十五年目 7


 森が薄っすらと陰る。日が傾き始めたのだ。あっという間に夜が来る。
 伊作は額に浮いた汗を拭った。秋とはいえ朝から今まで山の中を歩き尽くめなのだ。髪も背中もじっとりと濡れていた。
「今日はこのくらいにして帰ろうかな」
 伊作は手にした帳面をぱらぱらと捲った。薬草の採取記録をつけていたのだ。
 採取とはいっても主には帳面に記すだけで採った薬草は竹筒の中に入るくらいの参考程度である。本格的に採取するときは保健委員会で出かけようと思っているのだ。伊作の訪れた山は忍術学園からは少し距離があるけれど、今日みたいに早朝に出れば日帰りもできなくはないと算段をつけている。
 薬草の採取は春から秋までが勝負だ。冬になれば植物は枯れ、山は閉ざされる。そうなる前に少しでも多くの薬草を集め、加工して置くことも保健委員としての義務だった。学園の畑や薬草園でもまかないきれないものを山で確保するのである。
 保健委員精神と義務意識で夢中になって山を這いずり回っていた伊作であるが、随分と陽が落ちていることに気づいて、慌てて身支度をした次第であった。
「えーっと、陽があっちだから東は……」
 方向を見失いそうになりながら、そこは忍術学園の六年生である。冷静に帰り道を判断し山を下り始めようとしたその時、大きな音を立てて茂みが揺れた。伊作は反射的に木陰に身を寄せ辺りを窺った。胸のクナイに手が触れたとき、茂みからウサギが一匹飛び出てきた。ほっと胸をなでおろす。
「なんだ、ウサギか……」
 安堵の息を漏らしながら、はて、この山はどこの領地だったかと思考を巡らせた。
 伊作は忍者のたまごとして日々忍びを学んでいる身であるが、外出時は忍び装束ではない。もちろん目立った武装もしていない。一見して、山菜取りにでも来た村人としか思われないはずである。しかし、今のご時世、どの国も領地を巡っていくさに明け暮れる毎日である。たとえ、言い掛かりでも怪しいと相手に判断されてしまえば、囚われたり、最悪、斬りつけられたりすることも多いのである。
「この山は……確か、アカトキ領かオーマガトキ領だった気が……」
 うろ覚えの知識を引っ張り出しながらも、歩く足は緩めなかった。オーマガトキ領であれば、先のいくさでタソガレドキに大敗を期しているので戦意も警戒心も高くないから大丈夫であろう。
 問題はアカトキ領だった場合だ。
 アカトキはタソガレドキとにらみ合っている最中であったはずだ。とにかく、一刻も早く山を出ようと必死だった。不運委員長としての勘が、良くないことが起きる、と足を急かせていた。
 ところが、伊作の足は止まった。止まらざるを得なかった。目の前に見知らぬ男が一人、立ちふさがったのだ。黒だか紺だか分からないような暗い色合いの装束に覆面、そして全身に纏わりついている殺気に近いもの。どことなく血生臭いものも感じられた。
 ――忍び、か。
 伊作は声も出せないまま後じさりしようとした。が、その瞬間、目の前の男が後方に倒れた。
 一瞬のことで何が起こったのか分からず、その場から動けずにいると頭上から声が降ってきた。
「期待を裏切らない不運だ」
 伊作は弾かれたように頭上の木の枝に目を向けたが、そこにはもう気配すらなかった。変わりに、今度は目の前で声がした。
「こっちだ、こっち」
「……雑渡、さん?」
 まさかこんなところにいるわけがないと思いつつ、伊作は半信半疑で訊ねた。
 雑渡は伊作の間延びした態度に苦笑いを浮かべているようだった。覆面をし、さらには右目しか覗いていないのでその仔細は分からないが。
「また会ったね。不運委員長くん」
 雑渡は伊作をからかった。
「……保健委員長です」
 伊作は応戦した。雑渡は喉の奥で笑った。
「ごめん。伊作くん」
 雑渡は伊作を名前で呼んだ。初めて呼んだ。前回、伊作と交わした約束を守ってくれたのだ。
 思わず、伊作は笑みをこぼした。しかし、頭の中の緊張は解けずにいた。
「どうしてあなたがここに? それにさっきの人は……」
「ああ、彼ら? 大丈夫だよ。殺しちゃいない。じきに目が覚めるんじゃないかな」
「そうでしたか。なら良かった……ってそうじゃなくて。というか、彼ら、ですか? まだどこかにあの人の仲間が? その人たちは忍びで、雑渡さんが追っていたのですか?」
 矢継ぎ早に問う伊作に、雑渡は肩をすくめた。
「こらこら。忍者に仕事のことを根掘り葉掘り訊くなんて駄目だぞ。それは伊作くん、わたしにスリーサイズを訊ねることと同義だからね」
「それについては申し訳ありません。でも」
 伊作は雑渡の気の抜けるような冗談を無視し、とりあえず頭を下げた。もしかしたら、伊作の緊張を解こうとしての雑渡なりの気遣いだったのかもしれないが、とても笑って和やかになれる状態ではなかった。事態はとても緊迫し、緊急をしいられていると感じた。
 決まりを破ってでも伊作は雑渡にコトの詳細を訊ねなければならなかった。もしも伊作が任務の妨げになるようであれば、今すぐここを去らなければならない。
「立ち話してる余裕はないんだけどさ、一個だけ質問に答えてあげる。わたしが彼らを追っていたんじゃなくて、彼らがわたしを追っていたんだよ」
「……え」
 予想外の返答に伊作が息を呑んだとき、明らかにこちらに向かっているものと思われる足音が聞こえてきた。しかもかなりの人数がいると思われる。どうやら雑渡を追ってきた者たちらしい。
「あらら、追いつかれたわ」
 予想の範疇とでも言う風に、雑渡は顔色一つ変えない。雑渡については油断という二文字はないはずなので、こうなることは想定済みだったのだろう。
 しかし、伊作にとっては未曾有の事態である。なんといっても今頃は山を下って忍術学園へ急いでいたはずだったのだ。
「どうしましょう」
「人気者も辛いねえ。というわけで――」
 雑渡はおろおろする伊作の頭に自分の頭巾をかぶせた。
「な、何するんですか」
「いいから、黙って顔隠して」
「何言って……」
「伊作くんってさ、走るの得意?」
「……は……?」
 伊作の応えも聞かず、雑渡は伊作の手首をつかむと引っ張った。
「走って」
「僕のことは放っておいて――」
「いいから走れ」
 雑渡に力ずくで走らされ、伊作は山のなかを上っているのか下っているのかも分からなくなった。自分がどこにいるのか、もはや見当もつかなかった。ただひたすら、雑渡の背中が見えていた。その広い背中だけが頼りだった。


 後ろを振り返り、追っ手の気配がないことを確認すると、雑渡は伊作とともに茂みに身を寄せた。伊作の息は相当にあがっていて、このまま走り続けることは無理だと判断したのかもしれないし、別の理由があったのかもしれなかった。
「大丈夫かい?」
 肩で息をする伊作を気遣い、雑渡は伊作の背をなでた。
 普段から鍛えてあるとはいえ、慣れない山道と極度の緊張が合わさり、伊作の限界も早かったようだ。
 雑渡の大きな手が伊作の背を上下する。伊作を気遣う温かな感触。その心地よさに身を任せながら、伊作は息を整えた。
「すみません。もう大丈夫です」
 伊作がそう言うと、雑渡の手が背中を一つ叩いて離れた。
 ふと顔を上げると、思わぬ近さに雑渡の顔があった。包帯から唯一覗いた右目。
 合戦場で雑渡の素顔は一度見ているが、近くでじっくり見るのは初めてだった。
 頭巾をとった雑渡の顔。包帯の盛り上がり。その下にある色の違う皮膚。火傷の跡。
 伊作は黙って見つめていた。動悸が激しいのは走ったせいだけではないのかもしれない。
「なに?」
 雑渡に問われ、「いえ」と慌てて視線を外すと、その拍子に頭にかけられた雑渡の頭巾がはらりと落ちた。
「すみません、貸していただいて」
 伊作は頭巾を丁寧に畳んで雑渡に差し出した。
「まだ何があるか分からないんだし、そのまま被っていなさい」
 雑渡は頭巾を受け取ると、再び、伊作の頭に乗せた。
「でも、雑渡さんの顔が……」
 追われている立場らしいのに、素顔を晒しては不都合極まりないのではないか。
「敵さんに顔を見られるなんて間抜けな真似はしないさ。それに――」
「大事な部分は隠れてるから大丈夫! ですか?」
 得意げに股の辺りに手をやろうとした雑渡を見て、伊作は口を挟んだ。
 二人の間に、小さく笑いが弾けた。束の間、緊張を忘れる。
 こんな状況に置かれても、雑渡は伊作を気遣い笑わせてくれた。伊作という荷物を抱え込んでしまった疎ましさも見せずに、伊作の中にある不安な気持ちを取り除こうとしてくれている。
 伊作はどうしたらいいか分からなくなった。視線の置き場所にすら混乱する。
 どんな顔をしたらいいんだろう。こんなに心を掛けてもらって、どうしたらいいだろう。
 俯いた伊作の頬に一枚の布が触れた。
 雑渡の頭巾。雑渡の持ち物だ。
 そういえば。
 伊作は夏の出来事を思い出した。
 雑渡の手当てをしてやったとき、雑渡は礼として自らの具足を伊作に与えた。その意味を伊作は雑渡に訊ねてみたいと思っていたのだ。
「どうして、僕に具足をくれたんですか」
 何のことか分からずにしばらくの間、伊作を見つめていた雑渡であったが、いくらかもしない内に伊作の質問を理解したらしい。
「あの時も言っただろう。君への礼だよ」
「本当にそうでしょうか」
 礼儀に欠けるとは思いつつ、伊作は穿った訊き方をした。
「具足は足軽の死に装束だって言います。あれは僕に容易く命を落とすぞ、という警告だったのではありませんか。それがずっと気になっていて……。あの時、雑渡さんにどう思われていたんだろうって……」
 その理由を訊ねてみたいと思っていたとはいえ、雑渡の応えを訊くのは怖かった。
 元より、雑渡の中での伊作の評価は低いだろう。忍者らしくない間抜けなことを数多くやってのけたのだ。善く見られるなんてことはないのだろうが、せめて、今よりも悪くは見られたくないというのが正直な気持ちだった。
 伊作ははっきりと意識した。自分は雑渡に嫌われたくないのだ。
「礼というのは本当だよ」
 雑渡は静かに言った。
「あの時は金なんて持っていなかったし、渡せるものは具足くらいのものだった。あれだって金に換えれば相当なものだ。でもね、本当のことを言うとそれだけじゃないんだ……」
「本当のことを言ってください」
 伊作は縋るように言った。上辺ではない本当の気持ちが知りたいと思った。
「君を傷つけられないと思ったから。だから具足を脱いだんだ」
「……え」
「伊作くんには命を助けられて、それなのにどうして君と戦うって言うんだ」
 雑渡は笑っていた。
 伊作は驚いた。雑渡は伊作に敵わないと思い、戦う意志がないことを示すために具足を預けたのだ。まさか、そんな理由があろうとは思いもしなかった。
 雑渡は伊作を嫌ってはいなかった。
「お金には換えてませんよ、あなたから頂いた具足……」
「そうなの? 売っちゃいなよ。保健委員の予算も増えるよ」
「大切にとっておきます。そうしたいんです」
 雑渡のやさしさを金に換えて使おうという気は起こらなかった。
 雑渡は伊作の心中を察することなく「もったいない」とぼやきながら、周囲を警戒した。
「どうやら上手く撒けたらしい。しつこい連中だよ」
 その言葉に伊作は現実に引き戻された。どこの誰だか分からない集団に追われていたのだった。
「僕がいたばかりにご迷惑を」
「何言ってるのさ。それはこちらの台詞だよ。足は大丈夫?」
 園田村の合戦で綾部の掘った蛸壺に嵌ったため、伊作は足を患っていた。
「ええ。大丈夫です」
 間髪いれずに伊作は言った。
「本当に?」
 念を押すように雑渡は訊ねた。
「ええ。本当に」
 伊作は力強く言い切った。実のところ、少しだけ違和感があった。けれど、多少の運動であれば無理は利く。
 雑渡からもらった軟膏のおかげもあり、伊作の足は調子を取り戻しつつある。雑渡はこの伊作の足の怪我について、自分のせいだと負い目に感じている節があった。だからこそ、この怪我は雑渡のせいではないのだと、もうすっかり治っているのだと伝えて安心させたかった。
 強がるつもりはないが無理はできる。
 これ以上走るのはさすがにマズイかもしれないが、歩くのに支障はない。余計なことを言って雑渡の気を煩わせる必要はないのだ。
「これからどうしましょうか……」
 言って、立ち上がろうとした伊作の腕を雑渡は引きとめた。
「ちょっと見せてごらん」
 肩を押さえつけられて、伊作はしかたなく木の根元に座わった。
「本当に大丈夫ですって」
 伊作に構わず、雑渡は伊作の足袋を脱がすと足首を確認する。とたんに、目つきが鋭くなった。
「嘘つき。腫れてるぞ」
「……気のせいです」
 気のせいではない。足首は明らかに赤く腫れていた。
「気のせい、ね。これで気のせいって診立てなら、とんだ迷医だよ」
「……済みません」
 伊作は俯いた。足の怪我が露見してしまった。足手まといだ。
「君が謝る理由は一個もない。顔を上げて。さっき君に渡した私の頭巾かして。怪我したところ固定するよ、って君の方が上手いかな」
「あ、はい。自分でやります」
 ぼそぼそと低い声で言うと、伊作は手にした雑渡の頭巾を自分の足首に巻いた。申し訳ない気持ちと恥ずかしい気持ちとで、雑渡の顔を見ることができなかった。
「じゃあ、行こうか」
 そう言うと雑渡は伊作を背負った。
「じ、自分で歩けます」
 突然のことに伊作は慌てた。
「歩けないよ」
「歩けます」
「無理だってば。自分で分かってるんだろ。保健委員長。送るから大人しくしてなさい」
「でも、そんな」
 承服しない伊作の顔に雑渡は視線を走らせた。
「分かった。じゃ、この際はっきり言うよ。確かに君は歩けるかもしれない。でもトロトロ歩かれちゃ困るんだ。追っ手が来る。君が捕まればわたしたちの足もつく。それは本当に困るんだ」
 雑渡はまっすぐに伊作を見て言った。声に怒気はない。
 あの眼だと思った。あの合戦場で見た、あの澄んだ眼だと思った。今も、あの時もこの眼に惹かれた。伊作はそのことを今はっきりと自覚した。
 雑渡は伊作のせいで自分たちの身が危険に晒されたら困ると言った。その通りだ。さっき自分でも思い知ったじゃないか。自分は足手まといだと。
 だったら、自分のことなど見捨てて雑渡だけ先に行けばいい。一瞬、そんな考えが伊作の頭の中をよぎった。しかし、仮に雑渡がそうするつもりだったとしたら、鉢合わせてしまった最初の段階で伊作を連れて逃げてはいない。雑渡には伊作を連れて逃げるしか道はなかったのだ。それが最善だったのだ。おそらく、あの場に取り残されていたら今頃伊作は生きてはいない。
 安易に敵の領地に入り込み、危険の回避もできないまま、結局は雑渡に迷惑をかけている立場で、これ以上の反論は許されない。
 雑渡は伊作に対して敵意はない。戦意もない。悪意もない。でも、そのこととはまったく関係なく伊作を助けようとしてくれている。おそらく、伊作が放っておけとじたばた騒いでみたところで、雑渡の意向は変わらないだろう。伊作の下腹に一発入れてでも一緒に連れて逃げるはずだ。
 伊作の妙な矜持や遠慮で雑渡に、ひいてはタソガレドキの人々に危害を及ぼすわけにはいかない。
 伊作は素直に雑渡の背に体重を預けた。
「軽いね。ちゃんと食べてる?」
 歩き始めた雑渡はそんなことを言った。
 麻の忍び装束から雑渡の温もりが伝わってきた。
「陣左」
 雑渡は誰かを呼んだ。
 薄暗い緑しかない空間に何度か呼びかけると、傍の茂みが動いた。そこに人影が現れる。その人影は次第に若者の姿になっていく。長身痩躯。覆面をしているが声の感じで若者だと分かった。若者は雑渡の前にすぐさま膝をついた。頭を垂れる。
「組頭、どこに行かれたのかと心配しました」
 若者の良く通る声が響いた。顔を上げた若者の切れ長の目が一瞬だけ見開かれた。
「君は……」
 若者の目は雑渡に背負われた伊作を捉えている。
「……あなたは、また妙な拾い物を……」
「拾い物は得意でね」
「自慢になりません」
「何を言う。かつてお前を拾ったのもわたしだぞ」
 揶揄するように雑渡は言った。
「過去を改ざんするのはやめてください。私は組頭に拾われたことなど――」
「無い?」
「……」
 若者の目がすっと細まった。しかし殺気は感じない。どこか懐かしいものでも見るように伊作に視線を巡らせている。
 伊作は乾いた喉に無理やり唾を押し込んだ。
「睨むな」
 雑渡は若者を窘めた。
「睨んでなど……生まれつきこのような眼をしております故……」
 若者はかしずいたまま伊作から視線を動かさない。
「自慢ですか、陣左くん。え? 何? それってお前の目がきりっとしてて睫毛も長くて流し目が婦女子の皆さんに大好評っていう自慢ですか。タソガレドキの購買部でお前の姿絵が組頭人形を抜く勢いで売れてるっていう自慢ですか」
 雑渡はいかにもおもしろくないという態度だ。
「この有事に何を言い出します。っていうか、購買部でそんなものを売買しているんですか。誰が買うっていうんですか」
「誰って、お前のふぁんだろ」
「ふぁん……ですか。そんなものがこの世に存在するとは……」
「お前の知らないところで色々と世界は回っているのさ」
「生憎と、あなた様のなさることに振り回されっぱなしで、世界情勢に目を向ける余裕などありませんからね」
 若者は大きくため息をついた。
 伊作はハラハラしながら雑渡の背中にくっついていた。まるで伊作など存在しないかのように進む二人の会話はとても軽快で聞いていても気持ちがいい。それは二人の会話に遠慮がないからかもしれない。遠慮というか裏表だ。嘘がない。言いたいことを言い合っている感じで、いかにも信頼できる仲間同士というのが伝わってくる。
「組頭人形はともかく、私の姿絵については今後、きびしく抗議していきましょう」
「相変わらずお堅いなぁ〜」
「そういう性質ですから、仕方がありません。そんなことよりも、あれだけ普段から落ちているものは拾ってはなりませんと申し上げて――」
「元の場所に戻して来いとか野暮チンなことは、タソガレドキが誇る優秀な忍者だったら言わないよねー?」
 雑渡の目に今度は悪童の影がよぎる。若者はぐっと詰まりながらも反論した。
「そのようなことは時間の無駄。何より、拾ったものには責任を持たねばなりません。私はあなたの部下ですから、あなたの責任は私の責任でもあります。あなたを守る権利もあなたが背負った者を守る権利も私は持っているのです。ご命令を」
 若者は頭を深く垂れた。
 自分を使役する者の命令なくして、忍びは忍びの技を使えない。誰かを何かを守る力を使うことができないのだ。
 雑渡の目が細くなり眼光が増す。
「掃除を頼む」
 雑渡は命を下した。
「はい」
 若者は静かに応えた。
「徹底的に、な。ああでも、保健委員長くんの手前だ。お上品に頼む」
 雑渡がちらりと伊作の方へ視線を向けた。
「……殺すな……ですか。心得ております」
 若者は音もなく消えた。
 間もなくして、後方で金属が擦れ合う音が聞こえてきた。
 伊作は振り返った。先ほどの若者と、追っ手らしい人物とがせめぎ合っている。一人対三人だ。数の上では若者の方が圧倒的に不利だ。しかし、伊作の目は追っ手が次々に倒れていく様子を遠目ではあるが、はっきりと捉えていた。
 強い。
 いや、それもあるが、慣れているという表現の方がしっくりくる。まるで、後ろにも横にも目があるかのような、死角が死角であることを自身に許さない動き。
 敵対する人数と状況を総合した攻め方をよく知っている。そんな感じだ。
 研鑽を積まねばできない討ち合いだった。
「心配しなくてもいい。あれはわたしの部下だ。若いけれど、とても優秀だからね」
 雑渡は後ろを振り返ることはなかった。信頼を置き、この場を任せた部下なのだ。見る前に結果は分かっているのだろう。
「一人で三人も相手に……。タソガレドキ忍者のみなさんは、すごい人たちなんですね……あの方は陣左さんって言うんですか」
 伊作はつくづく感心した。
「ああ。それはあだ名。本当は高坂陣内左衛門っていうビシッと決まった名前があるんだよねー」
「高坂さん、ですか。あだ名で呼ぶなんて、本当に仲がいいんですね」
「仲がいいというか、なんというか……。まあ昔から知ってるからね」
 タソガレドキには忍びの隠れ里があり、仕える忍びは皆がそこの出身だと聞いたことがある。雑渡も尊奈門も今出会った高坂も、昔馴染みなのだ。お互いのことを嫌というほど知っているのかもしれない。
「昔から知っているっていうのもあるし、何より、陣左はわたしのために高坂という家を捨ててしまったも同然だからね。それもあるから、わたしは陣左のことを高坂とは呼ばないのかもね」
「家を捨てる……ですか」
「あいつの家は代々続く武術の名門家でね。タソガレドキで高坂って言ったら、そりゃ知らない人はいないくらいさ。知らない奴はモグリだね」
「それはすごいですね」
「そうさ。高坂の者が通った後には屍が累々と横たわっている……っていう伝説があるくらいなんだから」
「なんだか、別の意味ですごいですね」
「ふふ。でもとにかく、迂闊に高坂家に手を出してはいけないっていうのが暗黙の掟でね。でもわたしは陣左を拾った。勘当というか、破門されて家をなくしたあの子をね」
 雑渡はとんでもないことをさらりと言ってのけた。
 伊作はしばらくの間、無言になった。よくは事情が分からない。雑渡のために、あの高坂という若者は家を破門された、ということだろうか。ますます分からない。分かったのは、高坂が血のつながりよりも、雑渡とのつながりを選んだということだけだ。それはとんでもなくすごいことのように思えた。家を捨てる云々よりも、守るものを自分で選んだということが何にも変えがたいような気がした。それが高坂を支える強さなのかもしれない。
 雑渡が今、ここにいるのはそういった強さに守られているからだ。伊作みたいに弱くて迷惑ばかりかける中途半端な人間に手当てをされたからじゃない。
 伊作にはないものを高坂はたくさん持っている。目の眩むような強さをたくさん持っている。今、伊作はただ雑渡の背中にしがみつくことしかできないのに、高坂は戦うことで雑渡の背中も伊作の背中も守っている。高坂はずっと雑渡と一緒に育ってきたのだ。いろいろな雑渡を知って守っているのだろう。
 思えば伊作など雑渡のことを何も知らないのだ。
 歩くよりも速く、走るよりも遅く、雑渡は伊作を背負い山道を行く。その足元には影が溜まりはじめていた。日没が近い。
 伊作は雑渡の背に頬をつけた。麻の装束の上からでもはっきりと分かる怪我の痕。生涯、消えることはないのだろう。今でこそまともに身体も動かせるらしいが、一体当時はどうだったろうかと想像すると伊作でも足がすくむ。
 苦しくて、辛くて、悶える日々。
 高坂もそんな日々を知っているのだろうか。雑渡と一緒に闘ったのだろうか。そう考えると伊作の中で、言葉にできない情動が燃え上がってくる。
 伊作は自分が傷ついているのがはっきりと分かった。
 生まれや育ちや境遇や……そんなどうにもならないものを羨むつもりはない。それでも。
 雑渡と出会えなかった十五年を振り返らずにはいられなかった。不運だけれども友だちや家族や先生、多くのものに恵まれた。好きなことを究め、それに興味を示してくれる後輩もできた。大きな病気も怪我もなく、十五年も生きてこられた。それは本当に恵まれた十五年だ。これ以上何を望むというのだろう。望めば罰が当たる。
 でも。
 それでも。
 雑渡がいない。
 伊作の十五年の中に雑渡がいない。
 たったそのことが。
 たったその一点が。
 紛れもない事実だからこそ、伊作を動けなくさせる。
 伊作は自分の足に意識を向けた。軽い捻挫だ。すぐに治る。けれど、雑渡の傷はどうか。
 伊作は雑渡の首にまわした腕に力を込めた。
 雑渡の負ったこの傷が、すべて自分のせいならいいのにと強く思った。


 つづく
20120518



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