十五年目 8


「寒くないかい?」
 伊作を気遣いながら雑渡は炭櫃に小枝を放った。火には鍋がかかっていて、中の雑炊がほこほこと煮えていた。
 伊作が「寒くありません」と応えると、雑渡は安心したように土間へ下りていった。
「腹が減っているだろう?」
「……いえ」
「遠慮しなくていいって。とはいえ、何もないけどさ」
「でも、僕帰らないと……」
 追っ手から逃げて連れてこられた先は、見慣れた忍術学園の長屋ではなかった。炭櫃が備わった広い居間。奥行きがあるから、この先にもいくつか部屋があるのかもしれない。ちょっとした庭のある大きな屋敷だった。
 ここは雑渡の屋敷なのである。
 伊作は外出届けは出したけれども、外泊届けは出していない。このまま、雑渡の家でやっかいになるわけにはいかなかった。
「今帰るのは危険だ。それに君の足のこともある。少し休んで明日の朝帰ればいい」
 雑渡は水瓶から汲んだ水を鍋に入れた。
「でも」
「大丈夫。君を保護してるって文を尊奈門に届けさせてるから、安心しなさい」
 いつの間に……。
 目を丸くする伊作に、雑渡は雑炊をよそった椀を差し出した。
「食べなさい」
 反射で椀を受けとると、美味そうな匂いが湯気になって鼻腔をくすぐった。
「……すみませんでした」
 温かなものを手にとったことで安心したのか、伊作の口から謝罪の言葉はすべるように出てくれた。
「何?」
「僕は、あなたの足手まといになってしまいました。忍務は大丈夫でしたか?」
「君はそんなことを心配しなくていいの」
 雑渡に額を小突かれて、伊作は笑ったらいいのか怒ったらいいのか分からなくなった。雑渡はその話題はもうしなくていいという素振りであったが、伊作の気持ちは治まらなかった。
 ふいに、雑渡は土間の出入り口に目を向けた。
「帰って来た」
「え?」
 雑渡は静かに立ち上がった。頭巾を丁寧に巻きなおす。
「ちょっと忍務報告に出かけてくるから。大人しくしているんだよ。後を頼む」
 雑渡と入れ違いに入ってきたのは、山中で伊作を助けてくれた高坂という若い忍びだった。
「飯は適当に食って。あと、お客様が無茶しないように見張っておいて」
「心得ました。お気をつけて」
 そんな会話がなされたあとで、伊作と高坂が屋敷に取り残されてしまった。
 とたんに緊張が走る。気まずい雰囲気の中、檻に入れられたような気分になっているのは、きっと伊作だけだろう。
 高坂は桶に張った水で足をすすぐと火を挟んで伊作の前に座った。
「あの……」
「何だ」
 切れ長の目が伊作を捉えた。覆面のままなのでより一層、目だけが際立つ。
 伊作は若干、腰が引ける思いがしたが怯むまいと頑張った。しばらくの間は、いや、へたをしたら朝まで高坂と一緒なのだ。
「先ほどは助けていただいて、ありがとうございました」
 伊作は丁寧に頭を下げた。
「礼など無用。私は忍務を遂行しただけのこと」
 高坂は伊作の礼を邪険に扱った。確かに、高坂は雑渡からの命令に従っただけであり、決して伊作を助けたわけではないのだ。そもそも、伊作さえきちんとしていれば、余計な忍務が増えることにはならなかったのだ。
 伊作に対する物言いに棘があるのも当然である。
「……本当に済みません……」
「だから、礼もいらないし詫びもいらない。あの時はああするのが正解だった。君が不運だとは聞いていたが、まさか我々に出会ってしまうとはな……」
「はあ……」
「にしても、君を危険な目に遭わせてしまったことには、こちらに責任がある。私がもっと首尾よく追っ手を引き付けておければよかったのだ。自分の出来の悪さに腹が立つ」
 起伏のない口調で言うと、高坂は膝頭で小枝を割って火の中へ放った。その感情のない顔に伊作は少し恐ろしくなった。何を考えているのか分からない。本来、忍びとはこういうものなのかもしれない。
 しかし、感情は読めなくても、高坂は自身に対してものすごく厳しい性質らしいということは分かった。自分に厳しい人は大抵、他人に対しても厳しいものである。伊作の緊張と不安は倍になった。伊作など高坂から見れば人畜有害。けちょんけちょんにコケ下ろさ れても決しておかしくはない。
 ところが、身構えた伊作を前に、高坂の口から発せられたのは意外な言葉だった。
「足は大丈夫か?」
 淡々としているが、高坂の気遣いのある言葉に伊作はいささか驚き、たまらなく嬉しくなった。どうやら、高坂は普段からこういう起伏のない口調らしい。伊作に対して怒っているわけではないようだった。
「大丈夫です。明日には走れるくらいにはなっています」
 元気よく応えると、高坂はじっと伊作の方を凝視した。
「組頭の言うとおり、ぽちゃぽちゃだな」
 ……ぽ、ぽちゃぽちゃ?
 言われた意味が分からず、伊作は小首を傾げた。一瞬、高坂が笑ったように見えたのは気のせいだろうか。
「気にするな。ぽちゃぽちゃとはな、多分いい意味だ」
「多分、ですか」
「組頭が君の悪口を言うわけがないから、多分いい意味に違いない」
 どうやら、雑渡は色々と伊作に対する評価を高坂に伝えているらしい。話の流れから察するに若干の不安が残るところだが……。
「食わないのか? せっかくの雑炊が冷めてしまうぞ」
 高坂は伊作の手にした椀を顎でしゃくった。伊作は椀を傍に置き、用意してあった別の椀に雑炊をよそった。
「どうぞ」
 伊作は雑炊がなみなみ入った椀を差し出した。
「ああ」
 短い言葉とともに湯気の立つ椀を受け取ると、高坂はそれを静かに置いた。食べないのだろうか。それとも、伊作のよそい方が気に入らなかったのか。
「……毒は入っていませんよ」
「仮に私に毒を盛ったとしたら、いい度胸だと褒めてやるところだがな」
 高坂の目が細められた。伊作の背筋はぴんと凍った。そして、気づいた。
 食べるためには覆面を解かなくてはならない。素顔を晒さなくてはならないのだ。どこの馬の骨とも分からない伊作の前で。それは忍びとして生活している高坂にとっては無理なことなのだ。
「済みません……」
 伊作はしゅんとして謝った。
「何だ? また謝るのか?」
「僕がいるからあなたは物を食べることができないんですよね」
「……」
「本当に済みません。あの、食べたらすぐに出て行きますから」
「それは困るぞ。私は君を監禁――じゃない、軟禁するように組頭から仰せつかっているんだ」
「僕を見張るのでしょう? 忍務が正しく伝わっていないけど、大丈夫ですか」
「問題ない」
 高坂の中では見張るということは軟禁に類するらしい。
 伊作はため息をついた。元をただせば自業自得であるが、とんでもない目に遭ってしまった。
 伊作が自分の不運さを恨めしく思ったとき、衣擦れの音がした。高坂が頭巾を解いたのだ。ツヤのある髷がはらりと零れる。
「高坂さん、頭巾……」
「かまうな。飯が食えんからな……」
 忍びが素顔を晒すということがどれほど重大なことが、さすがの伊作でも分かる。具足を脱いだ雑渡同様、高坂も伊作に敵意はないと示してくれたのだ。
 伊作は嬉しくなった。
「私を覚えていないか?」
 椀を空にしたところで、高坂は言った。
「私は一度、君と会っているんだ」
「先ほど森の中で助けて頂いたことですか?」
「違う。もっと前だ。忍術学園付近の森で私は君に手当てを受けた。本当は礼を言わねばならないのは私の方なんだ」
 伊作は高坂に正面から初めて視線を向けられた。
 凛とした何にも惑わされない意志を持った目元。高い鼻梁。引き締まった頬がいくらかの精悍さを与えている。均整のとれた、と表現するべき相貌だ。
 伊作は記憶を巡らせた。そして、一つの出来事にぶつかった。
「……もしかして、足の爪を怪我していた……僕が送りましょうかって言ったら、家がこの近くだからって断った男の人……?」
「あの時は君の頭巾を駄目にしてしまって……」
 高坂は気後れした表情で言った。
「本当にあの時の……?」
「ああ、世話になった」
「足のお怪我は?」
「すっかりいい具合だ」
 伊作の笑顔が弾けた。人が元気になることほど嬉しいことはない。
「そう。よかったです。実は、あの後どうされたかなって、本当に心配していたんですよ」
「君に心配してもらえるような話じゃないんだ。だって、私はあの時、君を尾行していたんだから」
 高坂は済まなさそうに言った。
「知っていましたよ」
 伊作が言うと、高坂は目を切れ長の目を大きくさせた。
「なっ」
「ああ、安心してください。高坂さんの尾行は完璧でした。僕はまったく気が付きませんでしたから」
「それはそれで問題だぞ」
「あはは。そうなんですけどね」
 伊作は笑ってごまかした。
「どうして私が君を追跡していたと分かった?」
 高坂は膝を乗り出した。
「住まいのことです。高坂さん、あの森の中で、家はこのすぐ近くだって言いましたよね?」
「言ったな」
「実は、あの付近に民家はないんです。六年もあの場所にいて毎日のように森や山を歩いているから分かるんです」
「……出まかせなど言うものではないな」
 高坂は観念したように天井を仰いだ。
「でも、尾行だと分かっていて、君は私を見逃してくれたんだな」
「あなたは悪い人には見えませんでし、それに、あの場所で出会ったあなたは怪我をしていました。そうなればもう、あなたは正体不明の追跡者ではなく、僕にとってはただの患者でしかありませんから」
 伊作は笑った。
「間者でなく、患者か……」
「あ、高坂さんってば、上手いこと言いますね」
「組頭の言うとおりだ。君には誰も敵わないらしい」
 高坂は初めて、伊作の前で歯を見せて笑った。
 伊作はじっと見つめた。
「……どうした?」
 凍ったように動かなくなった伊作を高坂が促した。
「あ、いえ、すみません。高坂さんってモテるだろうなー……と思って」
「はあ?」
 高坂は端正な顔に似合わない、素っ頓狂な声を出した。
「だって、すごく綺麗な顔なんですもん。匂う……みたいな。さぞかし女性に人気があるんだろうなと思いまして……だって、雑渡さんも言ってましたけど、タソガレドキの購買部には高坂さんの姿絵があるんですよね。それってすごいことですよ」
 高坂はしばらく考えるような仕草をした。
「いくら顔が綺麗でもそれが仕事に繋がるわけではないから……。それに目立つなんて忍びにとっては百害あって一利なしだ。仕事のことしか頭にないから、君が言うようなことはよく分からん」
「そうなんですか。もったいない。高坂さんは独身ですか?」
「ああ。独り身だな」
「それは、世の中の女性はさぞかし嬉しいでしょうね」
「嬉しいのか?」
「もちろんですよ。大抵の女の子だったら、まだ自分にも機会があるかもしれないって期待しちゃうと思います。お付き合いされてる方とか、懇意にしてらっしゃる方は……?」
「いないな。それに、組頭の方が女性に人気だ。見合いの話もひっきりなしだったからな 」
「雑渡さんが……」
 伊作の胸にちくりと痛みが走った。
「そ、そうですよね。雑渡さん、強いしカッコいいですもんね」
 伊作は無理やり自分を励ました。ほとんどヤケになっていたが、どうして自分がヤケになるのかは分からなかった。
「でも、そんな見合いの話もあの火傷を負って以来、ぱったりとなくなった……。人の心は移ろいやすい……」
 高坂は遠くの何かを見つめていた。
「どうして、捨てられるんだろうな……」
 ぽつりと、高坂は呟いた。
「え」
「どうして、組頭を捨てられるんだろう。どうして雑渡昆奈門を捨てられるんだろう」
「高坂さん……」
 苦渋に満ちた表情で、高坂は伊作と視線を合わせた。綺麗な目だと思った。誰かの過去を心から悲しみ、背負い、憂う。透きとおった寂しい目だ。
 そういえば。
 雑渡も伊作に対して、見捨てればよかったのに、と言っていた。悲しそうな目で言っていた。あれは一体、何だったのだろうか。
 雑渡の言葉、そして高坂の言葉。それらを合わせれば、過去に何かあったのだろう、とはさすがの伊作でも想像がつく。
 伊作は運良く、先生にも友人にも後輩にも見捨てられたことはない。裏切られたことも 、酷い仕打ちを受けたこともない。
 ……高坂のように、誰かの過去を肩に担いだこともない。その重さも暗みも潰されそうな悲しさも、何も知らない。
「君は捨てなかった。君は組頭を見捨てなかった。あの合戦場で組頭の声を逃さなかった。組頭の存在を見逃さなかった。目を逸らさずにいてくれた。ありがとう」
 高坂は頭を下げた。
「そんな。高坂さん、そんなことはしないでください。困ります」
 伊作は慌てた。畏まって頭を下げられることには慣れていないし、そんなことを高坂にしてもらうわけにはいかない。
「……あの合戦場で、組頭が自ら君に身体を預けたのだと知って……正直、最初は驚いた。組頭の考えていることがよく分からなかった。でも、君が先ほど森で足を負傷したとき、組頭は君を助けた」
「それは僕が足手まといで……」
 高坂はゆっくりと頭を持ち上げた。
「違う」
「違いません。高坂さんにも分かったでしょう。あのまま僕が追っ手に捕まってしまったら、雑渡さんたちのことがバレて、もしかしたら忍務内容も明らかになって、僕がタソガレドキを無茶苦茶にするところだったんです」
「君は分かってない」
「分かっています。僕がもっと強ければあの人の足手まといになんてならなかった」
「そうじゃないだろう」
 高坂の声が響いた。
「君はあの人に背負われたんだ。あの人は無防備な背中を君に晒したんだぞ。森の中に君を置き去りにしたとしても残党は私が処理をする。私たちの足を追わせることも何かを掴 むことも不可能だ。組頭は君を置いていくことも、最悪、始末することもできた。できることをしなかった。なぜだと思う」
「……」
 伊作は分からないという風に首を横に振った。
「したくなかったからだ。君を置いていくことも始末することもしたくなかったからだ。君が悲しむことはしたくないと、組頭はそう考えおられる。現に、私はあの時、追っ手を殺すなと命令された」
「それは……」
 確かにそんなことを言っていたような気もするが、しかし。どうして伊作のためにそこまでするのだろう。
「君のことが大事だからだ」
 まるで伊作の心を読んだかのように、高坂は言った。
「誰もが君の強さに魅かれている」
「……僕は強くなんてないです」
 伊作は低く呻いた。唇を噛み締める。伊作のどこを探しても強さなんてものは見つからない。他人に迷惑と厄災を振りまくだけの存在だ。それだけの存在。そんな存在なら、存在しない方がいい。そう思い知ったことは数知れない。
「君と私は似ている」
 高坂がほとんど囁くように言った。
「高坂さんと僕が……? まさか」
 高坂が冗談を言っているようにしか思えなかった。高坂と伊作ではまったく違う。それとも、高坂の目には何か違う伊作が映っているのだろうか。
「一つ訊きたいことがある」
 高坂は話を切り替えた。
「何でしょうか」
 伊作は身構えた。
「君は組頭のことが好き?」
 予想外の質問に伊作は顔を赤くしてのけぞった。高坂は噴き出した。
「すまない。別に変な意味で訊いたんじゃないんだ」
「はい。いえ、あの……。好き、です。本職の忍者は忍たまの憧れですから」
 本当はそれだけの「好き」ではないかもしれないと思いつつ、伊作は当たり障りなく応えた。
「そう。私も憧れていた。好きだった。好きなのに助けられなかった……」
 高坂の丹精な横顔に影が差す。
「もしかして、雑渡さんの火傷……」
 伊作の読みは当たった。高坂は深く頷いた。
「当時、小頭だったあの人は自分の部下を庇って大火傷を負った。私は傍にいなかった。あの人の傍にいると決めていたのに。何もできなかった。助けられなかった。好きだったのに。どんな時もお守りするんだと決めて約束をしたのに。私は約束を破ったんだ。どんなに組み手が強くても、どんなに忍術が上手でも意味がない。肝心な時に役に立たなきゃ意味がなかったんだ。私は自分を信じられなかった。私は私を要らないと思った」
「高坂さん……」
 伊作は高坂を見つめた。高坂は今でも過去の中なのだと思った。昔、何があったのかは分からない。分からないから知りたいとは思う。けれど、今それを訊いたら高坂が壊れてしまう。ただでさえ、昔話をする高坂は後悔でぺしゃんこになりそうな顔をしてるのだ。
「私はあの人に返しても返しきれない程の恩を受けた。私が今、私として生きていられるのはあの人のおかげなんだ。でも、あの人がもう助からないかもしれないと分かった時、いっそこの世から消えてしまいたいと思った。あの人のいない世界では生きている意味もない」
 伊作は息を呑んだ。どう言葉を返していいのか分からなかった。伊作よりもはるかに大人で強いと思っていた高坂の弱い部分に素手で触れてしまったような気がした。高坂にとって雑渡は、世界の全てだったのだ。
「今でもそう思いますか……」
 かろうじで伊作はそれだけを言った。
「思わない」
 高坂はきっぱりと言った。その目は真っ直ぐだった。この人は勝ったのだと思った。逃げて小さくなってうじうじ悩むんじゃなくて、自分に勝ったのだ。多分、その時のことを思い出せば潰れてしまいそうになるのだろう。雑渡の側近である高坂ならば、いやな記憶を掘り起こす雑渡の傷と毎日見ることになる。その度に消えてしまいたいと思った自分が浮かび上がってくるのだ。それでも高坂は雑渡の傍にいる。きっとそこは強い人間の立つ場所なのだ。何にも負けない強い人間が――。
 ――この人に守られて雑渡さんは生きている。
 伊作は目が眩んだ。
 高坂はタソガレドキのために、そして雑渡のためにたくさん走ったのだろう。たくさん傷ついてたくさん笑ったのだろう。雑渡は命がけで部下を助けた。高坂は一生をかけて雑渡の傍にいる覚悟ができている。
 伊作は誰かのために、何かのために走ったことがあっただろうか。走るどころか背負われて、守るどころか守られている。
「高坂さんはすごい……」
 怒りにも似た情動が腹の底からせり上がってくる。高坂を尊敬し羨む一方で、伊作は自分の中に嫉妬の念があることに気づいていた。
「僕はいつも学園の課題で最悪の評定を貰います……。夏休みの課題も上手にこなせない……。合同演習では級友に迷惑をかけてばかり。さっきだって、雑渡さんの足手まといになりました」
「……」
「本当は分かっているんです。忍びとして自分がどこか逸脱していること……。合戦場に飛び込んで手当てして……誰かにすごいと言われるたび、本当は苦しかった。僕なんて全然すごくない。雑渡さんとか高坂さんとか尊奈門さんとか学園のみんなに比べたら全然すごくない」
 伊作は涙が盛り上がりそうになるのを必死でこらえた。
「君はすごいよ」
 黙って聞いていた高坂は言った。
「私は気遣いが出来ない人間だから思ったことしか言えない。だから君のことはすごいとしか言い様がない。あの夏の合戦で、私はまた失くすところだった。また後悔するところだった。でも、君があそこにいたから、だから私は今、背筋をのばしてここにいられる」
 伊作は首を横に振った。
「本当にすごい人間なら、忍者に向いてないとか言われないはずです」
「……だそうですよ、組頭」
 高坂が振り返った先に雑渡が立っていた。
「何をきゃいきゃい可愛く騒いでいるかと思えば、そんな押し問答をしていたのか」
 雑渡はやれやれという風に肩をすくめた。
「お早いお帰りでなによりです」
「うん、ご苦労」
 頭を伏せた高坂に、雑渡はちょっと手を上げてみせた。
「……雑渡さん、あの、僕……」
「こら。子どもが夜更かしするんじゃないの。そうじゃなくても明日は早くに発つんだから」
 雑渡は幼子を叱るように言った。
「陣左もだよ。夜更かしはお肌の大敵! さ、みんなで寝るよ。っていっても雑魚寝だけど」
 結局、その日は三人で火を囲んで床に着いた。伊作は落ち着かないままに目を閉じた。


 つづく
20120524



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