つけた忍者食を随分と気に入っていた風だったので、また買い付けに出かけたのかもしれない。
雑渡の出かけた先についても予想の域を出ないが、高坂は大体の見当をつけていた。今日の昼間、雑渡は町の外れにある薬師の家に行くと言っていた。雑渡自身の使う薬を買うのかと思い、高坂が「足りない薬があるのなら私が行きます」と言うと、雑渡は少し困ったように笑った。
「わたしが使うのではないんだ」
出かける身支度をしながら雑渡は言った。
その意外な返答に高坂は首を傾げた。傾げつつも、雑渡の気持ちがどこへ向いているのかが分かった。その薬はあの子どもに渡すつもりなのだと思った。雑渡の命を救ったあの子どもに。
高坂の供を断って出かける雑渡の後ろ姿を見送りながら、高坂は先日の出来事を思い出していた。
先ごろ、タソガレドキ軍は園田村を制圧するために遠征した。タソガレドキ忍者隊も飾り程度ではあるがそれに随行した。その折、あの少年に再会した。善法寺伊作である。伊作に再会したのは雑渡だけで、あとになって高坂は雑渡からそのことを聞いた。
雑渡は伊作に会いたがっていた節があったし、運がいいといえばそういうことになる。もとより、事前情報として忍術学園が園田村に加勢することは分かっていたので、伊作と鉢合わせる可能性も高かったのだ。まあ、忍者なんて前線に出るものではないのだし、慎んだ行動をしていればその可能性も限りなく皆無ではあったのだが。
そこはタソガレドキ忍者隊の頂点、雑渡昆奈門である。その突飛な行動は予測不能。慎むなんて基本事項は彼の辞書になかったわけである。つまり、運も不可能も関係なく、雑渡は自ら伊作に会いに行ったのだ。
確かに、高坂は良心に従って行動してくださいとは言ったが、しかし……。
部下として頭と胃が痛くなる。
こっそり会いに行ってまで雑渡と伊作がどんな会話をしたのか、知りたくないと言えばそれは真っ赤な嘘だ。側近として雑渡の交友関係を把握しておかねば、と思えども、完全に高坂の私情も絡んでいるようで気後れしてしまう。それに知ってどうする、とも思う。それを知ったところで高坂は何も変わらない。変わりようがないのだ。雑渡が誰を想い誰を慕い、誰と家族になろうとも変わらない。決心は十三歳の時のまま変わらない。
変わったのは雑渡だけだ。
雑渡は伊作と出会って変わった。何がどう変わったかは上手く表現できないが、でもとにかく変わった気がするのだ。
高坂が雑渡に出会って変わったように……。
高坂はもう一度窓の外を見た。依然として月はそこにある。居間の床に窓の連子の影がくっきり映るほど明るい。
こんな日にどこかに忍び込もうものならすぐに人目につくだろう。どんなに優秀な忍びであったとしても、そう判断するに違いない。高坂だってそう考える。まあ、忍び込もうと思えば忍び込めるが、出来れば危険は少ない方がいい。誰だってそうだろう。危険を冒して賭けに近い行動をとるより、機会を窺って確実に忍務を成功させられる期日を待つ方が得策だ。
ただし。
ただし、だ。
あくまでこれは一般的な、ごくごく一般的な(例えば高坂みないな)凡人の意見である。
非凡人な人間においては当てはまらない。というか色々なことが当てはまらない。
そう。例えば、今帰って来たこの人みたいな……。
長屋の戸口が静かに開き、そして静かに閉まった。人の気配が近づいてくる。
「太陽を拝む前に帰ってこられるとは思いませんでした」
振り向いて高坂は言った。
「午前様になると山本が嫌な顔をするからさ」
帰って来たのはタソガレドキ忍者隊の忍び組頭である雑渡昆奈門だった。雑渡は土間で外の埃を払うと一段高くなった居間の端に腰を下ろし草鞋を脱いだ。
「でも、タソガレドキからだと忍術学園は遠いですから。少しくらい遅くなられても小頭は怒らないと思いますよ」
「なんでわたしの行き先を知っているのさ」
呻くような声を出した雑渡の脇をすり抜けて、高坂は土間に降りた。
「何でって、私はあなたの部下ですから」
高坂は茶の支度にかかる。
雑渡はため息をつきながら居間に座った。続いて高坂も上がる。炭櫃の小枝が乾いた音を立てて弾けた。
「わたしの部下は優秀だね。涙が出るよ」
頭巾を解いた雑渡は涙を拭う仕草をしてみせた。
「善法寺くんには会えましたか」
「……目的までバレてんのかい」
高坂は小さく笑った。茶を差し出すと雑渡は一気にそれを飲み干した。そのままの勢いで天を仰ぐようにしてだらしなく寝転ぶ。こころなしか、その横顔に疲労の色が見えた。
「お疲れですか?」
雑渡は身じろぎして高坂に体の正面を向けた。
「いや……。疲れちゃいないさ。でも、彼に済まないことをしたと思って……」
「珍しいですね。あなた様がここまで落ち込むなんて」
「……この前、園田村で伊作くんに会ったんだ。でも伊作くんはわたしのせいで足を怪我した。だから薬を……」
「ああ。昼間に薬師さんから貰われた分ですね。受け取ってもらえなかったのですか?」
高坂はちょっとだけ心配になった。雑渡がわざわざ薬師のところへ出かけて行き、伊作のために薬を調合させ、その足で決して近くはない忍術学園を訪ねたのに、薬の受け取りを拒否されたとあっては、さすがに可哀そうだ。
「いや、薬はちゃんと渡したよ。無理やり押し付ける格好になってしまったけれどね」
「そうですか。それならよかったです」
雑渡を慰める言葉を幾通りか考えていた高坂は、それらを使わなくてすんだことに安堵した。高坂は誰に対しても、元気付けるとか慰めるということが苦手だった。思ったことしか言えない性格なのだ。本心じゃないことや、ましてや嘘をつくなんて出来なかった。周囲の人間は、その偽りのない言葉が高坂らしくてとても良いと褒めてくれるが、すべての人がそう思うわけではないはずだ。高坂の言葉に傷ついたり、キツイと思ったりする人もいるのだろう。それが分かっているからこそ、誰かを癒す言葉というのは高坂の最も苦手とするところなのだ。
が、しかし。
「いや、実はよくなくてさ。伊作くんを押し倒しちゃったんだよねえ……」
という雑渡の懺悔に、さすがの高坂も思った言葉を飲み込んでしまった。
――組頭、それはさすがにマズイです。
「何か、取り返しのつかないことが起こったのでしょうか。私の目の黒い内に、そんなことが起こってしまうなんて……。どうしてそんな経緯に至ったのですか……」
「嘆くなよ。何も起きてないさ。たださ、伊作くんに危機意識ってやつがあるのか試してみたんだよ」
「驚かさないで下さいよ。手が早いにも程が――って焦りました」
高坂の大きなため息に、雑渡は喉の奥を鳴らして笑った。
「伊作くんは自分がやっていることが、結果、自らを危険に晒すことになっても後悔しないってさ。むしろ今の前で起こっていることをないがしろにするようなことがあれば、それこそ後悔するって言っていた」
雑渡はどこか嬉しさを堪えるような表情を浮かべた。
「保健委員精神ってやつでしょうかね」
高坂は伊作の根性に少しだけ感心した。
「まさにね。医は仁術っていうけど、初めてその言葉の意味を理解したよ」
医の行為を施すことは、すべての者を等しく大切にする術であるという。確かに、善法寺伊作にはぴったりと嵌る言葉ではないか。合戦場で勝敗の行方も眼中になく、自らの危険も顧みず、誰かが生きることを優先させるような、忍びとしては不具合のある伊作にはお似合いである。
しかし、その伊作の不具合さと意志の強さが雑渡をはじめ、多くの者を救ったのだ。
「わたしのことをバカだと思うだろ」
「組頭のことをですか」
高坂は脈絡のない会話に戸惑いながらも、雑渡に上着を一枚かけてやった。日中は暖かいが夜は冷える。
「あなた様のなさることは突飛もないと思いますが、バカだとは思いません」
高坂は火を挟んで座った。
「お前は正直だな。出会った頃とちっとも変わらない」
雑渡は目を細めた。何を思い出しているのだろうか。しばらくそうしていた雑渡は寝転んだまま高坂を見つめた。
「懐かしいな。昔、こうしてお前と火を挟んで話したな」
「そうでしたか?」
「そうだよ。この薄情者め」
雑渡はくちびるを尖らせた。それが子どもみたいで高坂は少し笑った。雑渡も笑っていた。
昔は雑渡との距離が今以上に近かったように思う。もしかしたら雑渡にとって高坂は擁護の対象だったのかもしれない。家のことで迷った時、忍務がうまくいかなかった時、言葉にできない葛藤を胸に抱えて鬱屈としていた時、ことあるごとに雑渡は高坂を気にかけた。当時の雑渡は忍者隊の中でも中核的な立場であったのだし、決して他人の話を長い時間かけて聞く余裕はなかったはずだ。それでも、傍にいてくれた。守るつもりで守られていたという事実に高坂が気づいたのは随分経ってからだったのだが。
雑渡はよくしゃべった。昔のことを昨日の出来事のように話した。高坂の中にも幼い頃の自分が蘇った。揺れる火が過去の記憶を甘く映していた。長いような短いような夜が更けていく。
静かな火の向こうに寝そべる雑渡はまるで昔と変わらなかった。その態度も笑顔も、高坂が一生を懸けて守るのだと決めたあの頃と少しも変わらなかった。そのことに安堵を覚えつつも、雑渡の纏う空気が日に日に柔らかくなっていくことが分からない高坂ではなかった。
「組頭は変わりました」
「……そうかな。まあ、気持ちは若いつもりでも寄る年波には敵わないというか……陣左は若々しくていいねぇ」
老いたことを指摘されたと勘違いした雑渡は白白しく笑った。
「いえ、あの、そういうことではなく……」
言葉に詰まって高坂は俯いた。いつまでもこのまま変わらずにいられたら……いつまでも一緒にいられたら……。そう思うことは罪ではないはずだ。昔の記憶はいつだって安心できる。けれど、変わらないことが良い事だとは思えない。高坂も雑渡も人と関わる限りは変わっていかなくてはならないのだ。
「善法寺くんと出会って組頭は変わりました」
「へえ。具体的にはどんな風に」
「どんな……ですか……」
改めて訊ねられると高坂は応えに窮した。なんとなく、でも確実に雰囲気が変わったなとは思っていた。その穏やかさや柔らかさというものは善法寺伊作の影響だとうことも知っている。
「大切なものが増えたように思います」
「そう……? 陣左のことだって大切に思っているよ」
「それは知っています。でも、暇を惜しんでまで誰かに会いに行くことなんてありませんでしたよね」
「……」
「彼を稚児にでもするおつもりですか?」
「わたしの稚児は陣左だけだ」
雑渡は目を細め、高坂の頬を指先で撫でた。
「お戯れを……。昔の話です」
「んふふ。すげないね」
「……それはあなた様の方……。私は、偽りの稚児にしかなれなかったというのに」
「わたしがさせなかった。わたしは誰の明日も支配しない」
「……彼のこと……本気なのですね」
「……」
「組頭にも執着心があったのですね」
いくさに明け暮れる日々を送っているので、雑渡には執着心というものがあまりないように感じられた。常に今は移り変わっていて、昨日あったものが今日には無くなっている。ついさっきまで味方だった者と敵対する立場になっている。雑渡に限ったことではないが、世相が世相なので、生まれて死ぬまで失うことばかりの人生を送る者も多いはずだ。結局失ってしまうのなら、何かに固執するのも虚しいだけだ。だから何にも縛られず何にも囚われず暮らしていくのが誰もの理想とするところだった。
それでも雑渡には大切なものがあった。タソガレドキという土地と自らが仕える城主だ。生まれ育ったタソガレドキ。そして雑渡とは小さな頃から面識があったというタソガレドキ城主。それらを守るために雑渡は生きている。タソガレドキ忍者としての使命である。
けれど。
善法寺伊作はどうであろうか。
使命でも義務でもないけれど、雑渡の心から離れない。失うことの虚しさ、恐ろしさ以上に触れたいという気持ちの方が勝っているのではないだろうか。
白みかけた空を眺めながら、高坂も横になった。雑渡に背を向け丸くなる。
雑渡の目に映るもの。
どんな景色が映っているのだろう。
昔は容易に想像ができたのに、今の高坂には分からなかった。
きっと、柔らかい色合いの中に伊作がいるのだろう。甘く心地のいい夢が見られる景色。高坂とは無縁の世界である。そんなフワフワした世界に高坂がいるわけがない。高坂がいるのは敵と味方と、土煙の中で流れる血と涙と、怒号と悲鳴と嘆きと、よく出来た嘘とほんの少しの夢と、忠誠心と力と技と、人間のような鬼が棲んでいる世界だ。
雑渡は高坂のすぐ隣に寝ているけれど、本当はここではないどこか遠くにいるのだ。
高坂は雑渡と自分の間にあった何かが失われていくのを感じた。
幼い頃から共に育ち、憧れ、助けられてきた。
忍びとして生まれ、忍びとして育った二十四年。
忍びとしての道を決めたのは十三歳のときだ。
一生雑渡に尽くすのだと決めた。その決意は変わらない。決意は終わらない。
けれど。
決して、過去に帰れることはないのだと思った。もう進んでいく日々を生きるしかないのだ。思い出の中で生きられないのは、きっとそれが甘すぎて息が出来なくなるからだ。
だから、いつまでも変わらない決意を抱いて、この人と明日を生きるのだ。
そう決めたのに。
昨日ではなく明日を生きると決めたのに。
どうしてか、高坂は胸は少しだけ苦しかった。
つづく20120506